書籍が文庫になる時にタイトルをなぜ変えるのか。納得できない。間違えて一度読んだ本を買わせたらラッキー、みたいな感じじゃないかと疑っている。これも最初につけたタイトルでいいではないか。新刊が出たと知り、当然調べた。けど引っかかってまた図書館で予約した。そんな自分にも腹が立つ。

 

しかし引っかかって結果的に良かったのだ。宮部みゆきという作家の凄腕を改めて知ることになるからだ。え、二度目なのに?と思いますよね。はい、ストーリーはわかってるし、どれもとても面白いからちゃんと覚えてた。だから初読ではどうしても物語そのものに意識が向いたが、二度目であればこそ、収録された物語それぞれの味わいの違いや、切れ味の鋭さ、人に向ける眼差しの暖かさなど、この作家の力量の並々ならぬ高さ、ベテランになっても意欲的で尽きない創作欲など、短編集でも存分に感じられることに驚嘆した。

 

押しも押されぬ宮部みゆきだ。ミステリー、ホラー、現代もの、時代もの。いずれにも深い人間的考察と情を絡めて、期待を裏切らない。読めば必ず満足させてくれる。そんな作者が新しい切り口に挑戦した。

倉阪鬼一郎が編纂した「怖い俳句」に刺激されて、仲間内で句会を始めたという。そこでできた句に刺激を受けて、いくつかをタイトルにして物語を考えたというのが、この作品集だ。私はホラー作家としての倉阪鬼一郎が好きでずっと読んできたので(昨今は時代小説ばかりのようでそっちは未読)当然のように「怖い俳句」「怖い短歌」も読んだ。モダンで新鮮な句の魅力を紐解いた「怖い俳句」は、宮部みゆきを刺激して、そしてこんな本が生まれたなんて、素敵な連鎖だと思う。

 

どの話もテイストが異なり、長さも違う。ほとんどが女性が主人公で(一遍だけ子供視点だが女性の話)酷い目、悲しい目にあう。文庫表題作など、もっと長い話にもできそうなくらいだけど、逆にそうなったら読む側も苦しいからこのくらいの長さでいいのか。

 

最初からそりゃあ酷い話だ。と言ってもthreadsに溢れているような、下世話なよくある話。3年付き合い婚約した男に二股されていて、寿退職した後にもう一人の女が妊娠したからそっちと一緒になるので別れて欲しいと言われた女性。ある日虚脱状態で路線バスに乗り、これまで行ったことがなかった広い公園へ連れて行かれる。

彼女の状況や心境がリズミカルな文章で描かれて小気味良くて脳は喜ぶが、内容は最低なので心は痛む。すげー、と思ったのは、婚約破棄を言い出した男が何かとてつもない困難に挑むような凛々しい表情をしていた、という箇所だ。自分にはただ驚愕で絶望的事態だけど、相手は困難なミッションに挑み奮い立つという温度差。主人公はそこで既に、男をアホだなと呆れ始めていたと思う。悲しいと共に惚れた相手のアホさに呆れてしまうというか。絶望と悲しみに溺れながら、相手のトンチキさを嗤い呆れるところに共感する。

 

最後に主人公は気を取り直し、自分の日常に帰っていく。公園の奥には枯れ果てたたくさんの向日葵が立っていて、まるで項垂れた集団のようなイメージを想起する。声をかけると首振る向日葵。枯れた向日葵は恋の亡骸のよう。彼女の思いを受け止める相手として最適なのかもしれない。

 

 

そして文庫のタイトルを文中からもらったストーリーも酷い話。家族の中で差別といじめが横行し、見た目が地味目というだけで幼い頃から虐げられて今は外に出た女性。祖父が亡くなり、遺産分けで押印が必要で、ファミリーでよく訪れた温泉旅館に必ず来るようにと手紙が来て、そこへ行くのだが…

 

自分には似てないというだけで娘を虐めてきた母親、その母親そっくりの美貌だが姉を何の疑いも持たずに虐める次女。母親に一目惚れして婿養子で入り、何も言えない父親。おとなしく自分を出さない祖母。唯一まともだけど口出しできない姉。家族の中で孤立している。

温泉でも考えつく限りの不快なことを言ってくる妹は、唯一祖父が主人公へと遺した腕時計までも取り上げようとする。だがこの主人公は幼い頃から状況を俯瞰視しており、自分のせいではなく家族がおかしいと理解していた。今回も冷静に対処する。そもそもこれが最後になる、後は縁を切ると決めているのだから、どうってこともない。腕時計は祖父を看取った祖母に返して、後はご自由に、だ。

 

祖父は成功して財を築いたようだ。だから資産家ファミリーと言っても良いだろう。そこで甘やかされて育った母親は、どこまでも自分本位で捻れてしまった。でも、虐められ孤立した主人公は真っ当に育ち家を出た。祖父は全部見ていた上で、こっそりと主人公だけ遺したものをこの温泉旅館の女将に託していた。

祖父も状況を放置してきたことで虐待に加担したと思うけど、この先ファミリーから離れても困らないよう考えてくれた。そこは、誰かが見ててくれたということで若干安堵を感じる。だけどこの金額、、、文句は言えないけど、このご時世では決して十分すぎる金額でもなく、感動するほどの莫大な金額ではない。でも決して少ないとも言えない絶妙な金額だ。

 

話はそこで終わらない。実は祖父は、一人だけでこの旅館を訪れていた。女将とも浅からぬ仲であったようだ。だからこそ旅館で書類押印させるよう予め指定し、孫に渡すものを女将に預けたのだろう。このミッションが終わることが女将にも区切りになり、旅館は近いうち人手に渡るという。女将と祖父の関わりについては何も書かれてないけれど、いろいろしみじみ想像してしまった。一人で訪れ、美しい景色を絵で書き、存分にリフレッシュする祖父。きっと自分の家族にうんざりしてたんだろう。だったら家で何か言っても良さそうなものなのだが、逃避したんだろう。側で話を聞き、祖父を労わる女将。秘めた関係だからこそ、互いを労り合っていい時間を過ごしたのかもしれない。だからって不倫は容認できない。

 

けれど祖父の秘密を知ることで、主人公は祖父から自分への信頼を感じたのではないか。お前はまともだし軽々しく話さないだろう。だから自分の人生の中で、秘めた大切な時間があったことを知られてもいい、知っておいてほしい。

主人公は家族関係の苦労から自分を解き放ち、そして祖父からのギフトという形である意味報われたのだ。これからの人生に希望がありすっきりした思いの主人公に、あたたかい想いが残る。この後味が、まさにこの作者ならではのものだろう。

 

特筆すべきなのは、全てのストーリーの味わいが違うこと。だから飽きずに読めるし、全てがおもしろい。第2弾、第3弾までも出したいと意欲を見せているのも嬉しい。

そして文庫の後書きではなんと件の倉阪鬼一郎が降臨しており、そこもまた余韻を深める仕掛けがされている。なんとも粋な計らいである。

千早茜が初めて書いた時代小説で、2022年下期の直木賞受賞作品。

戦国時代の終わりから江戸時代にかけて、島根県にあった石見銀山は日本最大の銀を算出した。本作はこの銀山の山師に拾われ、女児ながら坑道で働くことを選んだウメの人生を描いている。全体的に熱っぽさとどこかひんやりした感覚が共存している。

 

かつては世界でも指折りの産出量を誇った石見銀山。だが次第に銀の枯渇、坑道の水没などで銀の産出が難しくなり、最終的に昭和18年に完全に閉山となった。そこに人々の営みがあった事含めて、全てが今はもう夢の如しで、歴史が感じさせるロマンがある。

石見銀山は、山を崩したり木を倒したりしてやたらめったら坑道を掘るのではなく、山への環境配慮の上で採掘していた点も評価されて、2007年に世界遺産登録されている。

 

 

主人公のウメは夜目がきく子供で、両親との夜逃げで生まれた村を離れたが、追手に追いつかれた両親と離れて一人で山を越える。疲れ果てて寝落ちするが、気づくと闇に光る葉を見つける。それは地中の銀を吸い取って光る羊歯の葉で、銀の在処を示す『蛇の寝ござ』と呼ばれるものだった。いつの間にか今は廃れた銀の間歩(坑道)に入っていたのだ。

ここでウメは銀の気が視えると謳われた山師の喜兵衛に拾われ、喜兵衛の小屋で生活することになる。間歩のある山には銀を掘る者たちの集落がある。

 

銭になる鉱脈を山の中で探し当てる才覚が鋭く、山師として喜兵衛は一目置かれている。見つけた場所に坑道を掘り、自分の坑夫のグループを率いて銀を掘り出す。喜兵衛は非人道的なことはしないため、坑夫たちからの人望も厚い。

ウメは4、5歳の女児ながら、非常に気がしっかりしていて身体能力も高い。物おじせず気が強く、喜兵衛に可愛がられる(ウメは可愛がられているとは気づかない)。

やがて喜兵衛は、山に馴染み夜目がきくウメに様々なことを伝えるようになる。自分の見つけた鉱脈が描かれたお宝の絵図。山の資源は鉱物に限らず、役に立つ植物や土の使い方。

 

好き勝手に山の木を刈らずに木材は外から買い、山津波を起こさせないようにと進言する喜兵衛。才覚があり、役人が書いた記録も読めて頭が回る。体も大きくて豪放磊落、大声で軽口を叩く。だが間歩に行かない日はどこか虚ろで酒を飲み、ウメは少し怖いと思う。

この嘉兵衛のキャラは非常にしっかりと作られているので、ウメが嘉兵衛の人間性に惹かれていく気持ちに寄り添いながら読むことができる。

 

喜兵衛には忠実な手下としてヨキという小柄な男がいて、調べ物や汚れ仕事をしている。ヨキは今は滅びた外国の人間で、奴隷だったのを喜兵衛が買い取ったという。物静かで内面が読めないヨキは少し不気味で、ヨキの存在が喜兵衛の抜け目なく容赦ない一面を伺わせる。

 

ウメは喜兵衛にここにいる間に生きて行く術を身につけるよう言われる。喜兵衛に寄りかからず生きる力を付けた方がいい。喜兵衛から教わったことを好きに使ってよいが、身を守るために欲が絡んだ大人に知識を気取られないよう、さかしくならないようにと言われる。

どこで暮らすも自由、間歩に入らない他の生き方もあると言われても、ウメは喜兵衛と間歩で働く事を選ぶ。間歩の闇に魅せられたこともあるが、人間的に魅力のある喜兵衛のそばにいたい思いが強いだろう。本来女は間歩には入れないが、喜兵衛が世話しているのと、喜兵衛も一目置く最年長の銀堀の岩爺が認めたため、ウメは下働きになる。

他の子供たちからは余所者としてつまはじきにされ、そして事あるごとに「おなご」であることが付きまとうのも鬱陶しいが、夜目がきくため働き手として嘉兵衛を助けられることが嬉しい。

 

喜兵衛は時に遠出で長く小屋を空ける。ある時喜兵衛がヨキを連れて山を越えようとしているのを見て、ウメは衝動的についていき、初めて海を見て、船を見て、異人を見る。

取引先の石切場に異人の血が入った捨て子の赤ん坊がおり、成長したら喜兵衛が引き取ることになる。嘉兵衛から龍と名付けられた子は物静かな子供になりウメに懐く。髪が薄茶色で目が青い龍は、さぞ可愛い子供だろうと想像する。

 

思えば、喜兵衛の庇護を受けて間歩で働いたこの期間が、ウメの人生で至福の時だったろう。間歩の底しれぬ闇への恐怖、落盤事故、大体の堀手が石粉で次第に病み若いうちに亡くなる職業病など、銀山が決してパラダイスでないことも描かれる。(この職業病があるから、経験値や人柄に加えて年配になるまで生き延びた岩爺は尊敬を集めているのだ)

 

 

やがて関ヶ原の合戦の後、徳川の世となり銀山が幕府直轄となる。役人が入ってきて銀山を差配するようになり、人に使われる事を好まない喜兵衛はおもしろくなくて酒量が増え、憂鬱を溜め込むようになる。

その頃思春期を迎え初潮が来たウメは、間歩に入る事を禁じられてしまう。血は穢れであることと、男たちの気が散るからだ。自分の性に無自覚で無邪気なままのウメは、幼い頃から反目してきた少年の隼人が自分を意識する意味が変化したことに気づかず、隼人を刺激してしまう。二人の関係性の変化と性の目覚めは甘酸っぱい。その前段階として、一緒に躑躅の蜜を吸いまくるのが暗示的だ。

 

喜兵衛の留守中、銀筋がろくに読めず乱暴で嫌われ者の山師の伝兵衛が来て、銀脈のありかを教えるよう強要される。嫌々ながら適当に場所を教えるが、その後に伝兵衛の手下二人から陵辱される。もっと抵抗はできたが体が勝手に諦め、男たちが静まるのを待つしかないという諦念の描写に説得力を感じる。抵抗しなかったのは合意ではなく、恐怖もあるし一刻も早く終わって解放されたいから抵抗できないのだ。

 

だがウメは身籠もってしまう。ヨキに妊娠を悟られて咄嗟に喜兵衛の子だと言ってしまったのは、喜兵衛はウメの生きるためのよすがであり、人生の師であり、絶対的愛情の対象で、せめて嘉兵衛の子と思わなければ悲しすぎるからだ。だが愛する男の子を孕んだ喜びは皆無なのをヨキに見破られる。この描写はとても哀しい。

ウメは襲われた男にヨキの協力を得て復讐する。もう一人の男も、誰かの手で始末されて死体で見つかる。結局ウメの幼い身体で育ち切らず、子供は流れてしまう。妊娠したくだりを読み(あんまりだ)と胸がずーんと重くなったが、図らずも流産したのは正直とても安堵を覚えた。

 

だがウメが伝兵衛に適当に教えたつもりの場所は、結果的に物凄い産出量となる銀の大鉱脈だったため、伝兵衛は大出世して取り立てられる。嘉兵衛が山を枯らさないように取り尽くすことをあえて避けていたことも、結果的に無駄となった。

幕府からの差配を嫌う喜兵衛はだんだん仕事が減る。やがて嘉兵衛は佐渡へ移ることを決意し、ウメは石見に残り幼馴染の隼人と一緒になるよう言われる。喜兵衛は隼人がウメに惚れ込んでいるだけでなく、山で働く男としてもしっかりと志を同じくすると見込んだ上で、隼人にウメを託したのだ。

 

嘉兵衛にすれば、子種もなく遥かに年上の自分が連れて行くより、ウメを知る人がいる慣れた場所で生きることが良いと判断したのだろう。だがウメはまだまだ子供っぽく、ここで喜兵衛の深い愛情には気づけない。

思いを残したままの別離となり、ウメの中には喜兵衛がずっといる。大人になり隼人と夫婦になっても、行き場のない思いを発散するため、時折ウメは夜の山に入り駆け回る。隼人はそれに気づいている。だが二人の間に愛情がちゃんとあって、ウメが隼人とのまぐわいに喜びと安らぎを感じていることは喜ばしい。

月日が流れ、ウメは何人も子を産み、周囲のおかみさんたちとおしゃべりしながら家事をしたりと、ごく普通の女としての暮らしを手に入れる。それでも嘉兵衛への思いは燻り続け、嘉兵衛が失意のまま亡くなったことを知っても深い悲しみや喪失感を分かち合える相手がいない。まさか夫に話すわけにもいかない。

 

やがて石見に戻ってきたヨキから、ウメを襲った男の一人は嘉兵衛が手をかけて始末したことを知らされ、ウメの心は最大限の喜びで震える。一時の快楽の為に自分の尊厳を踏み躙った人間を、嘉兵衛は表向き冷静に受け流しても決して許さなかった。そして最大の罰を与えた。これが愛でなくてなんであろう。自分の命を預けこの世で一番愛した男から、それほどまでに大事にされていたことで全力で泣くウメに、全力で共感できる。

 

 

銀山で働く男たちは過酷な労働環境と終始粉塵を吸うことで塵肺になり、30歳手前でだんだんと衰えてやがて亡くなることが多い。男たちの平均寿命は30歳くらいで、銀山の女は3回結婚すると言われる所以である。夫が亡くなると、子を産める歳の女はすぐに再婚する。だがその相手もやがて同じ運命で死んでしまう。何と過酷なことだろう。同じ悲しみを繰り返すことが分かっていても、銀山の女たちは再婚する。それが自分の人生の営みだと受け入れ、子を産むことで夫の命を未来に繋ぐ。たくましいというか、頼もしいというか。

 

ウメの夫の隼人も銀山の男の運命から逃れられず、血を吐き息の苦しさに悶える。隼人が弱っていく間、ウメの祈るような痛切な思いは紛れもなく愛情で、嘉兵衛の影が夫婦の間に挟まっていてもウメと隼人が愛し合っていたことは間違いない。隼人は自分がどれほど頑張ってもウメの中の嘉兵衛を消し去ることは不可能で苦しみもしたが、最後は青年に成長した嘉兵衛のもらい子の龍と一緒になるように伝えて亡くなる。どれほどウメが大事なんだと、羨ましくなる。

 

龍がウメと連れ添うのは大分歳が離れているけど、龍が小さな時からウメに懐き慕っていたので、ウメを大事にしてくれると思えて何よりだ。しかしその龍もまた同じ病気で亡くなる。愛する男を銀山が奪っていく連鎖から逃れようもないのがとても残酷だ。でもウメはあえてそれに乗り、自分の生を全うする強さを身につけている。

 

ウメは一人生き存え、最後には自分が誰なのか何なのかも曖昧になり、山の一部となるように溶け込んでいく。親との夜逃げ、生き別れ、嘉兵衛との離別、連れ合いを病気で失う切なさ、ウメの人生には辛い出来事がたくさんあった。それでも色々な男を愛し愛され、自分の生を全うした。ウメが生き切ったことで、読後は爽やかな思いが残る。

ウメの生命力、前に進む力強さを一貫して信じられるので、どんな悲しい出来事が起きても最後までどこか安心して読めた。性愛の気配も濃い話なのに清冽さが際立つのは、やはり運命を引き受けて自分の人生を全うする女性たちの潔さを感じるからだろう。

 

今は産業遺跡と歴史遺産になっている銀山。そこで生きることが人生だった人たちの営みは、決して楽ではなく過酷だったけど、それぞれの喜びもあったはず。

生きることは本来大変で苦しいことも多くて、だからこそ喜びは一際輝く。そうした人の営みが延々と続いて今の自分たちにつながっている。

 

2025年に英国ダガー賞の翻訳部門を、日本人初で受賞した作品。同時ノミネートの柚木麻子の「BUTTER」共々話題となった。

 

滅法おもしろい小説だ。読み終わってすぐに読み返したが、2度目も一気に読めてしまった。物語の巧みさ、キャラクターの造形、時代感、どれを取っても加減が良く、何より長すぎず短すぎずで飽きずに読める。文体も簡潔で読みやすい。

女性二人の物語で、女性が暴力を振るうバイオレンス小説。ジェンダーの問題もさりげなく盛り込まれるが、角度が他とちょっと違うのがいい。小説でなくてはできない仕掛けもあって楽しめる。

 

この作品、漫画や映画のようだとよく言われるそうだが、主人公が少年漫画の主人公みたいだ。暴力の気配だけでゾクゾクワクワクして気分が上がる人間で、女でありながら腕っぷしが強くて痛みにも強いので、バイオレンスシーンが読んでいてスポーツのように爽快だったりする。そこに新しさを感じる。ヤクザやバイオレンスを描いた映像作品には興味が薄い自分も楽しめた。

 

 

ババヤガとはロシア民話に出てくる鬼婆のことだ。

主人公が子供の頃祖母のお話を聞いている時、一番好きだったのが鬼婆の出てくる話だった。鬼婆は善玉なのか悪役なのかよく分からない。主人公はそこがいいという。

いにしえの中学生時代、クラシックのレコードを買うと称して親にお金を出してもらい、ムソログスキーの曲をプログレバンドELPが演奏する「展覧会の夜」のLPを買った。バーバ・ヤーガというワードがタイトルに入った曲が3つも入っていた(うち2曲はELPのオリジナル)。当然この言葉が気になったし、バーバ・ヤーガの意味もその時知った。鬼婆、ババヤガ、どちらもばばが含まれるのがおもしろいが、同じ語源ということはあるだろうか。

 

 

主人公の新道依子は北海道出身で祖父母に育てられ、途中で父親はいなくなり、母親のことは何も知らない。祖母はどうやらロシアの血が入っていて、目は青く髪は茶色かった。だが新道の髪は生まれつき赤く、睫毛まで赤い。また別の血なのだろうか。だが新道は自分の出自に関心が薄く、戸籍を見たりもしない。そこが新道らしい。高校時代祖父母を見送り卒業後は上京した。祖父が亡くなり、殴り合う相手が熊ぐらいしかいなくなったというのには笑った。たくまざるユーモアも魅力だ。

 

新道は祖父から天稟(生来の才能)があると言われ、子供の頃からありえぬほど厳しく鍛錬されてきた。がっちりとして女性としては大柄に成長し、暴力を振るうことをこよなく愛す。競技やプロレスなどルールがあって勝敗を決めるものには興味がなく、ひたすら喧嘩で相手を叩きのめすことを好む。

 

そんな新道が歌舞伎町で暴れているところをヤクザに目をつけられ、内樹組の組長の屋敷に連れて行かれる。組長のお嬢様の尚子の運転手兼ボディガードとしてスカウトされ(実態は拉致と恫喝だ)組長の屋敷に一部屋与えられ、朝から晩まで尚子の送迎をする生活になる。

屋敷では組員でもなく女である異分子の新道は居心地が悪い。こちらから喧嘩は売らないが、喧嘩をふっかけられたら倍値で買う。その辺のチンピラより腕っ節が強くて叩きのめすのが痛快。新道は暴力が大好きで肝が据わっており、ヤクザに囲まれても全くビビらない傑物である。

若頭、事務所、部屋子など、当然のようにヤクザワードが出てきて、頭の隅を暴対法という言葉がよぎるが、とりあえずそこは無視して読み進める。

 

新道がガードする組長の娘、18歳で短大に通う内樹尚子(しょうこ)は、細くて小柄でクラシックな古臭い服装に常に身を包み、髪が長く化粧っけもない。短大に加えて毎日休みなく複数の稽古ごとに通う。婚約者がおり、短大を出たらすぐ結婚するので稽古事は完璧な妻となるための花嫁修行で、お菓子作りに料理、ピアノ、英会話、茶道花道、和弓になぎなたなど多ジャンルに渡る。

尚子は新藤には上から口調で突っかかり、常に何か苛立ちをぶつけてくる。ある日それが止まらずヒステリー状態で号泣してしまい、習い事は休んで尚子の希望で喫茶店に入ることになる。本格珈琲を嗜みながら新藤の子供時代の話になり、そこで鬼婆の話が出てくる。

 

鬼婆はいいことも悪いこともやりたい放題だが、純真な娘が王子と結婚するのを助けたりもするので、「心の綺麗な優しい娘になれば鬼婆みたいな怖い人も助けてくれる」と祖母は必ずお話の締めに話したという。

新藤がお姫様よりも鬼婆の方がおもしろそうだから鬼婆になりたいと言うと、お姫様然とした尚子も鬼婆の方になりたいという。自分の服装は好きじゃないけど、自分の服は全て今はいない母親に父親が買ったもので、髪型もノーメイクも母親がそうだったから。結婚したら違う服が着られるから我慢も後少しだと尚子は言う。でもやりたい放題の鬼婆になりたい位だから、本当は押し殺したものがあるのだろう。

 

この時二人は初めて会話らしい会話を交わす。何しろ新藤は女でも暴力だけ愛する変わり種で、どういう育ち方をしたのか尚子に語ることで読者も理解が深まる。

そして尚子は自分が他人から同情されて憐れまれることに我慢がならない。新藤はそんなつもりじゃないが、本当にそうなのか分からなくなってしまう。だって、尚子は組長の娘という忌避される立場でヤクザに囲まれて生活し、同情しない方がおかしい状況だ。そんな相手と婚約する男も不可解で、結婚の先に幸福な人生があるんだろうかと私ですら考える。

この会話を通して二人が仲良くなったり、気安くなることはないが、相手への理解は深まり、少なくともある程度気を許せる関係性になったと思う。

 

 

夜、薬を盛られて動けなくなった新道を男たちが凌辱しようとしていると、尚子が踏み込んできて毅然として男たちを追い払う。抑制された生活を強いられ、苛立ちを新道にしか出せない尚子が、ヤクザたちを相手に強い態度で新藤の危機を救ったのは胸がすく。さすがに組長のお嬢様には彼らも歯向かえないし、組長の逆鱗に触れること必須だ。

 

新道が敬意と感謝を伝えると同時に、怖かっただろうと尚子を労わると、尚子が鼻で笑う。明らかに強がりだがここを読んで尚子が好きになった。

新道にとってはやばくなる前に助けてもらい、何かされたうちにも入らないのだが、尚子は「女にとって一番の酷いいやなことで、ああいうことは許せない」と激昂する。尚子が事態に気付いたのは「この家で暮らしていると足音に敏感になる」からだという。鋭い人ならこれだけでその意味を察知できるかもしれないが、私が理解したのはもう少し先だった。

 

新道は翌朝組長に呼ばれ、これで手打ちにしてほしいと関わった男たちのパーツが入った箱を渡される。いかにもヤクザの落とし前すぎて、新道はすぐ生ゴミのバケツに箱ごと捨ててしまう。うげー。男たちに罰を下した人間は、組の者ではなく組長が五分の盃を交わした拷問好きの変態野郎で、それが尚子の婚約者だという。うえー。

 

送迎をして、たまに稽古事をさぼり喫茶店でコーヒーを飲むという毎日が続く。尚子は新道から故郷や家族、修行の話を聞きたがるが、自分については多くを語らない。すました顔や生意気な態度は気楽に生きられない立場の尚子の鎧で、新道は他愛ない話をしながら尚子の鎧の下の顔を少しずつ見るようになる。

新道には暴力の気配のせいか女友達はできなかったが、尚子は新道を怖がらないので友達同士のような会話をするのは、読んでいて微笑ましくて和む。二人とも普通には友達ができないかるから尚更だ。

 

 

ある時、尚子に手を出したと勘違いし新道がぶちのめした相手が尚子の婚約者の宇多川で、リベンジで切り刻まれそうなまずい状況がピークになった瞬間、尚子が子供の頃駆け落ちした母親と若頭が見つかったという知らせが飛び込んでくる。

組長は若頭補佐の柳に2人を捕まえてくるように命じ、柳が新道の同行を希望してその場は放免となる。新道は柳の部下という形で屋敷に置かれていて、柳は極道にしては頭も気も回り、新道の身を気にかけて自分の女になれば周囲に手出しされないと言ったこともある。ヤクザの剣呑さはあるが、バカではなく心ある男だ。

 

その晩、新道は尚子の部屋に入る足音を聞く。尚子の「この家で暮らしていると足音に敏感になる」という言葉の真の意味は、尚子への父親からの性的虐待で、新道は考える前に体が動いて尚子の部屋に踏み込む(あの日尚子が踏み込んだように)。

組長のバカ力にやり返されピンチとなり、そこに尚子の弓の一撃が父親にとどめを刺す。

 

逃げ出す二人の前に柳が立ちはだかり一応新道とやり合う形を取るが、柳も何もかもに嫌気がさしており、ルーツのある国へ帰ると言う。二人を自分の女房と妹として連れて行くこともできるとも。新道は「誰かの何かとして生きることは無理だ」と断る。クールだ。

尚子は柳に「私、お母様に似てる?」と尋ねる。柳は新道には「気味が悪いほど姐さんそっくり」と言っていたのに、あえて全く似てないと言って尚子を父親の呪縛から解放する。尚子はここで初めてにっこり笑う。しびれるやり取りだ。

 

雨の中いつもの送迎車で猛スピードで逃げる二人。「私たち、地獄に落ちるのね」「ばーか、ここがもう地獄だよ!」というやり取りが、高揚感が感じられてすごくいい。長い髪とネックレスを切り落とす尚子の開放感、どうにかして逃げ切ってやるという新道の決意が胸熱。ここで物語が終わっても不思議ではないし、全然満足できると思う。

 

 

だがこの小説にはまだ仕掛けがある。ところどころで挿入される、正と芳子という二人の物語だ。二人はもう若くなくて60前後か、穏やかな日常を送っている。芳子はどこにでもいる普通のおばさんで、正は昔かたぎな職人みたいに見えるおじさんらしい。

このパートの直前で、柳が新道に尚子の母親は若頭だったマサという男と駆け落ちしたことを明かす。その直後に正と芳子の章が置かれ続けて読むと、マサ=正だと思っても仕方ない。二人がひっそりと静かに暮らしている様子から、尚子の母とマサの駆け落ち後の暮らしだと思う。

 

ある日買い物に出て、正と芳子は交通事故を目撃し、燃える車から父親と幼い娘を救い出す。その様子は通りすがりの野次馬にスマホで撮影され、拡散されてヒーロー扱いでニュースでも流れてしまい、ひっそり暮らす家にはマスコミが押し寄せる。豪雨になり避難勧告が出て、マスコミは帰るが、動画は東京キー局からのニュースにも流れ続ける。

何度かに分けてこの経緯が各章の合間に挟まるのだが、スマホで撮影されている時点で二人が追手に見つかることは予想がついてしまう。

 

やがて大雨が降る中、車のヘッドライトがいくつも家の前にやってくる。ニュースの映像を見て追っ手が来たようだ。芳子と正は果敢に襲撃を迎え撃つ。頑丈なマグライトを武器に使うのに闘い慣れていると感じる。だがさらなる驚き、芳子が拳で攻撃する際に口から漏らす音は新藤依子のものではないか。芳子は尚子の母親の偽名ではなく、新道依子だった。

そして新道は尚子のことをここで正(しょう)と呼ぶ。そうか、正(しょう)=尚か。文字情報ならではのトリックだ。よく考えたらよしこ=よりこも音が近い。

話し方も、最初から新道の一人称は「私」で変化しないことで、芳子が新道だと気づきにくい。尚子は50代で「アタシ」と言っており、そういうおじさんも現実にいる。

 

つまりこの話はタイムマシーンのように70年代半ばから現代までの40年間を駆け抜けているのだ。道理でヤクザはあまりにもヤクザだったわけだ。

ちなみに芳子=新道であると判明するこのパートは、新道が尚子の父親の性的虐待を知り、屋敷を尚子と飛び出す直前に置かれている。新道たちが40年逃亡生活をしてたことを先に知ってから、その長い逃亡の始まりを噛み締めながら読むことになる構造だ。

 

 

逃亡を始めた日から、尚子は女の身なりをしなくなる。15年が経った頃、二人は偽の身分を金で買う。女の名前は一つしか手配がつかず、尚子は進んで男性の斉藤正になる。

90年代は自分探しという言葉が流行った時代だが、身分はフェイクでも新道の『今ここで生きている自分はどこまでも自分自身』という言葉に大きく響くものがある。ラベルと関係なく、自分は自分であっていい。

 

そして40年が過ぎて追っ手が来た。読みながら『とうとう』というより遂に決着の時という感覚になるのは、迎えうつ新道が堂々としているからか。襲撃してきたのは尚子の婚約者だった宇多川で、なんと40年ぶりの邂逅である。宇多川はヨボヨボで、自力では歩けず声が出せなくなっている。

宇多川の前に現れた尚子は弓に矢をつがえている。家に侵入してきた男たちも、新道がマグライトの光を当て尚子が矢で倒している。二人はこの事態に備えて鍛錬を怠らず、シミュレーションもしてきたのだろう。40年間油断せず研ぎ澄ませてきたことに感嘆する。

尚子は宇多川に矢を向けるが、新道はもうやめようと宇多川に働きかける。何しろ40年だ。新道は62、尚子は58。だが宇多川が受け入れたように見せながら、尚子を銃で撃ち、足に当たる。

 

ラストシーンはまさに映画のようで、詩情豊かであろう映像が思い浮かぶ。

海沿いの道をスーパーの大きなカートに尚子を乗せて新道が押している。なぜこんなに力が好きで生まれたか、鬼婆になるためと思ったら納得した。人として人に混ざって生きるのは無理だった。尚子と一緒に鬼婆になるため、ここまで来たと。尚子の返事はない。尚子、眠ったのか、死んでしまったのか。

 

 

逃亡後は新道が暴力を封印して過ごすうちに体重が落ち、言動もどんどん普通の女性みたいになるのがおもしろい。だがそれ以上に尚子の変化は驚くべきものがある。よく食べることで体も大きくなり、ずっと男物を着て男の髪型にして、年を経て体も丸くなり言動が寡黙なおじさん化していく。

 

尚子の見た目男性化は、これまでの自分を封印して庇護される女で生きるのはやめたかったこともあるかもしれないが、追跡を交わすための計算もあるだろう。作中には『男に見えるものと女に見えるものが一緒にいれば夫婦とみなされ、型にハマった世の中ほど騙しやすい』と書かれており、人がいかに見た目情報でラベリングしてしまうを示唆している。

性自認が男性だった可能性も考えたけど、最後の場面尚子の話し方は若い時と同じで元の尚子のものだ。作中で新道は祖父から暴力で天稟(生来の才能)があると認められ、尚子には忍耐と努力を継続する精神力が備わっていると書かれている。おじさんとして生きることを徹底できたのもその賜物だろう。


そもそも性的関心を持たない新道にはアセクシャルな印象もある。男性を装う尚子とは、40年一緒にいても互いに欲望を抱かず、他に相手を作るでもない。長い時間の積み重ねで関係性は深く強くなり、シスターフッドを超えた唯一無二と感じる。

二人の関係は友人でも恋人でも、雇用関係でも家族でも夫婦でもなく、本人たちですら関係に名前をつけられないと書かれている。逃げ続けた40年間を思えば『運命共同体』だろう。お互い素性を知り気が置けない話が唯一できる相手。一般的な意味とは違うがまさに『運命の相手』と言えそうだ。新道のおおらかな自己肯定感と、尚子のねばり強い一貫した姿勢。性別など関係ない。ずっと鬼婆でいられる相手がいい。