今、記録を、と思って「あれ?」っと気づいた。
30〜50日頃のような虚無感、無気力感がおさまっている?
不安定な、何とも落ち着かない感覚が、無い。
「それ、気になるな……」は、ちょこちょことまだ浮かぶのですが、スルーが自動的にできるようになった? ということ??
浮かぶ頻度自体も、減っていると思う。
読書をしていても、「知ろう!」と決めて読んでいない。
動画やドキュメンタリー作品を観ていても、「ただ観る」感じ。
引いている感じ。
メタ認知ってやつみたいな。
自分に、フィルターする感覚というのかなぁ。
これ、大学時代に抑うつ症状が出た時や、記憶から抹消気味の中学暗黒時代(まさに厨二病)が、常時この感じで、たいそう「よろしく無い」感だった。
自分は意図せず、何もかもにフィルターかけてしまって、無感情・無感動、いわゆる「離人」感は、心の防御反応。
それくらい心が壊れる寸前のサインということなんだろう。
今回のは、「知ろう」反応の時だけ、「いやいや、待って」と離れて、フィルター越しに観察してみるような。
最初はだいぶ意識して、「ああ、もう〜、また」と感じてたんだけど、スッとし始めている気がします。
必要な時に選んで使えるというのは、何かこう、全然違うのだな。
心が壊れかけちゃっていたときは、とにかく世界に色がなくなっている感じがあった。
モノクロで、音もノイズっぽいというか。
文字だけが、クリアで、意味はわかるんだけど、感情が動かないというのか。
その中でも、たまに、ズガーンと感情を揺らしてくれるのも、文字(小説)だけだった。
だもんで、読書にますます没頭していた。
そしてそれを、必死に探し求めていた気もする。
「世界」はこんなものじゃ無いはずだ。と、活字なら片っ端から、何でも読んで、咀嚼して、必死に飲み込んでいってた。
就職してから、文字と言葉はわたしにとって、業務上必須の「情報の塊」になった。
成果につながるものを、より分け、取捨択一して、分析して、すくい上げて……。
文字と言葉を咀嚼しながら、「仕事=砂金掬い」の作業をいつも思い浮かべる。
書かれている・発せられている文字と言葉には、形以上の「意味」がある。
器に掬い取られた、砂と水のひとまとまりが、1行なり、ひと言なりの“それ”だとしたら、見た目は器に入った砂利と水だとしても、そのままではなく……。
企画にあった一粒の砂金を、探す。見極める。そんな感じ。っていうことを、どうも無意識にやり込んでいる?
無気力が落ち着いた、と気づいたのは、妙に断捨離欲が高まって、ついでのように食事・運動を見直す、って感覚が発動したこと。
服装を改めて……と思ったあたりから、軽くなったような。
習慣を改めるって、ゆらぐじゃ無いですか。
ちょっと気になってるのは、このまま好奇心みたいなものも落ち着いて定着しちゃうのかな?ってとこ。
好奇心の強さと、知りたいことまっしぐらなのは、仕事で非常に活用できる部分で、土台でもある。
「発揮しよう」と思ったら、前同様に発揮できるのかな???
が、この「知したい」も当面保留!
<これまでの経過メモ記録>
<感情の揺れ>