2025年に英国ダガー賞の翻訳部門を、日本人初で受賞した作品。同時ノミネートの柚木麻子の「BUTTER」共々話題となった。
滅法おもしろい小説だ。読み終わってすぐに読み返したが、2度目も一気に読めてしまった。物語の巧みさ、キャラクターの造形、時代感、どれを取っても加減が良く、何より長すぎず短すぎずで飽きずに読める。文体も簡潔で読みやすい。
女性二人の物語で、女性が暴力を振るうバイオレンス小説。ジェンダーの問題もさりげなく盛り込まれるが、角度が他とちょっと違うのがいい。小説でなくてはできない仕掛けもあって楽しめる。
この作品、漫画や映画のようだとよく言われるそうだが、主人公が少年漫画の主人公みたいだ。暴力の気配だけでゾクゾクワクワクして気分が上がる人間で、女でありながら腕っぷしが強くて痛みにも強いので、バイオレンスシーンが読んでいてスポーツのように爽快だったりする。そこに新しさを感じる。ヤクザやバイオレンスを描いた映像作品には興味が薄い自分も楽しめた。
ババヤガとはロシア民話に出てくる鬼婆のことだ。
主人公が子供の頃祖母のお話を聞いている時、一番好きだったのが鬼婆の出てくる話だった。鬼婆は善玉なのか悪役なのかよく分からない。主人公はそこがいいという。
いにしえの中学生時代、クラシックのレコードを買うと称して親にお金を出してもらい、ムソログスキーの曲をプログレバンドELPが演奏する「展覧会の夜」のLPを買った。バーバ・ヤーガというワードがタイトルに入った曲が3つも入っていた(うち2曲はELPのオリジナル)。当然この言葉が気になったし、バーバ・ヤーガの意味もその時知った。鬼婆、ババガヤ、どちらもばばが含まれるのがおもしろいが、同じ語源ということはあるだろうか。
主人公の新道依子は北海道出身で祖父母に育てられ、途中で父親はいなくなり、母親のことは何も知らない。祖母はどうやらロシアの血が入っていて、目は青く髪は茶色かった。だが新道の髪は生まれつき赤く、睫毛まで赤い。また別の血なのだろうか。だが新道は自分の出自に関心が薄く、戸籍を見たりもしない。そこが新道らしい。高校時代祖父母を見送り卒業後は上京した。祖父が亡くなり、殴り合う相手が熊ぐらいしかいなくなったというのには笑った。たくまざるユーモアも魅力だ。
新道は祖父から天稟(生来の才能)があると言われ、子供の頃からありえぬほど厳しく鍛錬されてきた。がっちりとして女性としては大柄に成長し、暴力を振るうことをこよなく愛す。競技やプロレスなどルールがあって勝敗を決めるものには興味がなく、ひたすら喧嘩で相手を叩きのめすことを好む。
そんな新道が歌舞伎町で暴れているところをヤクザに目をつけられ、内樹組の組長の屋敷に連れて行かれる。組長のお嬢様の尚子の運転手兼ボディガードとしてスカウトされ(実態は拉致と恫喝だ)組長の屋敷に一部屋与えられ、朝から晩まで尚子の送迎をする生活になる。
屋敷では組員でもなく女である異分子の新道は居心地が悪い。こちらから喧嘩は売らないが、喧嘩をふっかけられたら倍値で買う。その辺のチンピラより腕っ節が強くて叩きのめすのが痛快。
若頭、事務所、部屋子など、当然のようにヤクザワードが出てきて、頭の隅を暴対法という言葉がよぎるが、とりあえずそこは無視して読み進める。新道は暴力が大好きで肝が据わっており、ヤクザに囲まれても全くビビらない傑物である。
新道がガードする組長の娘、18歳で短大に通う内樹尚子(しょうこ)は、細くて小柄でクラシックな古臭い服装に常に身を包み、髪が長く化粧っけもない。短大に加えて毎日休みなく複数の稽古ごとに通う。婚約者がおり、短大を出たらすぐ結婚するので稽古事は完璧な妻となるための花嫁修行で、お菓子作りに料理、ピアノ、英会話、茶道花道、和弓になぎなたなど多ジャンルに渡る。
尚子は新藤には上から口調で突っかかり、常に何か苛立ちをぶつけてくる。ある日それが止まらずヒステリー状態で号泣してしまい、習い事は休んで尚子の希望で喫茶店に入ることになる。本格珈琲を嗜みながら新藤の子供時代の話になり、そこで鬼婆の話が出てくる。
鬼婆はいいことも悪いこともやりたい放題だが、純真な娘が王子と結婚するのを助けたりもするので、「心の綺麗な優しい娘になれば鬼婆みたいな怖い人も助けてくれる」と祖母は必ずお話の締めに話したという。
新藤がお姫様よりも鬼婆の方がおもしろそうだから鬼婆になりたいと言うと、お姫様然とした尚子も鬼婆の方になりたいという。自分の服装は好きじゃないけど、自分の服は全て今はいない母親に父親が買ったもので、髪型もノーメイクも母親がそうだったから。結婚したら違う服が着られるから我慢も後少しだと尚子は言う。でもやりたい放題の鬼婆になりたい位だから、本当は押し殺したものがあるのだろう。
この時二人は初めて会話らしい会話を交わす。何しろ新藤は女でも暴力だけ愛する変わり種で、どういう育ち方をしたのか尚子に語ることで読者も理解が深まる。
そして尚子は自分が他人から同情されて憐れまれることに我慢がならない。新藤はそんなつもりじゃないが、本当にそうなのか分からなくなってしまう。だって、尚子は組長の娘という忌避される立場でヤクザに囲まれて生活し、同情しない方がおかしい状況だ。そんな相手と婚約する男も不可解で、結婚の先に幸福な人生があるんだろうかと私ですら考える。
この会話を通して二人が仲良くなったり、気安くなることはないが、相手への理解は深まり、少なくともある程度気を許せる関係性になったと思う。
夜、薬を盛られて動けなくなった新道を男たちが凌辱しようとしていると、尚子が踏み込んできて毅然として男たちを追い払う。抑制された生活を強いられ、苛立ちを新道にしか出せない尚子が、ヤクザたちを相手に強い態度で新藤の危機を救ったのは胸がすく。さすがに組長のお嬢様には彼らも歯向かえないし、組長の逆鱗に触れること必須だ。
新道が敬意と感謝を伝えると同時に、怖かっただろうと尚子を労わると、尚子が鼻で笑う。明らかに強がりだがここを読んで尚子が好きになった。
新道にとってはやばくなる前に助けてもらい、何かされたうちにも入らないのだが、尚子は「女にとって一番の酷いいやなことで、ああいうことは許せない」と激昂する。尚子が事態に気付いたのは「この家で暮らしていると足音に敏感になる」からだという。鋭い人ならこれだけでその意味を察知できるかもしれないが、私が理解したのはもう少し先だった。
新道は翌朝組長に呼ばれ、これで手打ちにしてほしいと関わった男たちのパーツが入った箱を渡される。いかにもヤクザの落とし前すぎて、新道はすぐ生ゴミのバケツに箱ごと捨ててしまう。うげー。男たちに罰を下した人間は、組の者ではなく組長が五分の盃を交わした拷問好きの変態野郎で、それが尚子の婚約者だという。うえー。
送迎をして、たまに稽古事をさぼり喫茶店でコーヒーを飲むという毎日が続く。尚子は新道から故郷や家族、修行の話を聞きたがるが、自分については多くを語らない。すました顔や生意気な態度は気楽に生きられない立場の尚子の鎧で、新道は他愛ない話をしながら尚子の鎧の下の顔を少しずつ見るようになる。
新道には暴力の気配のせいか女友達はできなかったが、尚子は新道を怖がらないので友達同士のような会話をするのは、読んでいて微笑ましくて和む。二人とも普通には友達ができないかるから尚更だ。
ある時、尚子に手を出したと勘違いし新道がぶちのめした相手が尚子の婚約者の宇多川で、リベンジで切り刻まれそうなまずい状況がピークになった瞬間、尚子の子供の頃駆け落ちした母親と若頭が見つかったという知らせが飛び込んでくる。
組長は若頭補佐の柳に2人を捕まえてくるように命じ、柳が新道の同行を希望してその場は放免となる。新道は柳の部下という形で屋敷に置かれ、柳は極道にしては頭も気も回り、新道の身を気にかけて自分の女になれば周囲に手出しされないと言ったこともある。ヤクザの剣呑さはあるが、バカではなく心ある男だ。
その晩、新道は尚子の部屋に入る足音を聞く。尚子の「この家で暮らしていると足音に敏感になる」という言葉の真の意味は、尚子への父親からの性的虐待で、新道は考える前に体が動いて尚子の部屋に踏み込む(あの日尚子が踏み込んだように)。
組長のバカ力にやり返されピンチとなり、そこに尚子の弓の一撃が父親にとどめを刺す。
逃げ出す二人の前に柳が立ちはだかり一応新道とやり合う形を取るが、柳も何もかもに嫌気がさしており、ルーツのある国へ帰ると言う。二人を自分の女房と妹として連れて行くこともできるとも。新道は「誰かの何かとして生きることは無理だ」と断る。クールだ。
尚子は柳に「私、お母様に似てる?」と尋ねる。柳は新道には「気味が悪いほど姐さんそっくり」と言っていたのに、あえて全く似てないと言って尚子を父親の呪縛から解放する。尚子はここで初めてにっこり笑う。しびれるやり取りだ。
雨の中いつもの送迎車で猛スピードで逃げる二人。「私たち、地獄に落ちるのね」「ばーか、ここがもう地獄だよ!」というやり取りが、高揚感が感じられてすごくいい。長い髪とネックレスを切り落とす尚子の開放感、どうにかして逃げ切ってやるという新道の決意が胸熱。ここで物語が終わっても不思議ではないし、全然満足できると思う。
だがこの小説にはまだ仕掛けがある。ところどころで挿入される、正と芳子という二人の物語だ。二人はもう若くなくて60前後か、穏やかな日常を送っている。芳子はどこにでもいる普通のおばさんで、正は昔かたぎな職人みたいに見えるおじさんらしい。
このパートの直前で、柳が新道に尚子の母親は若頭だったマサという男と駆け落ちしたことを明かす。その直後に正と芳子の章が置かれ続けて読むと、マサ=正だと思っても仕方ない。二人がひっそりと静かに暮らしている様子から、尚子の母とマサの駆け落ち後の暮らしだと思う。
ある日買い物に出て、正と芳子は交通事故を目撃し、燃える車から父親と幼い娘を救い出す。その様子は通りすがりの野次馬にスマホで撮影され、拡散されてヒーロー扱いでニュースでも流れてしまい、ひっそり暮らす家にはマスコミが押し寄せる。豪雨になり避難勧告が出て、マスコミは帰るが、動画は東京キー局からのニュースにも流れ続ける。
何度かに分けてこの経緯が各章の合間に挟まるのだが、スマホで撮影されている時点で二人が追手に見つかることは予想がついてしまう。
やがて大雨が降る中、車のヘッドライトがいくつも家の前にやってくる。ニュースの映像を見て追っ手が来たようだ。芳子と正は果敢に襲撃を迎え撃つ。頑丈なマグライトを武器に使うのに闘い慣れていると感じる。だがさらなる驚き、芳子が拳で攻撃する際に口から漏らす音は新藤依子のものではないか。芳子は尚子の母親の偽名ではなく、新道依子だった。
そして新道は尚子のことをここで正(しょう)と呼ぶ。そうか、正(しょう)=尚か。文字情報ならではのトリックだ。よく考えたらよしこ=よりこも音が近い。
話し方も、最初から新道の一人称は「私」で変化しないことで、芳子が新道だと気づきにくい。尚子は50代で「アタシ」と言っており、そういうおじさんも現実にいる。
つまりこの話はタイムマシーンのように70年代半ばから現代までの40年間を駆け抜けているのだ。道理でヤクザはあまりにもヤクザだったわけだ。
ちなみに芳子=新道であると判明するこのパートは、新道が尚子の父親の性的虐待を知り、屋敷を尚子と飛び出す直前に置かれている。新道たちが40年逃亡生活をしてたことを先に知ってから、その長い逃亡の始まりを噛み締めながら読むことになる構造だ。
逃亡を始めた日から、尚子は女の身なりをしなくなる。15年が経った頃、二人は偽の身分を金で買う。女の名前は一つしか手配がつかず、尚子は進んで男性の斉藤正になる。
90年代は自分探しという言葉が流行った時代だが、身分はフェイクでも新道の『今ここで生きている自分はどこまでも自分自身』という言葉に大きく響くものがある。ラベルと関係なく、自分は自分であっていい。
そして40年が過ぎて追っ手が来た。読みながら『とうとう』というより遂に決着の時という感覚になるのは、迎えうつ新道が堂々としているからか。襲撃してきたのは尚子の婚約者だった宇多川で、なんと40年ぶりの邂逅である。宇多川はヨボヨボで、自力では歩けず声が出せなくなっている。
宇多川の前に現れた尚子は弓に矢をつがえている。家に侵入してきた男たちも、新道がマグライトの光を当て尚子が矢で倒している。二人はこの事態に備えて鍛錬を怠らず、シミュレーションもしてきたのだろう。40年間油断せず研ぎ澄ませてきたことに感嘆する。
尚子は宇多川に矢を向けるが、新道はもうやめようと宇多川に働きかける。何しろ40年だ。新道は62、尚子は58。だが宇多川が受け入れたように見せながら、尚子が銃で足を撃たれてしまう。
ラストシーンはまさに映画のよう。映像が思い浮かぶ。
海沿いの道をスーパーの大きなカートに尚子を乗せて新道が押している。なぜこんなに力が好きで生まれたか、鬼婆になるためと思ったら納得した。人として人に混ざって生きるのは無理だった。尚子と一緒に鬼婆になるため、ここまで来たと。尚子の返事はない。尚子、眠ったのか、死んでしまったのか。
逃亡後は新道が暴力を封印して過ごすうちに体重が落ち、言動もどんどん普通の女性みたいになるのがおもしろい。だがそれ以上に尚子の変化は驚くべきものがある。よく食べることで体も大きくなり、ずっと男物を着て男の髪型にして、年を経て体も丸くなり言動が寡黙なおじさん化していく。
尚子の見た目男性化は、これまでの自分を封印し庇護される女で生きるのはやめたかったこともあるかもしれないが、追跡を交わすための計算もあるだろう。作中には『男に見えるものと女に見えるものが一緒にいれば夫婦とみなされ、型にハマった世の中ほど騙しやすい』と書かれており、人がいかに見た目情報でラベリングしてしまうを示唆している。
性自認が男性だった可能性も考えたけど、最後の場面尚子の話し方は若い時と同じで元の尚子のものだ。作中で新道は祖父から暴力で天稟(生来の才能)があると認められ、尚子には忍耐と努力を継続する精神力が備わっていると書かれている。おじさんとして生きることを徹底できたのもその賜物だろう。
そもそも性的関心を持たない新道にはアセクシャルな印象もある。男性を装う尚子とは、40年一緒にいても互いに欲望を抱かず、他に相手を作るでもない。長い時間の積み重ねで関係性は深く強くなり、シスターフッドを超えた唯一無二と感じる。
二人の関係は友人でも恋人でも、雇用関係でも家族でも夫婦でもなく、本人たちですら関係に名前をつけられないと書かれている。逃げ続けた40年間を思えば『運命共同体』だろう。お互い素性を知り気が置けない話が唯一できる相手。一般的な意味とは違うがまさに『運命の相手』と言えそうだ。新道のおおらかな自己肯定感と、尚子のねばり強い一貫した姿勢。性別など関係ない。ずっと鬼婆でいられる相手がいい。