マタイ20:29~34
学生の頃付き合いのあった「不良少年」たちは、いつも道端に座っていました。
通り過ぎる人たちに険しい視線を放射しながら。
なぜ道端に座っていたのかというと、彼らにはそこしか居場所がなかったからです。
家にも、学校にも、地域にも、彼らがホッと出来るような繋がりがなかったからです。
今日の物語に出てくる盲人たちも道端に座っていました。
イエスに「どうしてほしいのか」と問われた彼らは目が見えるようにしてほしいといいました。
イエスはその求めに応えて目が見えるようにしたのですが、これは「繋がりから排除されていた人が繋がりに戻された」ことを指しています。
私たちの周りにはたくさんの「繋がりから排除された人」がいます。
私たちは安全な場所から「その人たち」に「手を差し伸べて」「満足」していますが、繋がりの中にいると高をくくっている私たちもまた、いつ何時道端に座っている人になるか分かりません。
キリスト教会がたくさんいるはずの「道端に座っている人」から支持されないのは何故でしょうか。
それは教会のメンバーである私たち自身がこの教会を「安心して過ごせる居場所」だと思っていないからではないでしょうか?
薬物や暴走行為で次々と亡くなっていった「不良少年」たちの居場所になる。
学生の頃それが出来なかった私は、今もそれが出来ずにいます。
道端に座っていなくてもいい。
胸を張って
「いつでも来いよ!」
「美味いメシと温かいベッドくらいはあるで!」
といえるような居場所を作る。
小うるさい説教などせず、ただ黙って傍にいるような居場所を作る。
教会に使命というものがあるとすれば、
教会はそういう場所になることを求められていると思うのです。