クリティカルシンキング、略してクリシン。一つの思考から始め、自分の思考の原点を探り出す、人類が神より奪いし知恵の、究極の秘術……。

 

皆さんこんにちは。

考える力を身につけ、自らの頭で考える思考回路:「クリシンマインドセット」の育成プログラムへようこそ。

 

この回では、洗脳のもたらす最も残酷な結末について、最後の上位2位を紹介します。

 

洗脳がもたらす10の悲劇

  1. 時代の変化についていけない化石脳
  2. コミュニケーションが図れなくなる誤解力
  3. 与え損になる超過損失
  4. 情報弱者になってしまう論理難
  5. 政治に興味がなくなる積極的無関心
  6. お金持ちになれない貧乏思考
  7. 挑戦ができない無気力
  8. 幸せになれない幸福全力回避
  9. 「ボケの原因はこれだった!?」思考完全停止
  10. 必殺「リスカ」と最終奥義「自殺」

 

いよいよこの回もラスト、後編です。一番強烈な悲劇を9と10に集約させました。

 

9・「ボケの原因はこれだった!?」思考完全停止

 

洗脳の恐怖第2位は、思考完全停止です。この段階まで思考停止が進むと、もう思考を取り戻すことは永遠に不可能になります。

 

「思考とはなんぞ?」と言う事については詳しくは、「クリシンマインドセット編」で触れますが、簡単に言ってしまうと、考えるというのは「その出来事が成り立つか成り立たないかを頭の中でシミュレーションするプロセス」の事です。この時、そのとある出来事の中では様々な小さな出来事が連なっているわけですが、それらをいかに矛盾なく繋げる事ができるかで、頭の良さとは決まります。考えるとはそういう事です。

 

しかし、洗脳とは、あらかじめ用意されたこの出来事のつながりの完成図を「これが正しいんだよ」と言って教える事で、小さな出来事同士をつなぐのに必要な時間をショートカットするというアドバンテージを持っています。

 

例を挙げると、数学。紀元前より何千年もかけて数学の知識は蓄積されていきました。歴史を通して天才と呼ばれた人たちが、数学に関する小さな出来事を矛盾なく繋げていった結果です。しかし、我々は数学を身につけるのに何千年もかけてはいません。なぜなら、すでに繋がった出来事同士を「これはこうだよ」と言われ、出来上がった完成図をもらっているからです。

 

こうすることにより、迅速に知識を蓄積することができます。なので効率がいいのです。しかし、せっかくなら一人にではなく、大勢にいっぺんに知識を与えた方がより効率がいい。そう言うアプローチから、集団型学習というコンセプトが生まれました。さて、より多くの人により早く知識を蓄積させるには、その多くの人ががしっかり集中して話を聞く必要がありますよね。一人が別のことやっていて、他のみんなの集中が削がれてしまっては、元も子もないですから。「校則」や「禁止事項」などは要は、その集中を促すために存在しているのです。

 

その一方で、集団学習による知識とは、手軽に手に入れた情報です。その情報の重みやありがたみまでは伝わりません。かつてその知識を発見した人たちは、手に汗握る努力と人生の多大な時間の投資という犠牲によって、やっと掴んだ勝利の栄光なのです。かたや、訳も分からず一年そこらで暗記させられた黒板の文字の羅列。どう重みが違うかは、一目瞭然でしょう。学校は、その「知識を努力によって得る」という時間のかかる事をやらせないわけですから、知識を詰め込むのだけは早い一方で、その知識の消失も早いのです。だから学校を卒業すると、皆さん何もかも忘れてしまうのです。

 

手っ取り早いジャンクフードばかり食べて偏った栄養を摂取しているといずれ体を壊してしまうが如く、手っ取り早い情報ばかり取り入れて偏った知識を採取しているいずれ人々の心が壊れてしまう学校は、ジャンク知識屋なのでしょう。

 

これが、「丸暗記」の正体です。要するに、人間味に欠けている情報の塊なんて、誰も興味がないのです。それなのに、とりあえず暗記しておかないとやばいという事で「とりあえず」暗記しておきます。「とりあえず」というのは、「今は深く考えずに今は急いで選択をする」という意味合いがありますので、丸暗記のプロセスのどこにも「思考」というフェーズはありません。さらに、興味のない情報の塊ですから、パズルを転がすように頭の中で情報を反すう思考しようなどと言う人はあまりおらず、学校で教わった知識について考えることなどありません。どっちにしろ、考えなくてもいう通りにしていれば、「輝かしい未来が来る」と約束されているわけですから、どうして無理して考える必要があるわけでしょうか。

 

このようにして、学校というもっとも学生に「思考法」を教えるべく機関はその真逆を教え、それを「思考だ」と謳っているわけです。そのため、あなたは今自分が思考していないことは愚か、その事実を把握することもできずに、知らず知らずのうちに思考力が低下していくのです。

 

その思考力低下の過程でも、あなたが考えるチャンスというのはいつも現れます。「選択の瞬間」です。人生とは選択だと言いますよね。実際、人生において我々は常に選択に迫られています。そしてこの選択一つ一つで我々は答えを出すために考えるきっかけが与えられます。考えるというのは、それぞれの選択の結果がどうなるか、というのを脳内でシミュレーションする作業ですから、そのシミュレーション結果をみて、自分の望む結果を示してくれる方を選択するのが、正しい選択のあり方です。

 

しかし、あなたはすでにシミュレーション結果を社会や学校に「答え」として貰っているわけですから、「思考」のフェイズをスキップして「選択」をするわけです。これが「思考停止」と呼ばれるものの正体です。つまり、選択というプロセスに置いて脳内シミュレーションフェイズをスキップすることが思考停止と言うことなのです。

 

人生は有限なので、あなたの人生における選択の回数も有限です。この思考停止を人生の各選択の場で一つするごとに、あなたの人生での思考のチャンスは一つ、また一つと減っていくわけです。そして、思考停止とは車の減速のようなもので、少しずつでも減速し続けると、ある時完全に停止してしまいます。これが思考完全停止です。

 

なお、思考完全停止については、現在は仮説の段階です。思考停止を繰り返しているうちに、ある時完全停止するだろうと、私が勝手に睨んでいるだけです。そのような学術的表現があるわけではありません、今の所は。

 

ですが、私も「気分」でそう言ってるわけではありません。思考完全停止説で考えると非常に辻褄の合う社会現象が一つあり、その現象のおかげで私はこの仮説に至ったのです。つまり、論理的に考えたら導かれた結論だったということです。その辺にいる論理性皆無の気分屋の語るサンプル数1の意見と一緒にしてもらっては困ります。理論的思考に寄るシミュレーションの結果、とある社会現象は思考完全停止が引き起こしてる可能性がある事を突き詰めたというだけです。なので、正しい可能性が非常に高いでしょう。では、その社会現象とは何か?

 

「ボケ」

 

そう、ボケとは、思考停止が進みに進んで頂点を極めた思考完全停止の状態ではないか、という結論に至ったのです。

 

ボケとはそもそも、脳の細胞が死亡していくことによって思考力や記憶力の機能が十分に発揮できなくなる現象を表した名称です。脳が死亡したら、確かに考えることはできませんよね。ここで注目していただきたいのが、

 

「さて、脳が死んだから考えられなくなったのか、それとも考えることをやめたから、使ってない不要な細胞にリソースを割くことをやめてそれで脳細胞が死んだのか、さあどっちでしょう?」って話です。

 

思考停止のプロセスをみんなが同じ時間経験し、みんなが同じような頃にボケ始める。これは、思考停止開始から完全停止までの時間がどれくらいあるのかを、我々に指し示しているのではないでしょうか。7歳で学校に通い始めた人が67歳でボケた場合、思考完全停止にかかった時間は60年だと言うことになります。だいたいそれくらいの時間を要するのでしょう。

 

この仮説は、これから検証や研究を続けて明らかにしていきたいところではありますが、もしもボケが思考停止の成れの果てだというのが真実だとすると、思考停止を促す洗脳がいかにヤバいかということが、おわかりいただけるのではないでしょうか。

 

もし、私が将来(糖尿病など、脳細胞を殺す可能性のある病気にかかる以外で)ボケたら、この仮説は水泡に帰します。その時はみなさんセーフですが、もし私がボケなかったら、さあ、みなさんどうするか。よく「考えておいて」ください。みなさんも、今のうちから身の回りでボケていく人々が、洗脳民だったかどうかをしっかりチェックしてみてください。みなさんの観察が、この研究の糧となるのです。

 

洗脳民の見分けかたについては、次回の「洗脳民に見分けかた」でじっくりと解説してきます。

 

要するに、洗脳は人の思考力をそぎ、そうやって減っていった思考力はある時底をつきます。そうなると、本当に脳細胞までもが死ぬことになり、その結果ボケに至ると言うことです。洗脳とは、取り替えしのつかない悲劇をも生み出すということです。

 

さて、次がいよいよ最後にして最大の悲劇です。取り返しのつかない悲劇は、ボケだけではありません。洗脳が及ぼす最大の悲劇とは一体なんなのか?

 

 

10・必殺「リスカ」と最終奥義「自殺」

 

洗脳の悲劇ランキング第1位は、自虐です。ドラッグ、犯罪、自虐、引きこもり、リストカット……。皆さんは、心を病んでいるから人はこのような自虐行為に人が走ると思ってますよね。まあ実際そうなんですけども、今まで誰も、どうして人が病むのかについて明確な答えを出せずにいました。「社会的重圧に耐えられなかったから」「経済的に危機だったから」などという、一見何か言ってるように見えて実質何も言っていないようなふんわりとした表現で済まされるのが現状です。

 

しかしこれにも洗脳が大きく関与しています。と言うか洗脳軸で考えると全てがつながるのです。それを今から説明していきましょう。

 

社会は、洗脳された人たちによって構成されています。みんなが同じ色に染まっていると考えれば想像しやすいでしょうかね。その中に、一人だけ色の違う人がいます。さあ大変だ。同じ社会に居続けるためには、当然その人も同じ色に染まらなければいけません。しかし、色が違う。さあ、社会はそういう人をどうするでしょう?

 

悪だといい、批判し、追放します。しかし追放してる裏で、みんなは、「自分も色が変われば、あいつと同じ運命をたどるんだな」と、肝に銘じるわけです。これが、第3講で扱った「恐怖」と「孤立」の話です。

 

そんな時、さあ、ついにあなたの色が変わり始めてしまいました。つまり、思想が変わり始めてしまったのです。本項であげている様々な悲劇があなたの身に起き始め、社会のあり方に疑問を抱くようになったからです。あなたの正義感は、「元の色に戻れ!」と右からささやいています。その一方、左側からは「それでいいんだ。それがお前の本当の色だ!」と言っています。あなたは、右側が天使で左側が悪魔のささやきだと社会に習っており、悪魔のささやきにおいそれと耳を貸すこともできません。しかし、天使のささやきにも募る疑問が邪魔して二つ返事で承諾できません。これがジレンマです。

 

このジレンマに悩みに悩んだあなたは疲れ切ってしまい、ついに第3の自分を開拓するのです。それこそが本当の悪魔、「破壊衝動」です。どうして破壊衝動がここで出てくるのか。それは、あなたがジレンマに板挟みになるということが、「自由を脅かされること」だと感じるからです。そもそも、「悪魔」と社会が呼んでいるのは、実はあなたが生まれつき持っている内なる声のことで、「天使」というのは社会があなたが社会の都合のいいような人になるために植えつけた「訂正役」です。あなたは、訂正役に本来の内なる声を聞くことをずっと抑制されている事態に自由の束縛の脅威を感じ、それが恐怖になるのです。なので、その自由を取り戻すためにあなたは、最も手っ取り早く「自分は物事をコントロールできるんだ」と言う裁量を確かめることのできる行為に走るのです。

 

それが犯罪であり、自虐であるのです。犯罪とは、「やってはいけない事ができちゃうほど裁量がある」という心理の表れです。その実態は脆く儚いものでも、窮鼠猫を噛むかのごとく、退路を断たれたあなたは自身の尊厳をかけて自由を手に入れるために、禁忌に手を染めるのです。

 

自虐もそうです。よく行われるのがリスカですよね。心を病んだ人が、リストカットに安心感を求めに走るといった、一見すると矛盾した行為ですが、これにも裁量が深く絡んでいるのです。

 

病むというのは、洗脳によって植えつけられた思想と、自身の生まれ持っての思想がぶつかり合って、その狭間で心が自分の道しるべを失って窮屈な感じになる状態のことです。そんな閉所恐怖症の様な状態から逃れるために、手っ取り早く破壊活動をするための犯罪以外の対象として、自分の身体を選ぶ。これが手首だとリスカなのです。「私はいつでも自分の命を断つことができる。生きるも死ぬも、全ては私の思うがまま!」と自分の裁量を再確認し、本来人間がやらない行為をあえて行うと言う形で他人との差別化を図り、自分が自分であると言う感覚、つまりアイデンティティを確保する。どんな形であれ裁量とアイデンティティさえ保てれば、その場しのぎのジレンマ対策は打つことができます。これがリストカットする心理です。

 

しかし、犯罪にしろ自虐にしろ、一時的な裁量の再確認とその場しのぎのアイデンティティの確保では根本的な問題は解決したことにはなりません。なのでジレンマに落ち入いる度に同じことを繰り返すのです。そんな日々に、心の安息は果たしてあるのでしょうかと言うことです。どっちかというと延々と繰り返される地獄の様な泥沼を常に味わい続けることになるでしょう。

 

さて、この様な状況に陥りがちな人の特徴として、「正義感に燃える人」か「社会の落ちこぼれである」という事態が多く見られますよね。どうして、正義感ある人や社会の落ちこぼれはダークサイドに落ちるのでしょう?

 

正義感に溢れる人の場合は、仕事の内容が自分の倫理に反する内容であり、それを無理やりとは言え自らの手で自分の正義に反する行いをしてしまった事に対する自責の念が、その人を疲弊させダークサイドに誘い込みます。

 

人には、「認知的不協和」と呼ばれる、今自分が行っていることは自分の信念に基づくものなのだ、と思い込む心理があります。しかし、自分の信念に基づかない行動をした場合、このまことの信念と認知的不協和によって無理やりこじつけられた信念が矛盾し、それが心にジレンマを生み出しアイデンティティをごっそり持って行ってしまうのです。ジレンマとアイデンティティの関連については、「洗脳の正体」の講義で詳しく説明しますが、アイデンティティを失ったらあとはやることはただ一つです。ダークサイドに潜り込んで迅速にその場しのぎのアイデンティティを確保することです。

 

次は落ちこぼれの場合です、彼らがダークサイドに落ちる理由として、彼らが社会に認められない事によって、彼らの承認欲求が満たされなくなると言うのが挙げられます。承認欲求が満たされない場合も同様で、人はアイデンティティを喪失します。つまり自分の立ち位置を見失うのです。

 

本来、承認欲求は個性的に生きていても満たされます。というより、個性とはアイデンティティを探し続けるシステムのことなので、承認欲求が満たされない場合、試行錯誤で別の方法を模索する機能が人間に備わってるのです。

 

しかし洗脳が絡むと話が変わってきます。洗脳は、あなたに「たった一つの正義とそれ以外の全ての悪」を教え込むので、あなたは試行錯誤する事に対してブレーキをかけてしまう。そのため、承認欲求が満たされない時に新たな試行錯誤に切り出せないままになってしまうのです。

 

これによりジレンマが生じ、あなたは迷子になってしまうのです。承認欲求もない、アイデンティティもない。そうやって身も心もボロボロにしながら悶着を繰り返してるうちにやがて気づくのです、「あ、これ出口ねえわ。オワタなやつだ」。長年の思考力の低下のツケも合わさって、「洗脳解除」という根本的な解決策が見出せないあなたは、犯罪や自虐に走り、失われたアイデンティティを急速に補おうとします。しかし、中には恐怖心が勝りダークサイドに落ちる勇気のないものや、ダークサイドの中で終わることのない地獄の連鎖に気付き、もう「たった一つの希望とそれ以外の全ての絶望」しか残されていないという結論に陥ります。

 

そして、そのたった一つの希望に手を伸ばそうと、最後の手段を取るのです。それが

 

自殺

 

洗脳による最大の被害は、自殺です。では、一体どう言った仕組みで、彼らは自殺に最後の希望を抱くのでしょうか。

 

 

A.もう死んでるようなもの

 

そもそもアイデンティティを失うとなぜ生きる気力を失うかという話ですが、ここでもう一度、アイデンティティの定義を確認しましょう。

 

アイデンティティとは、「生きる術」に直結しています。文化人類学で言うところの社会とはもともと、個人が生存することを目的に、各個人が同盟を結び団結した集団のことを指します。なので究極の意味では社会の役にたつと言うのは、その集団に暮らす人々が生存できるような術を供給できると言うことを指します。なので、そんな助けができる人に、つまり生きる術を提供できる人に、社会は居場所を与えると言うわけなのです。この居場所こそが「アイデンティティ」なのです。

 

教育は単に、そのアイデンティティの手っ取り早い獲得法を教えているに過ぎいません。そのため、多くの人がその同じアイデンティティを獲得し社会が同義のアイデンティティで飽和状態になり、そのアイデンティティの需要がなくなります。居場所というのは、議席みたいなものです。同じ席に二人同時に座ることはできません。同じアイデンティティが二つあれば、そのうち一つは必要ないのです。結果として居場所を奪われアイデンティティを喪失するものが出てくるのです。

 

したがってアイデンティティを失うとは、生きる術を持っていないことを宣言されるのと一緒なのです。こうなると、アイデンティティを失った人は、死刑宣告を受けた人と同じ感覚で、もう既に死んだも同然という感覚に陥ります。実質死亡しようが、このまま存在し続けようが、大して変わらないのです。死が約束された人に、もう希望は一つしか残されていません。それが

 

「死後の世界」

 

B.プロスペクト理論

 

そして、ここで最後のトドメを刺しにくるのが「プロスペクト理論」と呼ばれるバイアスです。これは、「利益が出ているときは慎重になり、損失が出ると大胆になる」人間の心理ですが、この土壇場でそれが発動してしまうのです。損失というのは、絶望の状態のことも指します。なぜなら、絶望とは、「希望を損失する」ことを表しますから。

 

さて、ジレンマに疲弊しきって、アイデンティティを喪失し死刑宣告を受けた人というのは、全てを失ったと感じ、そこから挽回していくには、もう最後の賭けに身を投じたい衝動にかられます。死によって失うかもしれないリスクへの恐怖より、死によって得られるかもしれないリターンが大きいと考えるようになるからです。彼らは、死後にかけているのです。

 

しかし、精神が極限状態にない人は勿論、死後に賭けると言う判断は下しません。なぜなら、人は調子がいい時は慎重になるからです。死ぬと言うのは、生きとし生けるもの全てにとって「最大のリスク」です。死後は楽かもしれないし、もっと辛いかもしれない。しかし、プロスペクト理論のバイアスによって人は窮地に陥れば陥るほど、自殺という最後の賭けに出たくなってしまうのです。

 

 

 

 

以上が、自殺の原因が洗脳に起因するという心理学的なカラクリです。信じられないかもしれませんが、私の知る中で洗脳解除していて自殺した人を未だかつて知りません。自殺の全ての原因が洗脳であると断言はしませんが、いわゆる病んで自殺するタイプの自殺は、十中八九洗脳が原因なのです。

 

洗脳され、教えられた通りにする事で承認欲求を満たしていた学生時代が終わり、社会に出て承認欲求が満たされなくなりアイデンティティが喪失する。それによりあなたは、失ったアイデンティティを早急に取り戻すために、勇気ある者は「破壊衝動」を用いて束の間のアイデンティティにつかの間の安堵を感じ、勇気のない者はただこうべを垂れ絶望する。そしてやがていずれの場合も社会に自分の居場所がない事を悟り、絶望の末に最後の大逆のチャンスとして、際凶の破壊活動しにして最大の博打、「死後の世界」にプロスペクト理論の導くままに全てをかける。これが自殺の正体です。

 

 

結論

 

以上の10の項が、洗脳の引き起こす悲劇の数々になります。これを読んでいる時点で皆さんは、「何を大げさな」と言っているかもしれません。確かに、極端な場合もあります。しかし、極端なのと大袈裟なのとは違います。

 

人には、「正常性バイアス」と呼ばれる、非常時でもそれは自分とは関係のない事だと思い込む心理があり、皆さんが大袈裟だと思うのはそのバイアスが働いているからと言うことがあり得るのです。なので、その色眼鏡を外して冷静な分析力をもってこの記事をめば、内容に筋が通っていて十分ありうるということがお分かりになるでしょう。

 

いや、心のどこかではもうお気づきになっているのかもしれません。それを、楽観バイアスや正常性バイアスで必死に押さえつけようとしているだけなのかもしれません。しかし、今芽生えたその一点の心の曇りはやがて大きな不安の波となって皆さんに押し寄せてくるかもしれません。

 

そうなってパニックになる前に、適切な対処法を身につけて置くことが何よりの対策になるのです。本プログラムで勧めようとしているクリシンマインドセットとは、これらの洗脳による悲劇を対策するための技法なのです。

 

さて、そのクリティカルシンキングの具体的なプロセスを説明する前に、まだまだ洗脳について語ることはいくつかあります。まずは、自己診断をすることが重要です。みなさんや身の回りの人たちがどれほど洗脳されているのかを把握する必要があります。ということで、次回では洗脳された人をどうやって見分けるかについて、解説していきます。それでは第12講「洗脳民の見分け方」でお会いしましょう。