千早茜の天才調香師のシリーズ第3弾で完結編。
第1作「透明な夜の香り」で十分過ぎるほどの作品世界を構築し、第2作「赤い月の香り」も出た。どちらも調香師の小川朔を真ん中に置いて、朔に雇われた者の視点から物語が描かれている。香りをオーダーメイドで提供するエピソードから成る連作短編集だ。
小川朔は人間離れした嗅覚の持ち主で、そこにいる人間の心理状態、食べたもの、生活習慣など全て分かってしまう。ことに嘘をつく人間の匂いは耐え難いものだという。匂いの刺激を避けて、人里から少し隔離された森の中の洋館で暮らしている。訪れる依頼人の要望に合わせて香りを作る。洋館で働く人間には朔が調合した香りを使ったもので身だしなみを整えることを要求する。並外れた嗅覚を持つ朔にはこれも致し方のない自衛の手段だ。
繊細な見た目の一見イケメンだが、作者は天才だけど変人で偏屈で嫌な奴のつもりで書いているという。モデルはレクター博士だそうな。その変態性を書けば書くほど読者には好意的に捉えられるという、作者のジレンマが面白い。
今作は前2作の前日譚で長編という変化球で、完結編でもあるという。
舞台は京都の香の老舗で姉の真奈の視点から描かれる。姉妹が20歳の朔と出会い、5年後に妹の丹穂が亡くなったところから物語は始まる。
丹穂の葬儀で遺体を焼いた際、あり得ないほどの芳香が立ち昇った。普通はそんな香りは焼き場では絶対にしない。香の家の娘で、嗅覚に秀でた調香師だから起きた奇跡?
縦糸に人間関係、横糸に奥深い香道の世界を描き、ミステリ要素もある作品だ。
姉の真奈は凡庸な人間だが、妹の丹穂には並々ならぬ嗅覚が備わり、学生時代から家業を調香師として支え次々新しいものを作り出してきた。マイペースに振る舞い、優れた嗅覚で家業に貢献する妹に、真奈はずっと劣等感を感じる。
真奈は緊張しやすく、慌ててしまって口ごもったり咳き込んだりで上手く喋れない。特に秀でたものもなく自信がなくて常に萎縮している。要領の悪さや緊張しすぎなメンタルに、読んでいて正直ちょっとうんざりしてくる。自然体で堂々としていればいいのに。妹のような嗅覚がなくても、経営面で貢献できるよう頑張ればいいのに。
姉妹がまだ幼い頃母親は交通事故で亡くなっている。社長である父は妹の丹穂が急死したショックで、1ヶ月以上自室に引きこもっている。仕方なく真奈が社長代行を務めるが、自他ともに認めるほぼお飾りだ。しっかりした秘書に上手に頼ればいいのに、秘書にまで真奈は萎縮する。
新しい香りを考え製造にも携わっていた丹穂がいなくなれば、今後の店の売上に影響は必須だ。おまけに経営者の父は今は頼りにならない。
真奈の前に伽羅の香りの骨を探しているという探偵の新城と、姉妹と以前交流があり丹穂との約束を果たすために来たという小川朔が現れる。
新城は骨壷から消えた香りのする骨を探し出すよう、誰かから依頼を受けている。
一方朔は丹穂から『自分にもし何かあったら家を助けて欲しい』と頼まれていた。その約束を果たすために来たという。朔は会社所有の薬草園の建物に泊まれるよう希望する。
二人は行動を共にしているようで、実は別々の理由で動いている。だが新城は目的達成には朔と行動するのが有利だと心得て、大体一緒に現れる。
朔は鋭すぎる嗅覚故に孤独な人生を送ってきた。知りたくもないのに匂いで相手の感情が見えてしまう。匂いから察知した真実を、時に辛辣なほどの言葉で突きつける。孤独と孤高が人格を形成した。若いのに老成した雰囲気、非情なほどの客観性。本作での朔と他者の言葉の応酬は言葉で斬り合うようでおもしろく、相手の真実を暴く朔の言葉は時に痛快だ。
唯一朔とは同じ施設育ちの新城だけが距離が近い。新城は粗野で無神経な男だが、朔のよき理解者だ。ヘビースモーカーなのに、施設で一緒だった新城の匂いはもう馴染んだものになり、そこに煙草の匂いも含まれているんだろう。それに新城はアホでガサツだけど、きっと朔には嘘をつかない。
この家では代々伝わる希少な香木がある。そんな一族の複雑な人間関係も描かれる。同族経営の会社では叔父や従兄弟も働き、経営に関わらない叔母たちも絡んでくる。彼らが抱えるものを朔が明るみに出すことで、いずれ家業を率いる立場の真奈には大きな助けとなる。朔は正義感があってやっているのではなく、嘘の匂いでわかる事を伝えるだけだ。嘘と欺瞞に満ちた人間関係は、親戚だからこそ生臭い感情が満ちている。
こうした人間関係の綾も興味を惹くが、話の主軸は真奈と亡くなった丹穂の関係にある。
丹穂も朔と同じく嘘の匂いが苦手で、姉には嘘をつかないでとずっと言ってきた。
でも真奈は嘘をついたことがある。朔と出会った瞬間、真奈は一目で強く心惹かれた。その帰り道に朔のことが気に入ったか丹穂に聞かれて否定した。じゃあ自分が仲良くなっていいかと聞かれ、もちろんと答えた。それは自分の心を灼くような痛みを伴う嘘だった。
丹穂は出会いの瞬間匂いの変化で感知できたことがあったろうし、嘘も匂いで気づいたはずだが、何も言わなかったのは姉が大切だから気持ちを尊重したのだろうか。
朔と丹穂はともに優れた嗅覚が備わり、他人には感知できない世界を共有できるだろう。そして他人が作ったものが食べられないなど、生活上での共通点も多い。二人が惹かれ合うのは当然のように真奈は思っていた。
妹への愛情、劣等感、嫉妬心で真奈の感情はこじれてしまう。だが丹穂も真奈に隠し事をしていた。
真奈は母親の記憶が不思議とおぼろで、それがずっと不思議だった。元々母は家族への関心が薄く、家族を捨てようと家を出た時、姉妹の目の前で交通事故で亡くなった。その時幼い丹穂が母親の荷物から香木を探して持ち出した。それは代々伝わり代替わりの時だけ炊く『相伝の香』、貴重な最上質の伽羅だった。見ていた真保の記憶を丹穂は香りで封じた。
香りは一瞬で記憶を蘇らせる力がある。だがずっと同じ匂いを嗅ぐと、耐性ができて感じにくくなる。丹穂は真奈に事故時の記憶が戻らないよう、家中に母親と同じ香りを潜ませてその匂いに麻痺させた。その上念の入ったことに、全く違う香りを母親の思い出の香りとして作り、真保の記憶を混乱させた。なぜそんな事をしたのだろう? その貴重な香木をずっと持っていたかったのか。
家に置かれた母の香りには、調合に丹穂らしからぬブレがあった。朔が母の所持品の匂いを元に新たに香を作って炊くと、真保の記憶が蘇る。真保がその時持参した叔父の持っていた香木は母が持っていたものと同じで、その香りが重なって母の最期の記憶の香りが完全に再現された。記憶と香りの関係性、香りを重ねることが鍵になる。なんという謎解きだろう。作者はあまりミステリは読まないそうだが、これは十分ミステリだと思う。
丹穂にはもう一つ秘密があった。朔と出会って2年後卵巣癌になり、抗癌剤治療は嗅覚が落ちる副作用が出て中断した。病気を家族には知らせなかったので、痩せて体調が弱るのを真奈は調香に徹夜で打ち込んだ疲労と捉えていた。亡くなった転落事故も体が弱ったから起きたのだろう。事情を唯一知りながら、丹穂に治療を促さなかった朔を真奈は責めてしまう。二人は付き合っていたのではないのか。なのになぜ。
朔はそういう関係ではなかったと否定する。丹穂から受け取る匂いは同業者から感じるものと同じ憎しみだった。丹穂が朔の会社で研修にきた際、一緒に香水を作ったことはあるが、その後の丹穂の上京は治療のためだった。感覚は共有できない、朔も丹穂も別々の世界に生きていると朔は言う。理屈ではそうだが、丹穂が家族にも言えない嗅覚の衰えを打ち明けたのは、朔が特別だったからだと真保は考える。
私も丹穂には朔への好意があったと思う。自分の月経サイクルに合わせた香水を朔が作り、自分亡き後の家業のことも助けるよう頼んでいた。どちらも信頼できる特別な相手にしか委ねないことだ。朔が京都を訪れ丹穂と会ったことも、真奈は知らなかった。
朔には他者への執着がなく、密な関係を築くことはしない。だからと言って丹穂に治療を続けるよう言わなかったのを冷たいとは思わない。少なくとも朔は、命に替えても丹穂が守りたい世界があることを理解し、丹穂の選択を尊重したのだから。嗅覚は丹穂にとり自分の存在意義だった。それを損なえば何をよすがに生きられるのか。
明かされる謎は小説の最後までいくつも残り、明かされる部分の密度はとても濃い。
丹穂が持って行った母の伽羅の香木はどこにあるのか。
丹穂は母の香りをどこで作っていたのか。会社の調合室にその香りは残っていない。
何より丹穂の遺体を焼いた時の芳香は、本当に骨自体が香っていたのか。
最後にこれらの謎が一気に明かされて、内容の濃さに頭が追いつかない。どれも単なる謎ではなく、丹穂の心情がそこに込められている。何度も繰り返し読んでやっと咀嚼できた。
京都で朔が滞在していた、会社が所有する薬草園の離れ。その屋根裏部屋が丹穂の秘密の調合室で、丹穂が隠した母の香木も見つかった。
そして丹穂の骨は、真保がその離れに隠していた。芳しく香った妹の骨、母のように自分を置いて逃げたようで許せなくて、それでも妹を伝説にしたかった。丹穂が伝説でないと自分の劣等感は理由を失うから。
真保は骨をライターで炙るが、もう香らない。丹穂は落下事故が起きた際、自分が死んで体を焼かれることを見越して、いつも持ち歩いていた母の「相伝の香」から取った木片を飲み込んだのだろう。奇跡を起こして皆の心に自分がいた証をいつまでも残したかった。
謎解きに力を貸した朔と真保の言葉の応酬が、ひときわ心に残る。真保は朔との関わりを通し、自分の執着を少し客観的に認識し、前よりは他人に対して思いを言葉にできるようになった。しっかりしてきて、自立したのだ。序盤のひ弱さからの成長は嬉しい。
そして母親や蒴を自発光するように感じるのは、香りの影響をそういう風に感知できる真奈独自の感覚があるからではないか。老婆心ながら自分の感覚を大事にしてほしいと思う。
新城に妹の骨と相伝の香の捜索を依頼したのは、姉妹の父親だった。失くしたことが身内に知られると、同じ香木を分与された母の姉弟に会社を乗っ取られるかもしない。
全てが解決し、父は社長業に復帰して真保は社長代行から解放される。そこから始まる新しい人生には希望が見えるようだ。まず名前も知らず体だけの関係だった男と関係を結び直そうとする。
ここで物語が終わっても十分だが、10年後に真保が初めて朔の洋館を訪問するところで物語は終わる。朔が自分の香りで染めなくても良い相手を見つけたのを真保は察し、こちらにも希望が見える。
この家の人間には香の匂いが幾重にも染み付いている。物語の謎もそんな幾重にも重ねられた香りのようだ。複雑な心の綾も、もういない丹穂がなぜそうしたのかは想像するしかない。物語中でそれは推察として語られるが、読む側の受け止めとは違うかもしれないし、それでいいと思う。執着の理由が愛情のこともあれば、憎しみのこともあるだろう。作品を通して描かれるのは人間の執着だ。
初読では香道や原材料の説明を呑み込むことに難儀し、謎や真相がすんなり入ってこなかった。続けて二度三度と読み、香を物語に活かした精緻なミステリ的構成に驚いた。香りというミステリアスなものを描いて、非常に独自な作品世界がある。何より香道の世界は奥が深くて歴史があることで、風雅さも漂う。
そして京都という歴史と文化がある場所の今も残る特殊性。独自の文化、祇園祭りなど、土地柄や風俗もうまく取り込み、作品世界を強固にしている。
読む度に発見と心に届く部分があり、魅力が深くなる作品だと思う。