ルカによる福音書24:36~43
■復活の知らせ
イエスが生きていた時
弟子たちはイエスを「この世の支配者」になる人だと信じていました。
先生は次代の王、本当の祭司であり、最後の審判すらこの人が司るのだと信じて、
意気揚々とイエスに従ってエルサレムにやってきました。
ところが、そのイエスが簡単に捕縛され、一方的な裁判にかけられ、犯罪者として処刑されたために
弟子たちは恐怖のあまりイエスとの関係を否定し、逃げ出し、潜伏したのでした。
イエスの死後三日目の夜、潜伏していた彼らにもたらされた知らせは
「三日目の朝に、香油を持って墓に行ったら先生の遺骸がなくなっていた」
「そこにいた天使に、先生は甦ったと言われた」
「エマオに逃げる途中で、先生と一緒になって、途中でいっぱい話した」
「夕食の席で一緒に賛美をし、パンを裂いて渡されたとき、それが先生だとわかった」
「その途端先生の姿が消えた」
といったものでした。
先生は生前、確かに「殺されて、三日目に甦る」と何度もいってたけれど
そんなことが本当に起こるとは誰も信じていなかった。
なのに、墓は空っぽだったし、先生と一緒に歩き、話し、食事をした者もいる。
でもそれは復活した先生ではなくて、先生の亡霊ではないのか?
といった議論が狼狽する弟子たちの中で沸き起こっていました。
■亡霊ではないことの証明
するとそこに、突然イエスが現れ、彼らの真ん中に立ったのです。
最初は亡霊だと思い恐慌状態となった弟子たちに、イエスは手足を見せました。
十字架につけられた時の釘穴が痛々しく空いていたのでしょう。
その釘穴からはまだ血が滴り落ちていたのでしょう。
あるいは身体を触らせて骨や肉があることを確かめさせたのでしょう。
しかしそれでも弟子たちは
まだイエスの甦りを信じることが出来ません。
そこで(たぶんとても困り果てた)イエスが弟子たちを信じさせるためにとった最後の手段が
なんと「魚を食べてみせる」ということでした。
そしてこれを見て、弟子たちは「ああ、ほんとうに先生は死人のなかから甦ってここにおられるのだ!」と確信できたというのです。
■イエスと弟子たちと魚
思い返せば、イエスと弟子たちの出会いはガリラヤ湖の畔でした。
漁師だったペテロやヤコブに
「お前たちを、人間を漁る漁師にしてやろう」と呼びかけたイエスの言葉から
イエスと弟子たちの旅は始まりました。
イエスと弟子たちはいつも
腹が減ったら
そこらへんにある枯れ木を集めて火を熾し
その焚き火で魚を焼き
パンと一緒に食べていたのでしょう。
大勢の群衆の空腹を満たしたのも
二匹の魚と五つのパンでした。
朝も昼も夜も
弟子たちは焚き火に揺れる
先生の顔を見つめながら
先生の話に熱心に耳を傾けていたのでしょう。
だから、
いま目の前で魚を食べている
手づかみで、ムシャムシャと魚を食べているこの人の、
この食べ方は、
間違いなく先生だ!と
弟子たちは確信することができたのです。
私は聖書に出てくる奇跡物語はどれも神話であって
科学的な歴史物語ではないと理解しています。
復活の奇跡もまた「どんな時でも神さまはあなたを独りにはしない」という
メッセージを伝えるための神話として読んでいるのですが、
この「弟子たちに魚を食べてみせるイエス」の物語を読むと
処刑され埋葬されたイエスは、もしかしたら本当に甦って
弟子たちの前に現れたのではないか、と思ってしまうのです。
それくらい強烈なリアリティが、この場面には溢れています。
それにしても
「こいつらには、こうすれば、自分が誰であるかをすぐに思い出してもらえる」というその方法を分かってもらえている、イエスと弟子との関係性は
何と麗しいものかと思います。
寝食を共にし、
苦楽を共にし、
旅を共にし、
同じものを見上げ、
それを目指して一緒に歩いてきた
イエスと弟子たちの関係をとても羨ましく思うのです。
焼いた魚をムシャムシャと食べ
笑顔で私を見てくれているイエス。
その姿を見て
ああ、イエスは死んだあとも一緒にいてくださると
神様は私たちを見捨てずにいてくださると
心底思えた。
その弟子たちのように、
私たちは驚くほど凡庸で
呆れるほど単調なこの日常のなかにこそ
イエスの姿を見るのです。
どんなに孤独な時でも
私たちは一人ではありません。
だから私たちは今日も踊ることが出来る。
今日も生き延びることが出来る。
それだけではなく、さらに
「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われた場所に喜んで行くことが出来るのです。