クリティカルシンキング、略してクリシン。一つの思考から始め、自分の思考の原点を探り出す、人類が神より奪いし知恵の、究極の秘術……。

 

皆さんこんにちは。

考える力を身につけ、自らの頭で考える思考回路:「クリシンマインドセット」の育成プログラムへようこそ。

 

この回では、教育の手法や、教育が個人にあたえる影響などの観点から、洗脳と教育の結びつきについて見ていきます。

 

 

 

洗脳と教育

 
 

これから「洗脳」と「教育」という二つの概念を比較するわけですから、それぞれの単語について、しっかり定義していき、足並みを揃えておきましょう。なので再び、クリシンマインドセットにおける洗脳の定義を今一度確認しましょう。

 

「第3者の利益になる思想に人を導くことを、洗脳という」

 

この一点のみにおいて、我々は一つの価値観が洗脳によるものかどうかに分類するとします。

 

普通、洗脳というと怪しい宗教団体や危険な国家の秘密警察の工作、などとたくさんのネガティブなイメージを持っていると思います。そして、洗脳が歴史的にそういう背景から生まれたのも事実です。しかし、実際に洗脳とは、どこでも起きうる非常に日常的な出来事です。今でも洗脳は国家がらみの工作でも利用されていることに変わりはありませんし、「セールス」など、日常会話などでも洗脳は多くみられるのです。

 

今回は、その国家がらみの洗脳の最たる形が実は「教育」だった、と言うことを皆さんに説明していくことになります。

 

 

そこで今度は教育の定義ですが、

 

「個人の能力を伸ばすために技能を学習させ育てることを教育という」

 

ということにします。

 

Wikipediaを見てみると「教え育てることであり、ある人間を望ましい状態にさせるために、心と体の両面に意図的に働きかけることである」とありますので、上記とは矛盾しないということがわかるはずです。

 

 

教育の目的とは?

 

ここで、教育の定義にある「望ましい状態」と言う単語に注目してみましょう。ここでいう望ましい状態とは、どういうことを指すのでしょう?

 

それは、利益を生む状態ということです。あなたは教育によって望ましい状態になるのだとしたら、それは技能を会得し、それが収入につながり利益になるから望ましいのです。また、学習する前にできなかったことが、学習後にできるようになる。これにより、金銭的利益にかかわらず、知識欲、技能欲を満たすという、満足感というものも、この利益に含むことができます。この知識や新たなスキルによって、人脈も広がったりします。新たな人脈は新たな可能性を呼び、あなたの人生が充実します。この、「人生を充実させるもの」の事を便宜上「利益」と呼びます。したがって、利益を生む状態というのが「望ましい状態」だという事なのです。

 

では次に、誰にとって望ましい状態なのかを見てみましょう。wikipediaではその部分は明確に定義されていません。

 

「本人にとって望ましい状態」なのかもしれませんし、「クラスのリーダーにとって望ましい」のかもしれませんし、「先生にとって望ましい」や「学校にとって望ましい」、「地域にとって望ましい」なのかもしれませんし、「国にとって望ましい」なのかもしれません。一体、誰に取って望ましいということなのでしょう?

 

もし、「本人以外の誰かに取って望ましい」のであれば、それは洗脳でしたよね。さあ、一体誰に取って望ましい状態にするのが、教育なのでしょう?

 

 

洗脳と教育の共通点

 
さて、では次に洗脳と教育がどう言う点で似ているのかを見てみましょう。「教育」という概念の本来あるべき理想の姿ではなく、現代において主に日本で行われている「実際の教育」を元に、今回は比較します
 
  1. 教育も洗脳も、外部から新たな思想・価値観に人を導いている
  2. 言われた通りにできたものは褒め、落ちこぼれは避難する
  3. 自由を制限する
  4. 従わない人を仲間外れにする
  5. 自分に指導する立場の者がいて、上下関係がある
  6. 集団生活
実は、探すと意外にも教育の中に洗脳の要素は多くあります。それもそのはずです。学校制度自体、産業革命時代に「読み書きができて、計算ができ、集団行動ができ、上司の命令を聞く人」の需要に対する対策として作り出された制度ですから。
 
その制度があまりに優秀だったため、この学校制度が日本に普及してからというもの、明治の日本は日清戦争や日露戦争でその軍力を持って勢力を拡大しました。忠誠心の高い兵のいる日本軍は、圧倒的に強かったのです。そして、昭和の高度経済成長もまた、国民の心が一つになった故に成し遂げられた偉業なのです。
 
心が一つになるとは、国民が同じ価値観を持つという意味ですから、学校が如何に国力の発展に必要不可欠だったかが伺えるでしょう。そう、教育というのは、受講者を「国にとって望ましい状態にする」ために存在する期間だったということです。
 
 

学校という洗脳機関

 

さて、歴史の話はここまでにしておいて、ここからは実際にどの様に教育が洗脳を施しているのかを見ていきましょう。学校の特徴を紐解いていけば、その洗脳的手法が浮き彫りになっていくのがお分かりになるでしょう。

 

まず、大前提として集団行動が挙げられます。集団での利益や効率を最大にする必要のある国家や企業にとって、集団行動に児童生徒がいち早く慣れてくれることが最優先です。そのため、制服や校則といった制限を全員に均一に課すことにより、個人の協調性を高めます。集団行動では、どんな行いがどんな結果を生むかが瞬時にわかる、つまり「飴と鞭」の様子をみんなで共有できるので、学習を迅速に行うことができるのです。隣で誰かが罰せられたら、あなたは同じ行いをしたくないと思うし、褒められたらあなたも同じ様にしたいと思うのが、人間ですから。

 

次に、この校則という措置は、国民を「理不尽な環境下での労働に対する我慢力を養う」という能力を向上させるのに欠かせません。たまに、

  • 外出時は公私問わず指定のジャージを着服すること
  • 下着の色は白で揃える
  • スカートの下に短パンを履いてはいけない

など、読者の皆さんの心の中がメラメラと燃え上がりそうな、とんでもない校則で社会的物議をかもすことがありますよね。この様な理不尽な校則の下で育った国民が大勢いるのと、劣悪な環境なブラック企業で働く人が多いのは、果たして偶然か?という話です。

 

そして、学校ではについてまるで教えません。禁断のタブーとなり、誰も口にしません。これと同じことが怒っているのが、宗教団体です。一部の特殊な団体を除き、アブラハム系統の宗教や仏教など、多くの主流な宗教は性を禁止しています。これは、性を抑止することで本能を抑止させるのが目的ではないかと思われます。

 

しばしば、洗脳もの小説などでも性は洗脳解除の暗喩として現れます。ジョージ・オーウェルの小説「1984年」などがそのいい例でしょうか。

 

性に限った話ではなく、夜間の出歩きや快楽の抑制などを積極的に行い、一種の禁欲状態に児童生徒を追いやります。このため、欲望によって得られる満足感を規制し、個人が安易に満足感を得ることを規制するのです。

 

 

学校では社会の規範と常識が教え込まれる

 
集団行動によって協調性をひき上げ、校則によって理不尽な環境に耐える我慢力を養い、性の禁止によって本能を抑え込む訓練を徹底的に受ける中、児童生徒たちは「正しき行い」についても教わります。
 
子供は、まだ脳の発達が完全ではないので、論理的な思考の枠組みを大人の様に組み立てることができません。そこで、脳が発達するまでは、その論理的な思考の先にある「解答」を大人が与えてやることになります。「正しいこと・間違ってること」はこの「解答」に当たります。ここで子供達は、どんな行いが「正しくて・美徳で・交渉で・賞賛に値する」かを学び、何が「悪で・下劣で・忌むべきもので・誰も喜ばないもの」なのかを教え込まれます。
 
この教え通りに行動するものは先生に褒められ、従わないものは厳しく処罰する。集団行動ですから、みんなの行いが監視されています。どんな行いがどんな結末を導くかが、一目瞭然になっているのです。
 
さて、この段階で多くの子供は「なぜ?」と質問します。私も子供の時質問しましたし、読者の中にもそういう疑問を持った方はいるでしょう。しかし、帰ってくる返事はいつも「そういうものだから」。これを不思議だと思ったことはありませんか?あるかもしれませんね。しかし、最初一瞬だけ、誰もがそこを不思議に思いつつも、集団行動による飴と鞭の繰り返しで、そんなことは次第にどうでもよくなっていきます。
 
その心理の背景にあるのが承認欲求と呼ばれる、「認められたい」という人間の基本的な欲望です。監視禁欲主義によって他の欲望が一切満たされないあなたは、疑問が晴れるよりも、自分が褒められ認められる方が手っ取り早く幸せを手につかむことを体感的に学習してしまうのです。実は、この「教えられた常識と規範を忠実に守ることによって承認欲求が満たされる」という学習が、社会問題の原因の根底に潜んでいるわけですが、それはまた次回詳しく説明するとします。
 
ともあれ、こうして子供達はルールを守って規則正しく生活することが褒められるという論理思考を幼いうちから学習してしまい、それで「なぜ?」と聞かなくなり、これが後の思考停止に繋がるのです。そして、国民をこういう思考回路に導いているのが学校であり、この学校に指示を出して制御しているのが国なのです。
 
 

結論

 
学校は、集団行動と、厳しい校則と、徹底された禁欲主義により、人間本来の満足感を麻痺させることにより、たった一つの報酬である承認欲求の満足感をルールを守った人に与えるという手法で人間を巧みに導き洗脳していきます。
 
この教育の洗脳から身を守るためには、手軽な「飴」に安易に手を伸ばさず、常に「なぜ?」と聞き続けることが重要になってきます。しかし時にその代償は厳しい罰則であることも覚悟しておかなければなりません。しかし、落ちこぼれや問題児など、いうことを聞かない児童生徒がたまにいますが、そういう人に限って大人になって化けるのは、こうした「洗脳されない姿勢」が関係しているということなのです。
 
ただ、「いい子」が通用するのは学生の時のみです。社会に出てそれが崩れた時、人が挫折と絶望を味わってしまうのです。なので次回では、この「いい子」がもたらす悲劇についてさらに詳しく語っていきます。というわけで、次回第9講「洗脳が引き起こす悲劇」でお会いしましょう。