ルカによる福音書24:36~43
■コロナと障害児福祉
新型コロナ感染拡防止に伴う自粛要請が出され
介護や福祉、保育の現場にも混乱が生じています。
障害のあるこどもたちへの通所支援をしているどすこいでは
3/2からの臨時休校以来、手洗い・消毒など感染予防に努めながら
「いつも通りのサービス提供」を行っています。
4/7の非常事態宣言に際して厚労省・市町村からは
要請の内容がそれまでの「出来る限りサービス提供を継続してほしい」から
「出来るだけ利用者を受け入れない」
「可能なら休業を」
という風に変化しましたが、
子どもたちとその家族にとっては
休校が続き互いにストレスが溜まるなか、日中だけでも、たとえ半日でも、
それぞれが離れて自分の時間を過ごせることはとても大切なことなのです。
もちろん。、子どもたちやスタッフ、それぞれの家族にコロナ陽性者が出たら
即座に事業所での直接支援は休業しなければなりません。
またスタッフは症状がなくても少なくとも2週間は自宅隔離となり、業務も在宅で出来る範囲のメールや電話などによる相談支援に切り替わります。
しかし、そんな事態になっても、自宅で長期間閉じ籠ってはいられない
命にかかわる差し迫った状況を抱える家族はおられるのです。
疲れ果てて虐待や自殺、心中などの事件が起きる可能性が高まるからです。
それを私たちは看過ごすわけにはいかないので、
どすこいでの対応が困難になった場合には、SaveForetXが森や田畑で「里山再生ランティア」として受け入れていきます。
■危機の時代の「正義中毒」
その一方で、世間では一つのルールだけが正しくて、他はすべて間違いであり排除されなければならない、という「正義中毒」の風潮が広がりつつあるようで気持ち悪いです。
※「正義中毒」についてはこちらのブログをご覧ください。
https://www.mylohas.net/2020/04/209713nobuko_nakano01.html?fbclid=IwAR3ex3etJqEMPaBT_vP0Mcr3SeZ4CMDNdFnd8xjj0lABJw9U9SPU1HiR7Go
電車に乗っていた乗客同士がマスクの着用をめぐって喧嘩になり、列車を緊急停止させたり、
緊急事態宣言が出た日から渋谷の街を本来腰に差しておかなければならない警棒を「手に持った」複数の警察官がパトロールをしていたり、
生活のため止むなく営業を続ける飲食店に嫌がらせをしたり、
長距離運転のトラック運転手の子どもさんが登校を拒否されたり
といった過剰な反応が続いています。
大本営の発表を鵜呑みにし、「一億火の玉」だの「欲しがりません勝つまでは」といったキャッチコピーによって同じ方向を向き、それとは違う方向を向く人を非国民と呼んで弾圧した時代と同じ臭いを感じるのは私だけではないはずです。
コロナ感染拡大防止のためには全員が家に籠っていなければならない、というルールだけを正義と位置づけ、そうでないものを徹底的に排除しようとする動きが広がれば
やがて満員電車で通勤するサラリーマンが襲撃されたり、医療従事者・看護従事者が不当に差別されたり、介護や福祉、保育などの直接支援の現場が暴力にさらされたり、といった事件にまで発展するのではないかと危惧しています。
■イエスの時代
さて、イエスの時代のユダヤも、危機の時代、不安で不安定な時代でした。
「支配者であるローマ帝国の意向に従うことが正しい」
「ユダヤ教の戒律を守って生活することが正しい」という価値観の下で、
そうでない者に対しては容赦ない攻撃をしかけるような「正義中毒」が横行する時代でした。
その中で、ガリラヤという田舎町でイエスと出会った弟子たちは
「この人こそ次代の王だ」
「この人こそ本当の祭司だ」
「この人こそ神の子だ」
という唯一無二の価値観、新しい正義を手に入れ、イエスに従って
意気揚々とエルサレムにやってきたのでした。
しかし、イエスが官憲の手によって捕まり、犯罪者として裁かれ、十字架に磔にされて処刑された途端、その新しい正義は崩壊し、
弟子たちは命惜しさに潜伏し、あるいはガリラヤに逃げ帰ろうとしていたのでした。
■イエスのプレゼンテーション
今日の聖書の箇所はそんな弟子たちに「死んだはずなのに甦ったイエス」が現れたという神話です。
弟子たちは遺骸を安置したはずの墓にイエスの遺骸がなくなっていることを知り(24:1~12)
そこに現れた二人の神々しい人(たぶん天使)からはイエスが甦ったことを告げられ(24:4~7)
エマオという街に逃げようとした二人の弟子たちは復活のイエスと出会い語らい、パンを裂いて渡され、それがイエスと気付きました。(24:13~35)
しかし弟子たちはこれらの話を聞いてもイエスの甦りを信じられず、喜びと不安と後ろめたさの中でゆれ動いていた。
その真ん中にイエスが現れたのです。
最初は亡霊だと思った弟子たちにイエスは手足を見せました。
十字架につけられた時の釘穴が痛々しく空いていたのでしょう。
あるいは身体を触らせて骨や肉があることを確かめさせたのでしょう。
それでも弟子たちはまだイエスの甦りを信じることが出来ません。
そこで(たぶんとても困り果てた)イエスが弟子たちを信じさせるためにとった最後の手段が
なんと「魚を食べてみせる」ということでした。
そしてこれを見て、弟子たちは「ああ、ほんとうに先生は死人のなかから甦ってここにおられるのだ!」と確信できたというのです。
■だから今日も踊れる
私は復活物語は本当にあった話ではなく、科学的にどうこうという話でもなく、ただ「復活とはこういうことなんだ」という事柄を伝えるための神話だと理解しています。
では復活とはどういうことなのかというと
それは
神様は私たちのさりげない日常にこそ共におられる、ということです。
誰かが決めたルールや
威張っている人の考えや
どこかから流れてくる無責任な言説に
神様がおられるのではなく
一人一人の当たり前の毎日にこそ
神様はそっと寄り添っていてくださる、ということです。
焼いた魚をムシャムシャと食べている
その姿を見て
ああ、イエスは死んだあとも一緒にいてくださると
神様は私たちを見捨てずにいてくださると
心底思えた。
その弟子たちのように、
私たちは驚くほど凡庸で
呆れるほど単調なこの日常のなかにこそ
イエスの姿を見るのです。
どんなに孤独な時でも
私たちは一人ではありません。
だから私たちは今日も踊ることが出来る。
今日も生き延びることが出来る。
それだけではなくさらに
「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われた場所に喜んで行くことが出来るのです。