2025年に英国ダガー賞の翻訳部門を、日本人初で受賞した作品。同時ノミネートの柚木麻子の「BUTTER」共々話題となった。

 

滅法おもしろい小説だ。読み終わってすぐに読み返したが、2度目も一気に読めてしまった。物語の巧みさ、キャラクターの造形、時代感、どれを取っても加減が良く、何より長すぎず短すぎずで飽きずに読める。文体も簡潔で読みやすい。

女性二人の物語で、女性が暴力を振るうバイオレンス小説。ジェンダーの問題もさりげなく盛り込まれるが、角度が他とちょっと違うのがいい。小説でなくてはできない仕掛けもあって楽しめる。

 

この作品、漫画や映画のようだとよく言われるそうだが、主人公が少年漫画の主人公みたいだ。暴力の気配だけでゾクゾクワクワクして気分が上がる人間で、女でありながら腕っぷしが強くて痛みにも強いので、バイオレンスシーンが読んでいてスポーツのように爽快だったりする。そこに新しさを感じる。ヤクザやバイオレンスを描いた映像作品には興味が薄い自分も楽しめた。

 

 

ババヤガとはロシア民話に出てくる鬼婆のことだ。

主人公が子供の頃祖母のお話を聞いている時、一番好きだったのが鬼婆の出てくる話だった。鬼婆は善玉なのか悪役なのかよく分からない。主人公はそこがいいという。

いにしえの中学生時代、クラシックのレコードを買うと称して親にお金を出してもらい、ムソログスキーの曲をプログレバンドELPが演奏する「展覧会の夜」のLPを買った。バーバ・ヤーガというワードがタイトルに入った曲が3つも入っていた(うち2曲はELPのオリジナル)。当然この言葉が気になったし、バーバ・ヤーガの意味もその時知った。鬼婆、ババガヤ、どちらもばばが含まれるのがおもしろいが、同じ語源ということはあるだろうか。

 

 

主人公の新道依子は北海道出身で祖父母に育てられ、途中で父親はいなくなり、母親のことは何も知らない。祖母はどうやらロシアの血が入っていて、目は青く髪は茶色かった。だが新道の髪は生まれつき赤く、睫毛まで赤い。また別の血なのだろうか。だが新道は自分の出自に関心が薄く、戸籍を見たりもしない。そこが新道らしい。高校時代祖父母を見送り卒業後は上京した。祖父が亡くなり、殴り合う相手が熊ぐらいしかいなくなったというのには笑った。たくまざるユーモアも魅力だ。

 

新道は祖父から天稟(生来の才能)があると言われ、子供の頃からありえぬほど厳しく鍛錬されてきた。がっちりとして女性としては大柄に成長し、暴力を振るうことをこよなく愛す。競技やプロレスなどルールがあって勝敗を決めるものには興味がなく、ひたすら喧嘩で相手を叩きのめすことを好む。

 

そんな新道が歌舞伎町で暴れているところをヤクザに目をつけられ、内樹組の組長の屋敷に連れて行かれる。組長のお嬢様の尚子の運転手兼ボディガードとしてスカウトされ(実態は拉致と恫喝だ)組長の屋敷に一部屋与えられ、朝から晩まで尚子の送迎をする生活になる。

屋敷では組員でもなく女である異分子の新道は居心地が悪い。こちらから喧嘩は売らないが、喧嘩をふっかけられたら倍値で買う。その辺のチンピラより腕っ節が強くて叩きのめすのが痛快。

若頭、事務所、部屋子など、当然のようにヤクザワードが出てきて、頭の隅を暴対法という言葉がよぎるが、とりあえずそこは無視して読み進める。新道は暴力が大好きで肝が据わっており、ヤクザに囲まれても全くビビらない傑物である。

 

新道がガードする組長の娘、18歳で短大に通う内樹尚子(しょうこ)は、細くて小柄でクラシックな古臭い服装に常に身を包み、髪が長く化粧っけもない。短大に加えて毎日休みなく複数の稽古ごとに通う。婚約者がおり、短大を出たらすぐ結婚するので稽古事は完璧な妻となるための花嫁修行で、お菓子作りに料理、ピアノ、英会話、茶道花道、和弓になぎなたなど多ジャンルに渡る。

尚子は新藤には上から口調で突っかかり、常に何か苛立ちをぶつけてくる。ある日それが止まらずヒステリー状態で号泣してしまい、習い事は休んで尚子の希望で喫茶店に入ることになる。本格珈琲を嗜みながら新藤の子供時代の話になり、そこで鬼婆の話が出てくる。

 

鬼婆はいいことも悪いこともやりたい放題だが、純真な娘が王子と結婚するのを助けたりもするので、「心の綺麗な優しい娘になれば鬼婆みたいな怖い人も助けてくれる」と祖母は必ずお話の締めに話したという。

新藤がお姫様よりも鬼婆の方がおもしろそうだから鬼婆になりたいと言うと、お姫様然とした尚子も鬼婆の方になりたいという。自分の服装は好きじゃないけど、自分の服は全て今はいない母親に父親が買ったもので、髪型もノーメイクも母親がそうだったから。結婚したら違う服が着られるから我慢も後少しだと尚子は言う。でもやりたい放題の鬼婆になりたい位だから、本当は押し殺したものがあるのだろう。

 

この時二人は初めて会話らしい会話を交わす。何しろ新藤は女でも暴力だけ愛する変わり種で、どういう育ち方をしたのか尚子に語ることで読者も理解が深まる。

そして尚子は自分が他人から同情されて憐れまれることに我慢がならない。新藤はそんなつもりじゃないが、本当にそうなのか分からなくなってしまう。だって、尚子は組長の娘という忌避される立場でヤクザに囲まれて生活し、同情しない方がおかしい状況だ。そんな相手と婚約する男も不可解で、結婚の先に幸福な人生があるんだろうかと私ですら考える。

この会話を通して二人が仲良くなったり、気安くなることはないが、相手への理解は深まり、少なくともある程度気を許せる関係性になったと思う。

 

 

夜、薬を盛られて動けなくなった新道を男たちが凌辱しようとしていると、尚子が踏み込んできて毅然として男たちを追い払う。抑制された生活を強いられ、苛立ちを新道にしか出せない尚子が、ヤクザたちを相手に強い態度で新藤の危機を救ったのは胸がすく。さすがに組長のお嬢様には彼らも歯向かえないし、組長の逆鱗に触れること必須だ。

 

新道が敬意と感謝を伝えると同時に、怖かっただろうと尚子を労わると、尚子が鼻で笑う。明らかに強がりだがここを読んで尚子が好きになった。

新道にとってはやばくなる前に助けてもらい、何かされたうちにも入らないのだが、尚子は「女にとって一番の酷いいやなことで、ああいうことは許せない」と激昂する。尚子が事態に気付いたのは「この家で暮らしていると足音に敏感になる」からだという。鋭い人ならこれだけでその意味を察知できるかもしれないが、私が理解したのはもう少し先だった。

 

新道は翌朝組長に呼ばれ、これで手打ちにしてほしいと関わった男たちのパーツが入った箱を渡される。いかにもヤクザの落とし前すぎて、新道はすぐ生ゴミのバケツに箱ごと捨ててしまう。うげー。男たちに罰を下した人間は、組の者ではなく組長が五分の盃を交わした拷問好きの変態野郎で、それが尚子の婚約者だという。うえー。

 

送迎をして、たまに稽古事をさぼり喫茶店でコーヒーを飲むという毎日が続く。尚子は新道から故郷や家族、修行の話を聞きたがるが、自分については多くを語らない。すました顔や生意気な態度は気楽に生きられない立場の尚子の鎧で、新道は他愛ない話をしながら尚子の鎧の下の顔を少しずつ見るようになる。

新道には暴力の気配のせいか女友達はできなかったが、尚子は新道を怖がらないので友達同士のような会話をするのは、読んでいて微笑ましくて和む。二人とも普通には友達ができないかるから尚更だ。

 

 

ある時、尚子に手を出したと勘違いし新道がぶちのめした相手が尚子の婚約者の宇多川で、リベンジで切り刻まれそうなまずい状況がピークになった瞬間、尚子の子供の頃駆け落ちした母親と若頭が見つかったという知らせが飛び込んでくる。

組長は若頭補佐の柳に2人を捕まえてくるように命じ、柳が新道の同行を希望してその場は放免となる。新道は柳の部下という形で屋敷に置かれ、柳は極道にしては頭も気も回り、新道の身を気にかけて自分の女になれば周囲に手出しされないと言ったこともある。ヤクザの剣呑さはあるが、バカではなく心ある男だ。

 

その晩、新道は尚子の部屋に入る足音を聞く。尚子の「この家で暮らしていると足音に敏感になる」という言葉の真の意味は、尚子への父親からの性的虐待で、新道は考える前に体が動いて尚子の部屋に踏み込む(あの日尚子が踏み込んだように)。

組長のバカ力にやり返されピンチとなり、そこに尚子の弓の一撃が父親にとどめを刺す。

 

逃げ出す二人の前に柳が立ちはだかり一応新道とやり合う形を取るが、柳も何もかもに嫌気がさしており、ルーツのある国へ帰ると言う。二人を自分の女房と妹として連れて行くこともできるとも。新道は「誰かの何かとして生きることは無理だ」と断る。クールだ。

尚子は柳に「私、お母様に似てる?」と尋ねる。柳は新道には「気味が悪いほど姐さんそっくり」と言っていたのに、あえて全く似てないと言って尚子を父親の呪縛から解放する。尚子はここで初めてにっこり笑う。しびれるやり取りだ。

 

雨の中いつもの送迎車で猛スピードで逃げる二人。「私たち、地獄に落ちるのね」「ばーか、ここがもう地獄だよ!」というやり取りが、高揚感が感じられてすごくいい。長い髪とネックレスを切り落とす尚子の開放感、どうにかして逃げ切ってやるという新道の決意が胸熱。ここで物語が終わっても不思議ではないし、全然満足できると思う。

 

 

だがこの小説にはまだ仕掛けがある。ところどころで挿入される、正と芳子という二人の物語だ。二人はもう若くなくて60前後か、穏やかな日常を送っている。芳子はどこにでもいる普通のおばさんで、正は昔かたぎな職人みたいに見えるおじさんらしい。

このパートの直前で、柳が新道に尚子の母親は若頭だったマサという男と駆け落ちしたことを明かす。その直後に正と芳子の章が置かれ続けて読むと、マサ=正だと思っても仕方ない。二人がひっそりと静かに暮らしている様子から、尚子の母とマサの駆け落ち後の暮らしだと思う。

 

ある日買い物に出て、正と芳子は交通事故を目撃し、燃える車から父親と幼い娘を救い出す。その様子は通りすがりの野次馬にスマホで撮影され、拡散されてヒーロー扱いでニュースでも流れてしまい、ひっそり暮らす家にはマスコミが押し寄せる。豪雨になり避難勧告が出て、マスコミは帰るが、動画は東京キー局からのニュースにも流れ続ける。

何度かに分けてこの経緯が各章の合間に挟まるのだが、スマホで撮影されている時点で二人が追手に見つかることは予想がついてしまう。

 

やがて大雨が降る中、車のヘッドライトがいくつも家の前にやってくる。ニュースの映像を見て追っ手が来たようだ。芳子と正は果敢に襲撃を迎え撃つ。頑丈なマグライトを武器に使うのに闘い慣れていると感じる。だがさらなる驚き、芳子が拳で攻撃する際に口から漏らす音は新藤依子のものではないか。芳子は尚子の母親の偽名ではなく、新道依子だった。

そして新道は尚子のことをここで正(しょう)と呼ぶ。そうか、正(しょう)=尚か。文字情報ならではのトリックだ。よく考えたらよしこ=よりこも音が近い。

話し方も、最初から新道の一人称は「私」で変化しないことで、芳子が新道だと気づきにくい。尚子は50代で「アタシ」と言っており、そういうおじさんも現実にいる。

 

つまりこの話はタイムマシーンのように70年代半ばから現代までの40年間を駆け抜けているのだ。道理でヤクザはあまりにもヤクザだったわけだ。

ちなみに芳子=新道であると判明するこのパートは、新道が尚子の父親の性的虐待を知り、屋敷を尚子と飛び出す直前に置かれている。新道たちが40年逃亡生活をしてたことを先に知ってから、その長い逃亡の始まりを噛み締めながら読むことになる構造だ。

 

 

逃亡を始めた日から、尚子は女の身なりをしなくなる。15年が経った頃、二人は偽の身分を金で買う。女の名前は一つしか手配がつかず、尚子は進んで男性の斉藤正になる。

90年代は自分探しという言葉が流行った時代だが、身分はフェイクでも新道の『今ここで生きている自分はどこまでも自分自身』という言葉に大きく響くものがある。ラベルと関係なく、自分は自分であっていい。

 

そして40年が過ぎて追っ手が来た。読みながら『とうとう』というより遂に決着の時という感覚になるのは、迎えうつ新道が堂々としているからか。襲撃してきたのは尚子の婚約者だった宇多川で、なんと40年ぶりの邂逅である。宇多川はヨボヨボで、自力では歩けず声が出せなくなっている。

宇多川の前に現れた尚子は弓に矢をつがえている。家に侵入してきた男たちも、新道がマグライトの光を当て尚子が矢で倒している。二人はこの事態に備えて鍛錬を怠らず、シミュレーションもしてきたのだろう。40年間油断せず研ぎ澄ませてきたことに感嘆する。

尚子は宇多川に矢を向けるが、新道はもうやめようと宇多川に働きかける。何しろ40年だ。新道は62、尚子は58。だが宇多川が受け入れたように見せながら、尚子が銃で足を撃たれてしまう。

 

ラストシーンはまさに映画のよう。映像が思い浮かぶ。

海沿いの道をスーパーの大きなカートに尚子を乗せて新道が押している。なぜこんなに力が好きで生まれたか、鬼婆になるためと思ったら納得した。人として人に混ざって生きるのは無理だった。尚子と一緒に鬼婆になるため、ここまで来たと。尚子の返事はない。尚子、眠ったのか、死んでしまったのか。

 

 

逃亡後は新道が暴力を封印して過ごすうちに体重が落ち、言動もどんどん普通の女性みたいになるのがおもしろい。だがそれ以上に尚子の変化は驚くべきものがある。よく食べることで体も大きくなり、ずっと男物を着て男の髪型にして、年を経て体も丸くなり言動が寡黙なおじさん化していく。

 

尚子の見た目男性化は、これまでの自分を封印し庇護される女で生きるのはやめたかったこともあるかもしれないが、追跡を交わすための計算もあるだろう。作中には『男に見えるものと女に見えるものが一緒にいれば夫婦とみなされ、型にハマった世の中ほど騙しやすい』と書かれており、人がいかに見た目情報でラベリングしてしまうを示唆している。

性自認が男性だった可能性も考えたけど、最後の場面尚子の話し方は若い時と同じで元の尚子のものだ。作中で新道は祖父から暴力で天稟(生来の才能)があると認められ、尚子には忍耐と努力を継続する精神力が備わっていると書かれている。おじさんとして生きることを徹底できたのもその賜物だろう。


そもそも性的関心を持たない新道にはアセクシャルな印象もある。男性を装う尚子とは、40年一緒にいても互いに欲望を抱かず、他に相手を作るでもない。長い時間の積み重ねで関係性は深く強くなり、シスターフッドを超えた唯一無二と感じる。

二人の関係は友人でも恋人でも、雇用関係でも家族でも夫婦でもなく、本人たちですら関係に名前をつけられないと書かれている。逃げ続けた40年間を思えば『運命共同体』だろう。お互い素性を知り気が置けない話が唯一できる相手。一般的な意味とは違うがまさに『運命の相手』と言えそうだ。新道のおおらかな自己肯定感と、尚子のねばり強い一貫した姿勢。性別など関係ない。ずっと鬼婆でいられる相手がいい。

 

 

 

 

 

 

 

出版時に一読したが、昨年英国でダガー賞候補となったこともあり読み返してみた。人物造形が巧みで、再読でも物語にどんどん引き込まれる。

 

2000年代後半に中高年男性が次々に不審死を遂げ、木嶋佳苗という女が2009年に逮捕された事件があった。男性たちに手料理を振る舞い、複数の男性が多額の金を彼女に渡した上不審死を遂げた。うち3人を殺害したことで逮捕起訴され、死刑が確定している。

この事件を巡る報道は凄まじかった。検察が周辺状況の積み重ねで殺人罪の立件を行った特殊性に加え、何と言っても木嶋佳苗のキャラクターが強烈でマスコミを駆り立てた。ブログで料理好きをアピールし、婚活で知り合った男性の家に入り込み料理を作り、結婚を仄めかして金をせびる。どんな女性かと思いきや、30代で容貌に恵まれているわけではない女性に何人もの男性が惑わされ、金や命を奪われた事は社会にショックを与えた。

木嶋佳苗は自身を女性としての肉体的機能に優れ、男性を満足させる才能があると言って憚らない。強気で自己評価が異常に高く、男性に癒しや活力を与えた報酬を貰うのは当然だというのが言い分だ。

 

木嶋佳苗をモデルに書かれた柚木麻子の「BUTTER」は、2015年に刊行された。その後英語版が刊行されると各国で話題となり、昨年イギリスで最高峰のミステリ作品に送られるダガー賞の翻訳部門候補となった。まず翻訳されて海外で出版されることがハードルが高いのに、最高レベルの賞の候補になるなんて本当にすごい。日本人読者として誇らしい。

 

海外ではミステリとして受け入れられたようだが、これは果たしてミステリ小説だろうか。初読時から私はそうは捉えていない。この作品は事件そのものには主眼を置いていない。

あくまでも実際の事件にインスピレーションを得たフィクションで、作者が人物の心情を想像して書くことで立体化されるものがある。現実の事件の犯人は私たちとは違うタイプの人間と思い距離があるのを、作家が書いた心理描写や物語の力でその距離を詰めてくる。桐野夏生の「グロテスク」も同じようなタイプの作品だ。本作で起こった事件は個人の心の中に鍵がある。それが事件の解明のように海外では捉えられたのだろうか。

私にとっては他の柚木作品と同じように、ジェンダー格差、女性の自我確立、女性同士の連帯、自己許容、ルッキズム、そうしたことを描いた作品という位置付けだ。

 

 

本作に登場する梶野真奈子は、木嶋佳苗を踏まえて創造された人物だ。

主人公の町田里佳が梶野を取材して、事件を里佳のフィルターで読み解く。梶野は嘘つきで自己顕示欲が強い上、真相は梶野の意識の中にあるようで、結局事件の答えとして提示されるのは里佳が見つけた真実だ。

少女時代に周囲と馴染めず友人のいない孤独、高2で出会った男から得た自信、上京後に裕福な年配男性から得た贅沢な暮らし、美食への耽溺、ブログでの自己承認欲求。読書好きで食いしん坊、父親に溺愛され人間関係には不器用な少女が、そのまま大きくなったような女性。

 

前半は梶野が与える里佳への影響力の凄まじさが、読む者の心にまでぐいぐいと浸透してくる感じが圧倒的。読むだけで梶野真奈子の異質さが沁み込んでくる感じで、引き込まれる。

加えて文章に乗る情報量の密度がすごく濃い。梶井の主張、食べ物の表現はもちろん、微妙で繊細な心理についても細かく描写される。それだけではなく人物の服装や風貌、状況など、すぐ台本にできそうなレベルで具体的に書き込まれている。作者はテレビドラマをこよなく愛し、架空のドラマを考えたり好きなドラマの続きを考えるというから、映像にしたら誰が演じるかまで頭の中に置いて書いている気がする。

作者には同じく食をテーマにして鮨を描いた「その手を握りたい」もあるが、文字で描き出す情報量は本作で圧倒的に増えている。

 

 

町田里佳は出版社の正社員で30代、おじさん向け週刊誌の編集部の記者だ。子供の時両親が離婚し、中学高校は私立の女子校に通い、背が高く痩せた里佳は女子校の王子様キャラとしてアイドルのような存在だった。その後大学に進み親友・伶子と出会う。伶子は映画会社の敏腕広報だったが、結婚して仕事を辞め田園都市線沿線の一戸建てに家庭を構えた。料理上手でセンスが良い。華奢で女らしい見た目は里佳と正反対だ。

里佳は食にも生活にも無頓着で、仕事中心の生活をしている。一応同期の彼氏はいるが、友達の延長で甘い関係ではない。体重は増やさないようある程度意識している。

 

里佳は連続殺人事件容疑者の梶井真奈子のインタビューを狙っている。事故や自殺とも取れる死に方を複数の男性がしており、いずれも直前まで梶井が身辺にいて逮捕された。

取材を一切受けない梶井に、手紙を書いてどうにか機会を作りたい。「料理好きは料理のことを聞かれると、聞かれてもいないことまで喋ってしまう」という伶子のアドバイスにより、被害者が食べたという梶井のビーフシチューのレシピを教えてほしいと追伸に書き添えると「あなたとなら楽しく会話できそうだから会ってもいい」と達筆な返事が届く。
 

里佳は梶井と最初の面会に臨む。色白でむっちりとした肌、甘くとろけるような声、長く伸ばした髪で、正統的とも古臭いとも言える男性から嫌われないファッション。

大学入学で上京した梶井は、割とすぐに女子大をやめ、かなり年上の経済力のある男性たちの愛人となった。以来男性たちの金で、食べたいものを食べて楽に贅沢に暮らしている。

美味しいものを作り、心身ともに男を満足させる。女が男との違いを受け入れて楽しませサポートする側に回ることで、自由で豊かな時間が得られる。女らしさやサービス精神をけちれば異性との関係はいやしくなる。というのが梶井の言い分だ。

 

梶井は里佳との面会ですぐさま、里佳が生真面目な分、処しやすい人間と見抜いたのだろう。食生活だけではなく、考え方や生き方の部分まで里佳のことを知りたがり、掌握する。女性らしい魅力の重要さ、男性を立てることで優雅な生活を手に入れることの正当性、里佳とは真逆の価値観を主張して、混乱させて影響力を発揮する。

 

里佳は梶井の意見に同調はしないが、梶井について書くには食についての経験値が不足しており、無知な自分のままではインタビューが取れないことを察する。

里佳はバターとマーガリンの違いも知らなくて、食に対する無知無関心を露呈して梶井に呆れられる。マーガリンは成分も味もバターとは全くの別物で、バターのように風味を醸し出しはしない。トランス脂肪酸も褒められたものではない。

 

梶井はフランス産の最高級のエシレバターを勧めてくる。その芳醇さを味わうにはバター醤油ご飯が最適だと。冷たいバターと温かいご飯の出合い、口の中で両方が醸し出す官能的な味わい。里佳は強烈にそそられ、その足ですぐに炊飯器と米とバターを買い、バター醤油ご飯を食べるとおいしさに魅了されてすぐに米を追加で炊くほどはまってしまう。

 

続けて里佳はスーパーで上質で知られるカルピスバターを買い、梶井のブログに出ていたたらこバターパスタを夜中にたっぷりの具材とバターで作る。全く普段料理しない里佳が作ったパスタに彼氏は驚き、家庭的アピールを意図したわけではなく、自分が食べたい流れで彼にも作っただけなのに、無理しなくていいと言われてしまう不本意さ。

里佳は彼氏が選んだ店と料理に、これまで感じなかった苛立ちを覚える。いくら食べても大丈夫という発言も、気配りのようで他人の体に言及する権利を主張してくるようで不快感を覚える。里佳に梶井と話す前はなかった意識が芽生えている。結局後半でこの彼氏とは別れてしまう。

食事にお金を払うなら体験を分かち合える相手と。それが無理なら一人でいい。この辺りは「その手を握りたい」の、自分で稼いだ金で一人で高級鮨に通う青子と共通する。


 

ここから梶井が語った食べ物を里佳がその時の状況も含めて追体験し、その報告を手紙で送り次の面会にこぎつけるという流れができる。

ウエストのクリスマスケーキ、バターましましの塩ラーメン、ジョエル・ロブション。
それまで質素な食生活をして痩せていた人が、いきなりバターたっぷりハイカロリーになれば体が悲鳴を上げる。ロブションの後は胃もたれがした。正月にバター醤油砂糖で餅を食べてばかりいると、年明けはむくみがひどく、体全体がだるくてやる気が起きない。軽い食道炎と診断されおとなしい食事に戻るが、自炊の習慣がついて自分で炊いたお粥を食べるようになる。これはいい変化だ。食べたいものを自分で用意できる事は、生きる上で大切だ。

体重の増加は落ち着くが、太ったことで周囲が動揺したのは異様に思えた。これまでが痩せすぎだったと思うし今の自分の体は嫌いではない。里佳は「適量」を掴みつつある。これまで食生活がぞんざいすぎたし、これからはもっと美味の追求をしてもいい。これまでの体型含めて自分を縛り付けていたものを手放して、もうちょっと楽に生きたい。

 


梶井真奈子恐るべし、序盤を読んだだけでこれほどの影響力。食生活だけではなく、ライフスタイルまで侵食する。

生真面目で今の自分のことを認められない女性たちほど、梶井の間違った自信と物言いになぜか惹き付けられてしまう。相容れない価値観なのに、自分の心許なさを突いてくるのだ。

梶井は自立した女のことを、男性に尽くさず女らしさを放棄して男性から得られるものを放棄していると糾弾する。だが梶井自身は、男性に対して決して自分の人生を丸々委ねることはしない。男に尽くしているようで、実際は彼女のペースに相手が巻き込まれて混乱させられる。その挙句、相手は心身ともに疲弊し衰弱してやむなく亡くなる結果になったのではないかと里佳は考える。

 

インタビューは一応承諾される。その前にぜひ自分の故郷を訪ねるといいと、梶井は新潟の実家へ行く事を勧める。豪雪の中訪ねた梶井の実家には、梶井の仲のいい妹、大嫌いな母親がいた。家中ほこりっぽくてダニに刺され、梶井の母親が作った古びた造花がたくさん飾られ、違和感と過剰さが伝わる。隣家の牛舎は今は梶井の幼馴染が後を継ぎ、梶井はそこの乳製品が大好きだったという。

梶井の部屋を見たり幼馴染に話を聞いたりして、里佳は梶井が友達のいない子供だったのではと感じる。読書が好きで成長が早く早熟だった。17歳で大人と付き合い周囲から取り沙汰されたと本人は言うが、実際は地味であまり周囲の目に留まらない子供だったようだ。

 

この新潟取材に親友の伶子が強引に付いてくる。梶井の実家にもくっついてきて、里佳の気持ちは心強さと辟易感を行ったり来たりする。そのまま金沢の実家に行く伶子と新潟駅で別れるが、何日かして伶子の夫から行方知らずで連絡が取れないと言われて驚く。妊活がらみで夫と伶子はうまくいかず、伶子は家に居づらくなっていた。

 

 

ここから結構な長さで伶子パートになる。

伶子は里佳があまりにも梶井に引き込まれているのに嫉妬を感じていた。里佳には内緒で2度も梶井に面会し、逮捕直前に梶井が一緒にいた男性の家を突き止めて、ネットで接近して潜入に成功する。

男の家をせっせと掃除をして料理をするが、相手からは関心持たれるどころかドン引きで、迷惑がられ、伶子は自分のアグレッシブさに追い込まれて混乱してしまう。

里佳は梶井から伶子に話した事を聞き出して、伶子を助けに行く。

伶子が接触した男性の発言から、梶井は崇拝され尊重されるどころか、上から目線で見た目を馬鹿にされて侮られていたことが分かる。便利だから身近に置かれていただけだった。

 

里佳は梶井が伶子に話したことと引き換えに、里佳が高校生の時別居していた父が亡くなった時のことを梶井に明かす。それは里佳を深く後悔させ、傷になっている出来事だった。別居後に自堕落になり、自分をぞんざいに扱うことで存在を主張してくる父を持て余し突き放した。約束した日に里佳は父の家に行かず、その日に父は急死していた。自分が行けば助けられたかもしれないし悲しいけど、ほっとした、解放された。梶井はそんな里佳と自分は同じだと言う。面倒見なきゃいけない人間が減り、肩の荷が降りたと。自分は殺していない。美味な料理を作り快楽を与え、男たちはそれを当たり前のように享受した。それを提供するのを突然やめただけだと。

 

それはある程度蓋然性がある主張だと思う。伶子が突撃した男は梶井のことをドブスと馬鹿にした。それまで梶井が付き合った男性たちも梶井のことを舐め切って、上から目線で見下しながらも梶井を必要とした。梶井は大切にされて当たり前と思っている彼らが煩わしくて突然嫌になり、連絡をやめたり家事や料理をしなくなると、男たちは母親に世話されなくなった赤ん坊みたいになった。

最初は楽しくてやっていたことなのに、料理もおしゃれも義務になると楽しさなんて消えてしまう。男を大切にしたことで、彼らが何もかも当たり前みたいに受け取るようになり、自分だけが空回りしているような無力感と孤独。喜ばせるのが楽しいはずだったのに、自分だけ動いてるみたいで、ずっと一人だと感じる。

 

きっと、この梶井の悲嘆には世界中の多くの女性が共感できるのでは。だから海外でもベストセラーになったんだろう。ああ、自分だけじゃないんだと、この本を読みながら思いを噛み締める女たちが、たくさんいろんなところにいる。

 

 

梶井は逮捕より少し前の期間、サロン的なハイクラスのフレンチ料理教室に通っていたことも知られていた。マスコミからはハイソな女たちがマウント合戦する場所みたいに揶揄された、高額なレッスン料を取る教室。そこで見せた顔は事件とは別の一面だ。

里佳は伶子と、紹介者を介して身分を偽りその教室に入ることに成功する。

 

梶井は男が喜ぶ正統派の料理しか作らないため、目新しい食材や斬新な組み合わせ、アレンジされたレシピに戸惑っていたという。そして男のためではなく自分のために料理してもいいのだと、ここで初めて気づきを得た。

だが男たちが続けて亡くなった時期の少し前に梶井は教室を辞めていた。他の皆が希望した課題の料理に梶井が猛反対して荒れた。それは七面鳥の丸焼きで、梶井が作っても大量の肉を消化しきれない。

 

梶井は会話を楽しみたかったのに男性たちは自分が知るものしか認めず、知らないことを話すと不機嫌になった。グルメや日々の思いなどを共有する会話は彼らとはできなかった。ワクワクが共有できる女の友人が欲しくて、洗練された裕福な女性の集まる料理教室に参加した。教室は互いのプロフィールを知らないまま、好きな食材や得意な手法などあくまで料理を通して繋がり和やかなもので、嫌味なセレブ集団などでは決してなかった。だが梶井は言動や見た目で浮いてしまい、仲間に入れなかった。それでも梶井の不器用さを可愛さと捉えた人もいたし、毎回復習する熱心さや手際の良さと丁寧さはメンバーも認めていた。

そして七面鳥の件で自爆して教室退会のしばらく後に、梶井はクリスマスにメンバーを招待して七面鳥を振る舞う計画をしていた。和解したかったのだろう。胸が痛むではないか。

 

教室を辞めてから梶井の周囲で連続不審死が起きている。自分のために作ることを知った梶井は男性への奉仕をやめた。梶井からの奉仕が枯渇したため、生きることに投げやりになった男性たちが、死に向かった可能性はある。これが里佳が考えた到達点だ。

 

 

里佳の独占インタビューの連載が始まり、週刊誌は爆売れして完売となった。

伶子にまで危害が及んだことで里佳が梶井へのアプローチを止めると、梶井から分厚い手紙が編集部に届くが里佳は無視する。里佳との対話を通して、梶井の中に友達のような感情が里佳と通うようになっていたのだろう。それはこれまでの人生で得られなかったものだ。

だがその後梶井から思わぬしっぺ返しを受ける。梶井が獄中婚約したフリーライターの男が梶井の告白本を書いたらしい。その内容が記事になりライバル雑誌に出てしまう。独占インタビューした里佳について露悪的に語っていることで、里佳は世間に取り沙汰されて社内での立場も危うくなる。梶井と会話を成立させたくて彼氏とのことなども話してしまっていたので、全部がでっち上げというわけではなく、急所を突かれた感がある。

 

実名や顔が流布し、SNSなどで言いたいように言われて里佳は手ひどくダメージを受ける。だがとことんまで落ち込んだ後に、会社を辞めずにしがみつくと決めた。異動で女性誌の編集部に身柄預かりとなり、そこで事務作業しながら、梶井の家族や被害者家族など周辺人物たちのインタビュー記事の連載をもぎ取ることに成功する。

周囲の思惑を気にするより、まず自分が居心地良い自分でいることを学んだ里佳は、自分で選んで生きるようになっている。

 

 

会社を辞めないためにも、里佳は思い切ってローンを組んで中古マンションを購入する。

そのお披露目パーティーを兼ねて、逮捕前に梶井が作ろうとしていた七面鳥の丸焼きに挑戦する。小説や童話に出てくるけど日本では馴染みが少ない。それもそのはず、大きな冷凍肉を解凍するのに丸3日はかかり、焼くのに大きなオーブンが必要で、できた料理は10人分くらいになるという。

料理教室は記事のせいで身バレして出禁になったが、講師は以前教えてくれた七面鳥レシピを持っていることを黙認してくれた。それは梶井が作ろうとしていたのと同じものだ。

七面鳥の肉を買うところから始まり、冷蔵庫でゆっくり解凍し、調味液に漬け込んで、詰め物を用意してお腹に詰め込んで、パーティ当日いよいよオーブンに火を入れる。焼いている間も何度もバターを塗る。七面鳥は無事に焼けて一同大いに楽しむ。

ここで夏場は特に肉が傷みやすいのを危惧する描写が何度も出てくる。特に詰め物が接する内側の肉に注意が必要らしい。小説の影響で作る人への配慮だろうか。

 

最後の七面鳥パーティーの場面は祝祭感に満ちていて、それぞれの自己受容感も感じられる明るい終わり方になっている。

勝手な想像だけど、この小説が欧米で受けたのは、この七面鳥のシーンがあるのも大きかったのではないか。欧米ではクリスマスや感謝祭などで、ファミリーで集まったり来客をもてなす時の必須メニューだ。当地の方々が七面鳥を食べる気分は想像するしかないが、準備する時からワクワク感が止まらないだろうし、食べる時はさぞにぎやかで楽しく盛り上がるだろう。多くの読者の幸せな記憶を掻き立てる場面になっているのかもしれない。そこに寄せる共感もあるいはあったかもしれないと想像する。

 

小池真理子による長編小説で、タイトルは作者が好きなバッハの曲から。

冒頭で殺人事件が起きて倒叙型ミステリかと思いきや、メインは犯罪被害者の遺族女性の人生の一代記。作者は大きなトラブル続きの最中に執筆し、主人公がままならぬ人生を生き抜く姿に自身も励まされたそうだ。そして事件の犯人の心情にもかなりのパートを割いており、それがいわば謎解きの役割を果たしている。

 

本書について予備知識なく読めば(私も初読時はそうだった)とても不思議な作品に感じるかもしれない。出だしの部分でミステリ小説を期待すると肩透かしを食うが、今回は分かったうえで改めて読み直してみた。

犯人の側の心情を描いたパートにもボリュームがあり、女性作家が書いてどこまでこういう性癖の人間のリアルに迫っているのかは分からないが、自分の性癖を崇高に美化している点が最高にきもい。

 

 

昭和38年(1963年)11月9日、横浜の鶴見で2台の列車が衝突脱線する大きな事故があり、161人が死亡した。同日に福岡県の炭鉱で458人が死亡した事故も起きた。というのは現実世界の話。

この日、東京都大田区久が原の閑静な住宅街で黒沢家の夫婦が殺される事件が起きた。というのがこの小説の世界で起きた事件だ。

 

12歳の黒沢百々子の父は北海道でよく知られた黒沢製菓の御曹司で、30代で東京支社長を任された。両親とも容貌に恵まれた人も羨むセレブ家族。大田区の高級住宅街の大きな屋敷で何不自由なく育ち、私立の小学校に通いながらピアニストを夢見る百々子は、発育が良くて親譲りの恵まれた容貌のしっかりした明るい少女だ。大学までの一貫校で音楽科もあり、百々子はピアノの道に進むつもりだ。

 

だが小学校の宿泊行事で百々子が不在の晩、両親が自宅で殺される。この事件で百々子の人生は一転。同じ日に他に大きな事故が二つも起きたため、百々子はマスコミから「血塗られた土曜日の令嬢」と銘打たれてしまう。事あるごとにこのフレーズで揶揄されることに百々子は腹だたしさを感じ続け、大人になっても「あの血塗られた土曜日の令嬢は今」的な世間の注目を浴びたくないと、神経を使うことになる。

 

百々子は父の実家の北海道の祖父母の元ではなく、通いの家政婦の石川たづの家に自分の意思で身を寄せる。たつの家には昔かたぎの大工の夫、高校生の長男紘一と中学生の長女美佐がいて、昭和のホームドラマさながらの賑やかで暖かな家庭だ。石川家は百々子を預かり物の『嬢ちゃん』として大切にしながら隔てなく家族として扱い、百々子も彼らを家族同然に思うようになる。石川家の暖かな空気に守られ、百々子は事件後の多感な2年半を過ごす。

たづは終生黒沢家への忠誠を欠くことなく百々子を守る。安心で温かなたづの存在感が陰鬱な事件の陰を払拭してくれるかのようだ。たづの存在はこの物語の中で救いになっている。

 

この同居は、百々子の家の敷地に新たに屋敷を建てた祖父母と同居するまで続く。普通なら事件があった家など売り払うと思うが、百々子がピアノを続けるため転校したくない事情も斟酌されたか。中3になるのを機に百々子は祖父母と同居を始めるが、祖母は百々子の母同様に百々子も疎み、話の合わない祖父母との生活に息苦しさを感じる。ゆえにしょっちゅう石川家に行って過ごす時間が息抜きになる。

 

百々子は長男の紘一に思いを寄せるが、紘一は百々子を尊重しあくまで妹のように接する。初恋が真剣な思いに変わってもそれは変わらず、百々子はもどかしさと切なさを大人になってもずっと抱くことになる。紘一が鈍感なのか意図的なのか、その辺は曖昧だ。

そして美佐とは親友以上で仲いい姉妹のような何でも話せる関係になる。たづも美佐も百々子の紘一への思いを察して見守っていたが、進展はなかった。側にいながら想いが届かない相手を、百々子はずっと思い続けることになる。

 

百々子の人目を惹く美貌、小6ながら大人のような体に成長つつあることと、聡明さや子供らしい明るさのアンバランスは、少々痛ましく感じる要素でもある。子供のうちから男性に女性として意識され、時には性的視線に晒されたりもする。疎ましさを感じ、自意識過剰にならずとも一定の警戒心は育ったと思う。

だが高校生のある日、夕刻道を歩いていて痴漢被害に遭う。こんな酷い目に遭えば男性忌避の感情が育ちそうなものだが、百々子はそうはならない。毅然としてて強くて健全なままで、不快な出来事ではあるが百々子の何も損なわれない。強いのだ。

 

そのまま大学に進みピアノに励むが、両親亡き後は留学も望めず、ピアニストになる夢は遠のく。そして高校から付属校に入ってきた同級生男子から熱烈に求愛される。彼は音楽学科ではなく、百々子を崇め大切に誠実に対する感じは伝わる。一緒にいて邪魔に感じることもなくリラックスできて、育ちが良くて素直な彼は百々子の中で一定の場所を占めることになるが、あくまでも桃子が好きなのは紘一だ。それで良ければと百々子が伝えて交際が始まったのは驚きだ。百々子の言いなりになんでもしてくれて優しい彼は、後に夫になると百々子が彼に頼らざるを得ないことを逆手に取るようになり、関係性は悪くなる。

 

社会に出てから、美佐が同僚と不倫して妊娠したのを百々子が打ち明けられるのが、当時渋谷パルコの1階にあったカフェだ。この作品にはあまり時代の風俗など頻繁には出てこないが、このカフェは友達と行ったこともあり懐かしかった。ここはガラス張りで外がよく見え、同時に公園通りを歩く人からは中が見えた。渋谷と西武グループが文化を牽引してた全盛期の象徴が、パルコと公園通りだった。

相手と別れ両親にも打ち明けた上で一人で生む決意をした美佐が、出産後の出血多量で亡くなってしまう。百々子は大きなショックと喪失感を抱え、交際相手に結婚してと請い願う。これは意外だったが、12歳にして両親をあんな形で失い、今また姉のような美佐を失ったことは、一人では耐え難い事だったのだろう。

 

美佐の産んだ男の子はたづが育てる。百々子はその子を引き取りたいと考えるが、婚約者からは拒否される。そりゃそうだ、まだ自分たちの家庭もこれからなのに、いきなり赤の他人の子を養子にと言われて気持ちは受け入れないだろう。結局百々子は夫との間に子は産まれず、夫との関係性が悪化し離婚した後、その子が高校生の時に養子に迎えて自分の両親の故郷の函館で暮らす。たづはやっと嬢ちゃまと本当の家族になれたと喜んでくれた。それからもピアノの仕事で生計を立て、養子との生活は平穏で幸福だった。孫もできた。

だが62歳の時に百々子は認知症と診断を受ける。

 

色々ありすぎた百々子の人生。こんな形で物語の幕を閉じるとは予想しなかったが、百々子は自分が決して不幸だとは思わないという。強い。でもいい家に生まれ経済的不安もなく生きて来られて、手に職があり見た目にも恵まれているから、十分恵まれている。

 

 

ここまで両親の殺人についてはあえて触れなかったが、どちらかといえば百々子の一代記よりもそちらの印象が強く残る。

百々子の両親は共に函館出身で、会社が経営するレストランでウエイトレスだった母を父が身染めた。百々子の母親には父親違いの弟の左千夫がいた。やはり容貌が一際整っており、高校を出た後に住み込みで国鉄の寮の管理人をしていた。だが30歳手前で俳優になることを目指して上京し、一時百々子の家に下宿する。だからこの叔父は百々子にも馴染みがある。叔父はその後横浜の精密機械製造の会社に就職して独身寮に入り、休みの日は俳優を目指す者が集まって行う稽古に参加していた。

 

ここまで読み、叔父の左千夫が怪しいと思わなければ嘘になる。住み込みの寮の管理人は若い人がやるような仕事ではなく、それが母親が探してきた就職先とあれば覇気のなさや何かが欠落した印象を受ける。それに上京して俳優を目指すと言いながら、熱心にオーディションに参加したりどこか劇団に入るでもなく、ただ素人が集まっての自主練に参加しているだけなのも本気が感じられない。顔が綺麗なだけが取り柄で、覇気というか、人生に必要な根を張る力というか、何かが抜けている。


左千夫は10歳だった百々子との初対面で電撃が走ったように魅入られて、理想の女性、女神、妖精、天使、百々子をそんな風に崇めて清らかで高潔な存在として崇拝する。自分の気持ちを周囲に気付かれないよう、百々子がいる時は肉体的接触は避けて言動に最大限に気を配る。就職し寮に入ったのも、あくまで百々子は精神的な愛の対象で、欲望の対象ではないことにするため適切な距離を保つのに役立つからだ。

左千夫の美貌に惹かれて寄ってくる女性も多かったが、左千夫は煩わしさしか感じない。性的欲望を嫌悪する左千夫は潔癖で、ミソジニーも感じさせる。その一方で幼い百々子を理想の女性として崇めるのはアンバランスだ。

 

だが呪われた土曜日と言われた日に事件は起きる。

その前日、左千夫が勤務中に姉(百々子の母)が寮の自室に入り、左千夫が日々熱心に百々子のことを書き付けたノートを見てしまった。このノートは百々子と会えた日の事細かな記録はもちろん、左千夫の想いや願望を赤裸々に綴ったものだった。実際の百々子に対して極度に抑制した態度を取る代わりに、このノート(実におぞましく自分に都合よく書かれた内容だ)にお花畑な願望を書きまくっていたのだ。こっそり持ち出した百々子が履いたソックス(肉体的処理に使われる)も見つかり、姉は激怒してあんたは変態だと罵倒し、百々子と2度と会ってはならないと言い渡す。当然だろう。

だが左千夫はまだ自分に都合よく事態を捉え、翌日家族がいない時に姉の家でもう一度ちゃんと話そうとする。この『話せば分かってくれる』と考えるところが浮世離れしている。どう考えても幼い娘が大人の男の欲望の対象にされることを許せる親はいないし、増してそれが肉親だというのは二重にあり得ない。

 

翌日姉を訪ねると大変な剣幕で絶好を言い渡されるが、左千夫は懇願してどうにか家に上がらせてもらう。だが姉に再度変態と罵られ絶交を言い渡されて、頭に血がのぼり左千夫は姉を絞殺してしまう。その直後に出張と聞いていた姉の夫が早めに帰宅したため、これも切羽詰まって殺してしまう。だが当日大雨だったこともあり警察の捜査は難航し犯人は捕まらなかった。姉が夫には事情を話さなかったことが悔やまれる。もし話していたら夫に固く禁じられて左千夫を家に入れなかったのではないか。しかし身内の者のこんな話、言うに絶えない気持ちも分かる。

 

百々子は事件後に唯一の身内(父方の親戚とは精神的距離がある)となった左千夫と顔を合わせる機会は定期的にあり、左千夫は百々子と相変わらず一定の距離を用心深く取り、踏み込みすぎて嫌われないようにする。

だが高校時代の痴漢騒ぎの際に手紙で報告を送ると、左千夫が叔父というより恋人に向けるような手紙を送ってきたことで百々子は違和感を抱く。高校大学と月一程度に会って喫茶店で過ごすような関係ではあったが、趣味もなく家族もいない叔父は何が楽しくて生きているかよく分からない。成長後も叔父とは定期的に顔を合わせても特に話題もなく、百々子は唯一の肉親として尊重はするが、子供の頃のような慕う感情ではなくなっていた。

 

百々子が両親殺しの真相を知るのは大人になってからだった。事件は未解決のままだったが、左千夫が遺書を残して自殺した。遺書は百々子と、執拗に捜査を続けた刑事宛の2通が残されていた。

その直前、百々子は左千夫から両親の墓参りをすることを提案されて函館まで行った。函館に先に行った左千夫は移動には同行せず、旅行の費用は全て叔父が負担し、一人旅も不自由ないよう切符も途中宿泊地のホテルも叔父が用意した。高級ホテルに宿泊して贅沢な食事を振る舞われるが、叔父の持ち物や身なりは見すぼらしく違和感を抱く。

このパートは左千夫が半分あの世に身を置いたように描かれており、百々子が道連れにされないかとひやひやしながら初読の時は読んでいた。左千夫の意図がよく分からず終始不穏さが付き纏い、百々子の居心地の悪さが伝わってくる。

 

百々子が無事東京に戻り、しばらくしてから警察から連絡を受けた。左千夫は崖から身を投げて亡くなったという。自分宛の遺書を読み、百々子は叔父が両親を殺したことに加え、自分がどんな目で見られていたかを初めて知ることになる。人生がひっくり返るような事で、このことが一番この物語で残酷だと感じる。だが左千夫という人間の人生の虚しさと無為なことに、百々子ともどもどこか憐れみを抱く。情けなくて寂しくて救いがない人生。百々子に向けた感情は歪んではいるが一種の愛情であり、そこには最後まで混じり気がなかった。気持ち悪いが痛々しい。

 

この本の感想は本当に人さまざまで、百々子の生き様や強さに感銘を受ける人もいれば、左千夫の百々子への思いに嫌悪あるいは憐れみを持つ人、人生というものを考える人、いろいろだ。ミステリではなくあくまで人間を描いた小説だと考えると、いろんな感想が生まれる余地があるのはうなずける。読む人の年齢でも感想は変わりそうだ。

百々子はあまりにも情緒が安定した人物すぎて、不幸な事件はあってもなんだかんだ恵まれていて、共感できる余地はあまり感じられない。情緒安定の面で理想的な女性を描くと同時に事件の犯人のつぶさな心情を描く少し変わった作品という位置付けに、私の中では落ち着きそうだ。