柚木麻子の中で一番好きな作品。

1980年代から90年代にかけての一人の女性の一途な恋を、バブル期の不動産業界と銀座の高級寿司屋をからめて描く。

 

バブル期を女性の人生を軸に描いた小説ならば、桐野夏生の「真珠とダイヤモンド」林真理子の「アッコちゃんの時代」も読んだ。

どれも女性とバブル期という意味では同じだが、軸は大分違う。

 

「真珠とダイヤモンド」は、証券会社の新入社員が時代に踊らされ、大人たちに利用されて破滅していく様子を描く。たまたま時代のお陰でうまくいったことも、実力がなければバブル破綻とともに一気に揺り戻しが来て人生も弾けてしまう。当時の金融業界の熱気と株暴落の無残に加え、男性社会での女性の生きづらさも描かれている。

 

「アッコちゃんの時代」はまさにバブリーな人たちの話。世間を騒がせた実在の人物たちをモデルにしている。華やかな美貌で超大物地上げ屋の愛人となり、バブルを享楽した女性が主人公。港区女子やパパ活とはスケールが違う。実名で出てくる芸能人や有名人も絡み華やかだ。

 

そして「その手を握りたい」はバブルの頃の不動産業界に勤める女性を描いているが、主軸は主人公の抱く恋心だ。仕事に励み贅沢もして、ビジネスとして社命で地上げにも絡む。全ては寿司屋に行くためだ。

地上げのアコギさやバブルが弾けてからの地下暴落など、今思うと異常なことばかりだった。

 

 

青子(せいこ)は25歳になる前、栃木の実家に帰ろうと小さな家具メーカーを退職。東京の記念にと、社長が連れて行ってくれたのが銀座の高級寿司店「すし静」。

内陸部で生まれ育った青子はかんぴょう農家の娘で、生鮨にはほとんど馴染みがなく、何を頼めばいいかも分からない。そんなビギナーのデビューが、座るだけで3万円と言われた銀座の寿司屋である。

 

カウンターの中のまだ若い職人から手渡しされた寿司を口に含み、青子は味わったことのない複雑な美味しさに陶然とし、混乱すら覚える。ネタもいいがシャリがほろりと口の中で崩れるバランス。そして手渡しの時に触れた職人の一ノ瀬の手の冷たさと清らかさ。一ノ瀬はこれから新子がおいしい季節なのに青子が帰ってしまうのは残念だと言う。もう二度とこの人に握ってもらうことはないと思うと、胸がしんとする。

 

日が経っても一ノ瀬が握った寿司の味が忘れられない。一ノ瀬の手と寿司に焦がれる。どうしてもまた味わいたい。それも人のお金ではなくて自分で稼いだお金で。本当においしいものは一人で集中して味わう、それが青子にとっての贅沢だと気づいてしまった。お金はかかってもあの店に通い、いつか常連として認めてもらいたい。

青子は東京に残ることに決め、バブルで活気付き給料もいい不動産業へ転職する。

 

 

小説は章ごとに1年が経過する。様々な寿司ネタを味わう描写は決してエロティックではないのに、どこか男女が交わす快楽につながるようなのは不思議。食がエロスに結びつくのは、どちらも純粋に本能に根ざしているからか。寿司のうまさもさることながら、口福を与えてくれる一ノ瀬への思いもどんどん膨らむ。

若い女性ながら予約して自分の金で通う青子は、一ノ瀬にネタの話を聞き、店の古い常連客や大将に見守られながら寿司の経験値を高めていく。

それと並行し、一般事務で入社後に適性を認められ営業職となり、バブルの狂乱の中で社会人として成長していく様子や、現実的選択である社内の男との恋愛も描かれる。前の会社からの友人と恋人の裏切りがあっても、青子は一ノ瀬を心の支えにして前に進む。

 

 

一ノ瀬は自分のことをどう思っているのだろう。自分の気持ちに気づいているだろうか。あくまで店と客の関係、それ以上でもそれ以下でもないけど、一ノ瀬が全く自分を意識していないわけでもないと青子は感じている。

寿司を手渡しされる時は、少しだけ近づける。そして寿司の知識が増えていくにつれて、信頼関係ができていく感じもある。青子が訪れる度、客あしらいに慣れなかった一ノ瀬の態度も、少しずつこなれてやわらかくなる。

青子は「すし静」には男とは行かず一人で行くと決めている。店は自分と一ノ瀬が唯一会える聖域だから全集中で臨みたい。「すし静」を訪れ、カウンターで背筋を伸ばし、一ノ瀬の握った寿司を味わうのは他の何物にも代えがたくて神聖な時間だ。青子の人生で尊いものは、すべて「すし静」にある。

 

こんな青子の思いは、何だかとても『推し活』に似ていると感じる。いわば一ノ瀬は青子のアイドルだ。会いに行けるアイドルでお店に行けば対応してくれる。見ることは許されても接触は限定的。現実に結婚したい、付き合いたいとは考えていない。辛い人生を乗り切るため、ひととき心を預けてときめく時間。

推しに使う時間だけが輝くようで、後の日常は推しと会うため頑張る時間。次の機会のためにせっせと働き、推しとの時間を励みにしている。このときめく時間が永遠に続きますように。

 

 

だが、いくら推しが大事で大好きでも、見てるだけでは手が届かない。

行儀見習いで大将の親戚の若い娘が店に入り、2年経って一ノ瀬との結婚が決まったと聞かされて、青子はショックを受ける。

いつになく一ノ瀬が落ち着かない日には、妻が分娩室に入っていると聞き、店を閉めた後タクシーで一ノ瀬を病院に送る。初めて店の外で一ノ瀬といる喜びとほのかなさびしさを味わいながら、新しい命を青子は祝福する。

推しの結婚や子供の誕生。突然、相手も生身の男性だと生々しい現実を突きつけられる。人としては祝福すべきだが、なかなか気持ちが折り合わず複雑な思いはあるはずだ。まして青子はガチ恋で、守るものができた一ノ瀬は魅力を増し、余計に辛いだろう。一旦そこで自分の大切にしてきた世界が壊れてしまう、その位に破壊力のある出来事だ。

 

 

会社の大規模開発プロジェクトで、青子は土地を売らない老人を口説き落とすよう命じられる。老人は「すし静」で会う古参の常連客で、きっぱり断られた青子は、スクラップアンドビルドの虚しさを覚える。

しばらく足が遠のいていた「すし静」で一ノ瀬の寿司を味わううち、青子は徐々に自分を取り戻していく。一ノ瀬の「お帰りなさい」は、彼もまた青子に何かしらの感情があるのではとも感じるが、こんなのずるい、こんなこと言われたら絶対沼から出られないだろうとも思う。

 

老人に会社が強硬手段に出た。青子はそれには関わっていないが、老人の通夜で孫娘から罵られ土下座しているところを一ノ瀬に見られてしまう。一ノ瀬は夫婦で来ており、しっかりと自分の人生を歩み貫禄さえ身につけ始めている姿に、青子は二重に打ちのめされ、青子の足は店からしばらく遠のく。

2ヶ月後に店に行くと、大将が引退し客層が変わってしまっていた。

 

バブル崩壊で土地の値段は下落、社長の放漫経営もたたり青子の会社は傾き始める。課長に昇進していた青子は多忙すぎて自分の時間もなく、六本木や銀座での飽食だけが楽しみな生活がたたり、胃を壊して青子は入院する。

一人で過ごす病室の夜、衝動で青子は病院を抜け出す。タクシーで行った「すし静」は、誰も客がいない。

 

どんなにせがんでも一ノ瀬は体を壊した青子に寿司は出さずに、ネタに手を加え体の負担を減らす形で出してくれる。そのやさしい味に青子は安らぐ。一ノ瀬という男の無骨な優しさが読んでいて染みてくる。

とうとう自分だけの特別メニューを出してもらえた。だが1年後に店を休業すると告げられて、青子は東京での生活はもうここまでだと観念する。

引退や脱退、解散など、推し活が根本から揺らいでしまう変化には乗り越えられないこともある。あるいは気がすむまで推し活できたと、区切りになることもある。

青子は店と信頼関係があればこそ、常連だけの特別メニューを出してもらえて、推しとしてはこれ以上ないだろう。

 

 

年明けに会社が倒産し、青子は実家に帰ってかんぴょう農家を継ぐことを決意する。東京での最後の夜、青子は「すし静」を訪れゆっくりと寿司を味わいながら、一ノ瀬と過ごした時間を思い返す。

最後に山葵巻きを頼むと、一ノ瀬の計らいで芯にはかんぴょうが入っている。その味付けが母の味と同じことに青子は驚く。母の人生は家に縛られたものではなく自ら選び取ったもので、そうでなければ銀座の一流店と同じ味など出せない。自分もいつかこの味を作ってみせる。

 

青子は最後のお願いをする。板場からここに出てきて隣に座ってほしい。緊張しながら待ち、一ノ瀬が隣に座ってくれた安堵。近くにいるのに遠いカウンターに隔てられた距離は近くなり、それは気持ちの距離も同じで、一ノ瀬の話し方も砕けたものに変わる。10年かけてやっとここまで来た。何と長かったことか。

 

最後だから青子も一ノ瀬も正直だ。最初から好きだった、不動産業への転職も一ノ瀬に会うためと青子は告げる。一ノ瀬も青子が店に来なくなるのがこわくて何度も口説くことを考えたが、寿司屋のおかみは務まらないだろう、付き合っても不安にさせられると思っていたと。可能性を考えてくれただけでも嬉しいと返す青子。

青子だってこの関係が壊れてしまいそうで、踏み出せなかった。

「付き合えなくてよかった、こちら側に座って片思いしてるのがむしろ幸せだったかも」という青子の言葉は、推しでいてもらうことで続いた関係だったと裏付ける。

 

そんな青子を来る度に違う女の人のようだった、カウンターの向こうの自由な世界を体現してるみたいで見てると時代や東京とつながってる気がしたと一ノ瀬は言う。

バブルで浮かれる中いくら贅沢しても本当の豊かさを模索した青子には、一ノ瀬が揺るぎないものの象徴だった。逆に、一ノ瀬にとって青子は華やかできらきらしたバブルの象徴だったかもしれない。時代の中で自分に無いものを互いに相手に見ていた。

 

青子がずっと焦がれてた一ノ瀬の手を握る。一ノ瀬が握り返してくる。二人の手が指の股まで絡んでいて離れない。青子の人生を変えた寿司を握った手だ。どんなラブシーンよりも切なくて泣けてくる。

言葉もなく手をつないだままの二人。手を離せないまま夜は更けていく。

 

この後どうなったのだろうと想像する。沈黙と互いの手のぬくもりを噛み締めながら、黙って時の過ぎるままに過ごし、終電を気にする時間になり青子は帰っただろうか。これは物語の終わりなのか、それとも新たに始まるのか。

 

互いに惹かれあいながら、長い目で相手と自分の人生を考えると、今のままでいい。そんな恋の形もあるだろう。少なくとも寿司でつながり、同志のように成長できた。

推しとの関係はこれ以上は進まないものかもしれない。推しとの思い出を宝物にして、人生は続いていく。青子の手によるかんぴょうを、いつの日か一ノ瀬が店で受け取る日が来ればいい。