私が小学校一年生くらいの時に、殺人事件に遭遇したことがある。

といっても事件そのものではなく、聞き込みされたというだけだが。

 

その頃毎週水曜日に、電車で一駅隣まで習い事に通っていた。さすがに小一の私を片道30分一人で行かせるわけにもいかず、母親が付き添ってくれていた。

だから聞き込みをされたのは私ではなく母親の方だ。

 

家から駅までは、あの頃なら歩いて15分以上かかったかもしれない。小一の生活は学区の境目でもある県道からこっち側に集中していたので、県道の向こう側は電車に乗る時くらいしか縁がなかった。県道を渡り、住宅街の裏道を抜けて、まっすぐ行けば駅に出る道に出ると警察官から声をかけられた。

「すみません、昨日ここを通りませんでしたか。何か見かけなかったでしょうか」

ドラマなどにあるような私服の刑事ではなく、制服警官が一人だけだった。

 

道から見えるアパートの2階で、その前日に赤ちゃんと20代の母親が殺されたという。夜になっても窓が開きっぱなしでそこに布団が干したままになっているので、近所の人がおかしいと様子を見に行って発覚したそうだ。

 

アパートの手前は空き地になっていたから、足を留めている道路から建物は丸々見えていて、2階の窓が並んでいるのが見えた。掃き出し窓ではなく腰高窓で、ベランダはついていない。窓のところに布団をひっかけて干していたのだろう。

事件が起きた部屋の窓は、その時も開いていた。横に4つか5つ並んだそれぞれの部屋の窓、一番奥の部屋。そう新しくもないアパートで間取りも部屋が一つずつという感じ。

 

母親は「昨日はこっちに来てないので何も見てません」と答えたと思う。私は横から「週一回しか習い事に行かないから、昨日は通ってないよね」というようなことを訴えた。

警官は私たち親子連れが何も知らない通りがかりと察知して、聞き込みはすぐに終わった。

 

母親に「どうして布団が干してあるとおかしいの?」と聞くと、夜干していたら布団が湿ってしまうから夕方になる前に家にしまうものだと説明され、なるほどと納得した。生活者が暮らしていた証、それを同じ生活者が暮らしの中の異変として察知したということだ。

殺人ということより、この布団の件がリアリティがあって印象的だったから、ずっと覚えていたのだと思う。とにかく布団は夜になる前にしまわないといけないとも強く思った。

 

事件は火曜の昼間、アパートを留守にする人が多い中で起きた。物取りが目当ての泥棒だったのかもしれない。

庶民のつましい暮らしがあり、小さな赤ん坊を育てていた家族。夜になり帰ってきただろう被害者の夫がどんな気持ちになったかと思うと、子供ながらに神妙な気持ちになった。すごくびっくりして、ものすごく悲しいだろう、可哀想だ。今思えば小学一年生ながら私は人の死を理解していた。

 

この事件はその後、新聞記事にもならず(といっても小学校低学年の自分は見落としは否定できないが)事件がどうなったのかも分からない。犯人は捕まったのだろうか。

今、検索をかけてもこの件については何も出てこない。まったく何も分からない。これまでそんな事件がたくさんあり、時間の中に埋没しているのだろう。

 

その後しばらくしてアパートは壊されてなくなった。駅への通り道も、もっと駅に早く着ける裏道を見つけて、そこを通ることも少なくなった。

実家もその後移転してしまったので、もうあの場所に行くことはないだろう。町の様子もずいぶん変わったと思う。

 

だが私はずっと気になっている。確かにあの時、あそこで事件があった。赤ちゃんとお母さんが命を奪われた。殺した人間はその後どうなっただろうか。

今も時々、あの道は夢に出てくる。もう少し大きくなり自転車に乗れるようになって行動範囲が広がった私が、あの道を自転車で走っているけれど、あのアパートは夢の中にもない。

 

ミステリー、少女の成長譚といろんな側面を持つ作品。

無法者を自認する13歳の少女ダッチェスと、その母親の友人で警官のウォーク、二人の視点で描かれている。

作者はイギリス人だがアメリカが舞台。カリフォルニアの海に面した町と、カナダに接する豊かな自然に囲まれたモンタナの牧場の対比も楽しめる。ダッチェスが一人で旅するところはさながらロードムービーのようだ。読書しながら知らない土地の空気感を楽しめる。

 

ダッチェスの過酷な境遇に加え、何か酷いことが起こりそうな気配も濃厚で、読むのが辛くなり序盤のうちに一度読むのをやめた。それでもやっぱり何かが気になり再び読み始めたら止まらなくなった。読むのをやめなくて本当に良かったと思う。

 

正直、ミステリー作品とあまり意識せず、単なる小説として読んでいる時間がほとんどだった。だからこそ終盤いくつかの真相が明らかになり(そうだ、これってミステリーだった)と改めて思うことになる。カリフォルニアの小さな町の人間関係や、登場人物が行動するまでの心の機微が丁寧に描かれており、説得力がある。それでいて無駄にだらだら描写したりしない。筆者の力量は確かだと感じる。

 

絶望と無力感、境遇、変えられない運命。傷を負った者の人生はそこで決まってしまうのか。少なくとも生きていれば、終わりだと思ったところからまた始められるんじゃないか。

タイトル(原題は「We Begin at the End」)はそういう意味だと思うが、どこか祈るような思いも感じる。

 

 

30年前、15歳だったスターの妹の7歳のシシーが轢き逃げで亡くなった。遺体を発見したのは当時15歳のウォークで、親友のヴィンセントがひき逃げで逮捕された。ヴィンセントの車に事故の痕跡を見つけたのもウォークだった。

ヴィンセントは当時スターと付き合い、ウォークはマーサと付き合い始めたばかり。4人とも15歳で青春を楽しく過ごしていたのが暗転し、ヴィンセントは大人の犯罪者が収容される矯正施設に送られ(どれほど過酷な目に遭ったか想像がつく)収監10年後の釈放直前、施設内の喧嘩で他の収監者を死なせ刑期が20年伸びた。

そして収監から30年経ち、ヴィンセントが釈放される日が訪れようとしている。ウォークはこの日を心待ちにしていた。

 

ウォークは街で唯一の警官となり、いまだに独身。始終薬を飲むが、体調の悪さから持病があるのが察せられ、ヤク中へのミスリードというほどでもない。大分後の方で進行する病気を患っていると自ら明かすまでは何の病気か分からない。どれほど体調が弱っていても警官として現場に出る生活は手放したくないが、それはヴィンセントが戻ってくるのが大きい。ウォークはスターと子供たちを何くれとなく気にかけ面倒をみている。誠実で信念のある人物だ。ダッチェスも彼のことは一応信頼している。

 

スターは過去の出来事から立ち直れず、薬や酒に溺れていることが多い。母親が頼りないので、13歳の娘ダッチェスは精神的に早く自立せざるを得ない。ネグレクト気味の母を頼らず人生をサバイバルし、歳が離れた弟のロビンを守ろうと日々懸命だ。幼いロビンは天使のようないい子で、ダッチェスはロビンの人生が少しでも良くなるようにと努めている。

 

ダッチェスの個性は作品の大きな魅力の一つだ。生意気で怖いもの知らずで、口も悪く態度も悪いが子供ながら矜持があり、自分たちを守るために常に必死で、手段を選ばないところもある。頭が切れ機転が効くが、子供である自分に限界があることも理解している。

スターもダッチェスもロビンもとびきり容姿に恵まれているようだが、荒んだ生活のせいでそれは魅力というより逆に痛ましさを感じさせる。スターは男を手玉に取りちゃっかり生きてくタイプではなく、根が真面目ゆえに苦労して二人の子を育てていると感じる。

ダッチェスはむしろ見た目を下げて無法者として振る舞う。母ともども美しさ故に男たちの視線を浴びるのは疎ましさと嫌悪感が伴うのだろう。

 

ダッチェスは家系図作りで母方の祖先に西部開拓時代のお尋ね者がいたのを知り、以来無法者を自認している。だが家系図の父方は埋まらないままだ。母親が父親のことを話したがらないのは、行きずりの相手だったからだろうか。父親が誰だかわからないことも母親との関係性を悪くしている。

 

 

冒頭で海辺の崖が崩落して住宅を巻き込み、家屋が海に落ちていく場面は象徴的だ。土台が弱くてなし崩しに堕ちてしまう人生もある。この地域にヴィンセントの実家が空き家で残されていて、不動産業者のダークからヴィンセントは実家を売るよう迫られているがずっと断っている。
釈放されたヴィンセントをウォークは出迎えるが、ヴィンセントは30年ぶりの自由を満喫することもなく、全てを諦めた世捨て人のよう。ウォークは少年時代から、ちょっとした悪さはしても意図的に大きな罪を犯す人間ではないと、ヴィンセントのことを信じている。

 

スターはダークの持つ店で働いているが、ある晩に家の前庭で顔面を殴打され倒れているのをダッチェスが発見し、ダークの仕業と思い込む。ダークは悪人なのか善人なのか人間像が把握しづらいキャラで、この物語のキーパーソンでもある。ガタイがいいのと何を考えてるか分からないのと威圧的雰囲気で、街では恐れられている。

 

ダークと母親はその数日前にも言い争っていた。その時はヴィンセントが現れて場を納めた。後日ダッチェスがヴィンセントの家まで会いに行くと、君のお父さんのものだと何かを渡される。ここでの会話がすべて重要な意味を持つことを知ったのは、物語も押し詰まった終盤だ。

 

ダッチェスは報復として夜中にダークの店に火をつけ全焼させる。その際、自分が写る防犯ビデオのテープを回収してよその家のゴミ置き場に隠す。この辺りなかなか抜け目ない。

ダークは火事がダッチェスの仕業だと確信し、自分で放火したのではないと証明しないと保険金が降りないから、どうしても必要なのだとビデオテープを返すよう迫る。だがダッチェスがテープを隠した場所へ行くと、ゴミが回収された後でテープはなかった。

 

ダッチェスがロビンの誕生日プレゼントを買いに出た晩、留守中にスターが銃で撃たれて死んだ。そこにいたヴィンセントが通報し、ロビンは寝室にいたという。ロビンにはその晩の記憶がなく何も語らないが、睡眠中うなされるようになる。ヴィンセントはスター殺害容疑で逮捕され、ダッチェスとロビンは会ったこともないモンタナにいる母方の祖父に引き取られることになる。
 

 

ウォークは子供たちをカリフォルニアのケープ・ヘイヴンの町から、1600キロ以上も離れたモンタナ(カナダとの国境に接するから北の方だ)までパトカーで送っていく。カリフォルニアの海辺の街と広大なモンタナは、日本で言うと北海道から鹿児島まで1800キロくらいだから、北海道から本州の端くらいまでドライブした感じ?

 

初めて会う祖父のハルは一人で農場をやっている。ダッチェスに会うのは赤ん坊の時以来だが、一目で母親そっくりだと知る箇所は、ハルの心情の複雑さが行間から読み取れる。ヴィンセントに家庭をめちゃめちゃにされたハルが「あいつは我が家の癌だ」というのも無理はない。

 

ハルはいきなり距離を詰めようとせず、生活を共にして距離感を測っている感じが好もしい。だがダッチェスは祖父を受け入れず、ずっと大人の助けが必要だったのに会いにこなかったことを責める。孤軍奮闘してきたことを思えば無理もない。

だがハルは妻(スターの母)がシシーの死後に自死した後、スターから拒絶されていた。物語の後の方で、ハルが毎年子供達の誕生日プレゼントを持ってケープ・ヘイヴンまで行っていたこと、スターに拒まれ渡せなかったプレゼントがモンタナで全て大事に保管されていたことが分かり、何とも切ない。ずっと孫たちを思っていたのだ。

 

ダッチェスは家畜の世話をして学校へ通い、ロビンを守る。祖父を受け入れないのをロビンに非難されるが、季節が巡り広大な自然の中で暮らすうちにダッチェスの頑なさも少しずつほどけていく。馬の世話を任され、誰にも言えないことを馬には話すことを自分に許す。ハルの手ほどきで銃の射撃練習、運転の練習も。学校では片手が不自由で仲間外れの少年トマスが、ダッチェスの友人を志願してくる。ダッチェスは無法者であり続けながら、モンタナでの生活にこれまで得られなかった安らぎを得る。

 

しかし穏やかな日々の中に、いつかダークが自分を探しにくるという確信が潜む。ウォークもその可能性をハルに伝えていたので、町でダッチェスがダークと同じ車を見た時から、ハルはライフルを抱えた不寝番を買って出る。それ以降、ダッチェスはハルにはっきりと信頼を寄せるようになったと思う。

そしてダッチェスがトマスに誘われダンスパーティに参加した晩、ハルは何者かに腹を撃たれて死んだ。最後の言葉は「お前は無法者だ。誇りに思ってるぞ」存在を丸ごと受け入れ愛してくれた祖父。「おじいちゃん、目を覚まして」ダッチェスがかけた言葉がごく普通の子供なのが泣ける。

 

ダッチェスとロビンは福祉の世話で里親の家に入るが、報酬目当てで家族と扱われず、そこの子供に意地悪をされる。ケースワーカーは二人に親身に対応し、引き取ってくれる家庭としてワイオミング(カリフォルニアとモンタナの中間くらいの位置にある)の夫婦に白羽の矢が立つ。順調に養子の話は進むが、里親の娘の意地悪にダッチェスがリベンジして騒動となり、二人はグループホームに移され養子の話は流れる。

それまでダッチェスは相当の我慢を強いられてもロビンのために耐えてきたが、ついに無法者の堪忍袋の尾は切れた。だが新しい家族になるはずだった夫婦を慕うロビンは本当に不憫だ。ロビンも成長して、姉が騒動を起こす度に割を食うことを辛く思うようになっている。

 

 

ヴィンセントの裁判の日ニュースにヴィンセントが映ると、ロビンがスターが殺害された晩のヴィンセントの言葉を思い出す。その内容はロビンが見たことを口止めし、半ば脅すような内容とも取れる。だが後に真相が明らかになった時に読み返すと、この言葉はロビンの身を守るための言葉だったと、意味合いは反転することに驚く。原文だけでなく翻訳も巧妙だ。取り方により言葉の意味はまるで変わってしまう。

ダッチェスはヴィンセントに対し母の敵討ちを決意し、眠るロビンを残して施設を出る。それは大切な弟の人生から去ることでもあり、13歳のダッチェスがどれほどの決意を秘めていたかを思うと傷ましい。

少ない所持金でバスに乗り、ヒッチハイクして、じりじりとケープ・ヘイブン目指して移動する。所持金が足らずやむを得ず超法規手段も取るが、ダッチェスが決してそれを好んでないことは読んでいて一抹の救いだ。

 

 

一方ウォークは少年時代からのヴィンセントとの付き合いから、彼の無罪を確信し、弁護士をつけ裁判で無罪を主張するよう伝える。ヴィンセントはウォークと付き合っていたマーサ以外の弁護士はいらないと返す。ウォークとマーサは別れた後30年間交友はない。

ウォークは懸命に捜査するが、肝心のヴィンセントは他人事のようだ。マーサにも会いに行き、事情を伝えて頼み込む。元カノとの再会のパートだけでも掌編のような趣があり、二人の心情を色々想像できる。

だが好都合な証拠や証人は出てこず失望するウォークに、マーサは奥の手を提案する。その甲斐あってヴィンセントは無罪を勝ち取る。

 

終盤ウォークはいくつかの真相を知ることになる。

スターの隣人が海で死んだ件は物語に不穏さを添えるが、犯人と疑われたダークの仕業ではなく隣人同士の小さな諍いの結果だった。

ダッチェスの祖父を撃ったはやはりダークだったが、事情を話そうとしたのにいきなりハルがライフルをぶっ放してきて、その問答無用ぶりに撃たざるを得なかったという。言わば正当防衛だが、致命傷を与えてしまい、ダークも撃たれて負傷した。

ダークは印象で誤解されやすいがそこまで悪辣な人間ではなく、ずっと意識不明で入院中の娘の治療費のため保険金が必要だったから、はるばるモンタナまで追いかけたのだ。

 

そしてウォークは少年時代の思い出の場所に、スター殺害現場から消えていた凶器の銃を発見する。そこには小さな指紋が付いていた。隠したのはヴィンセントだ。

ヴィンセントは真相に気づいたウォークに、スターが死んだ日の出来事を話す。ダークがスターに頼み事(ビデオの件でダッチェスを説得してほしい)で訪れ口論になった。いつも通り寝室に隠れたロビンが、クローゼットの中にダッチェスが隠した銃を見つけてしまった。それはダッチェスに『君のお父さんのものだ』と言ってヴィンセントが渡した銃だった。ロビンはダークを撃とうとしてスターを撃ってしまった。この記憶をロビンはなくしていた。ヴィンセントはたまたま訪問し一切を見ただけ。ずっとヴィンセントは幼いロビンを庇っていたのだ。

 

 

ヴィンセントの収監中の様子を知ろうと、ウォークは顔見知りとなった収容所の所長に会いに行く。この所長が威圧的なところのない、懐の深い人物なのが読んでいてありがたい。

アメリカの刑務所のシステムが日本と違うのをこの本で知った。家族あるいは家族同然と責任者が認めた人間と、2ヶ月に一度72時間の面会が認められている。夫婦やカップルの場合は個室で面会できて、関係維持に務めることができる。

 

ウォークはスターのカウンセリングの送迎を引き受けていたが、ある時点からスターは受診をやめてしまい、それからスターは脆くなってしまった。実際はカウンセリングは初回だけ、以降は医者をスルーして一人バスに乗り、ヴィンセントに会いに行っていた。収容所の所長は個室面会を認め、ダッチェスとロビンが生まれた。二人はスターとヴィンセントの子供だったのだ。これはこの作品最大のサプライズと感じた。

 

だが子供ができるとヴィンセントはスターとの面会に応じなくなった。それは自分のような人間が父親だと子供に迷惑が及ぶと思ったからだろう。だがスターは拒絶された辛さと寂しさで、酒と薬に溺れてしまう。このことがダッチェスたちの全ての不幸の根源だと感じる。もしヴィンセントがスターと会うのを拒まなければ、スターは絶望せず子供たちへのネグレクトは避けられ、ダッチェスもましな子供時代を過ごせたかもしれない。

 

ヴィンセントの人物像がなかなか把握できなかったが、実際のところ彼の中にあるのは贖罪の思いだけだった。彼はひたすらずっと自分を罰したがっていたのだろう。シシーの人生を奪ったこと、スターの家庭を壊したこと。

だが自分を遠ざける事で子供たちを守ろうとするのは、やり方を間違っていたと思う。

幸福になるのを拒み、自分を罰しようとしたヴィンセントの頑なさは、スターと子供たちの幸福まで奪っていった。もし彼に終わりから始める意思があれば、そもそもの刑期10年を終えてからスターと生きることはできただろう。

ダッチェスに「君のお父さんのものだ」と銃を渡したのは、父親としてのせめてもの気持ちからだったのか。だがそれが仇になり、更なる悲劇を呼んだ。

 

 

とうとうヴィンセントのところに、旅を終えたダッチェスがやってきた。ダッチェスはスターの敵討ちを決意していたが、ヴィンセントはダッチェスの目の前で自ら崖を飛び降りてしまう。結局ヴィンセントは自分の中にある罪ばかり見て相手を見てない。

その後ウォークからヴィンセントが父親であると明かされ、ダッチェスは大きな山を乗り越えた。だがウォークはロビンがスターを撃った件は伏せた。それがヴィンセントの遺志だからだろう。

 

ダッチェスはこっそりロビンの様子を見に行き、以前養子話があったワイオミングの夫婦に引き取られ愛情をかけられているのを知り、何の心配もないと安堵する。会わずにそのまま帰るダッチェスの健気さと意志の強さには泣けるが、自分のような人間がそばにいない方がいいという考え方は父親そっくりではないか?

そしてダッチェスはハルの友人でいつも親身になってくれたマダムの養子となり、ハルの農場を相続する。ここで過ごして大人になったらどんな女性になるだろう。

 

ダッチェスは家系図の父親の箇所に、ヴィンセントの名前を書いて『無法者』と添える。

自分の父と認めたのに加え、自分と同類だという誇らしさも伝わってくる。父と母がいたから今の自分がいる。これは少女のアイデンティティ獲得の物語でもあったのだ。

願わくば大きく成長したダッチェスとロビンが、いつの日か再会できる日が来ますように。それまでのそれぞれの人生が豊かでありますように。

とある女性の半生を、周囲にいた人間の証言に基づき構成するノンフィクション。

自分本位に事実を都合よく書き換え、時の権力者にすり寄る。邪魔した人間は時間を置いてもリベンジする。衆人環視の中で平気で嘘をつく。その厚顔さと上昇志向は、どんなホラーよりも恐ろしい。

 

タイトルを伏せ字にしても誰だかお分かりになるだろう。もちろん本来のタイトルは伏せ字ではないが、読み進めるうちに恐ろしくなった。ここに書いた感想が世間で広まることもないだろうけど、誰かにネットを監視させている可能性はあると感じる。邪魔と思う人間への仕打ちについて読めば、この人物がそれなりの権力を有している現在、用心するに越したことはないという感覚になる。

 

 

自己演出に長けて自分を売り出すことに余念がなく、言ったことが自分にとっての真実になっていくタイプ。関西のハイソな住宅地で社長令嬢として育ち、海外の超一流大学を主席で卒業。そうしたプロフィールは虚実ないまぜで、真実ではない部分が含まれる。

出身エリアには超高級住宅街も庶民的エリアもあり、決してセレブ出身ではないのにお嬢さんと呼ばれても否定せず、否定しないことが事実ということになり世間に通ってしまう。

中高と通った裕福な家庭の娘たちが集まる私立の学校では、地味で目立たない生徒だったという。関西の金持ちの裕福さは桁外れだから、育ちも文化も違う彼女は異分子だっただろう。

 

一度入った大学を退学して留学したものの言語習得もままならず、コネ入学した海外名門大では留年してフェイドアウト。だが現地での状況を知る人は日本にはほぼおらず、自分で言ったもん勝ちの主席卒業ということにしてしまう。この人物が世に出た頃のマスコミは今にも増して男社会で、若くてちょっと可愛い女性が言うことを鵜呑みにし、誰も検証・修正しないままたれ流した。虚構のプロフィールは何度も疑惑が囁かれながら、今に至ってしまっている。

留学してた頃から語学堪能で海外の要人とも交流してきたと、話を大きく山盛りしたものをマスコミはそのまま流してきた。どう考えてもマスコミの功罪は大きい。

 

こんな人物には話が通じないと感じる。自分を偽るというより、ありたい自分に情報を上書きしてそれを自分の真実にしてしまい、後ろめたさもない。卒業が虚実ではないかと疑われると、どこからか持ってきた卒業証書(みたいなもの)チラ見せでかわす。

昨今地方自治体の市長が学歴詐称で騒ぎになっているが、同じように何かをチラ見せしたそうだ。全く同じやり口で、まあそうするしかないだろうなと思うがそれでは済まされず、出直し選挙になるようだ。だがこの本の人物は何度『噂』として話が上がっても、本人が学歴詐称を否定して済んでしまう。一体この差は何だろう。

 

この人物は日本に戻ってから、テレビ番組で有名評論家の隣に座る番組アシスタントとなり、そこからより承認欲求を満たせる女性キャスターの座を手にいれ、その後政治理念も信念もないのに有力者に取り入って政治家になった。達成力がすごい。

見た目のイメージ重視で自己プロデュースに長け、時代の有力者に接近して関係性が近いように見せる。自分の立場を上げるためで、その人を敬愛することはなく利用するだけ。旨味はないと判断するとそれまで世話になったのに乗り換える。

有力者を乗り換えることは以前から揶揄されていたが、証言者の発言内容を読み詳細を知ると、どれほど自己本位で他人への共感性がないか、それは恐ろしいほどだ。他人が見てどう思うかを全然気にしない。言うことがコロコロ変わると言われても意に返さない。

 

マスコミや有力者の男性陣を味方にして、男社会でチアリーダーみたいなポジションの旨みを享受してきた。そして大臣を経て、知事となった今、利権が絡むから学歴詐称の件には誰も手を出さないという説がある。

女であることのメリットを十分心得ており、ミニスカートで通して足を斜めに流して見せるポーズがキャスター時代に定着した。時代的に恐らくセクハラまがいのこともたくさんあっただろうと思うが、そういうことを受け流し、むしろ自信たっぷりに相手をうまく自分の懐に引き込んでしまう。男性たちは最初喜んで彼女にチアリーダーの役を任せるが、そのうち自己本位な行動で迷惑を被り、彼女を見限るようになる。同時に彼女も旨みがないとみると、さっさと乗り換える。

 

怖いのは人の手柄を平気で横取りしたり、邪魔者を叩き潰すところだ。これまでたくさんの人たちを犠牲にして、自分の過去を偽り、手にしたものは決して手放さない。そしてそんな部分が世間に漏れていても今の地位にある不可思議さ。

だが政治家として大した実績はなく、むしろ自分勝手に動いて周囲の顰蹙を買ってきた。パフォーマンス優先、見た目優先、理念も政策もなく、敵を作って口撃するやり方しかないとこの本にも書かれている。政治家になったのは承認欲求と上昇志向ゆえで、目立つ立場が大好きだから。やることが二転三転するのも信念がないゆえだ。

 

 

この特異なパーソナリティは実父の影響が大きいようだ。

父親がまた輪をかけた話を盛るキャラで、出身地では良くない意味で有名人らしい。実業家気取りだが支払いを平気で伸ばしたり踏み倒したり、自己本位で迷惑をかけまくる。お金がないのを何とかする手段として政治家になろうと選挙に出るが、有名政治家と近しいと吹聴しても実際にはツユほども相手から認識されていない。後ろだてもなく当然落選する。父親の平気で嘘をつくところ、自分に都合よく話を仕立て大風呂敷を広げて周囲を巻き込むところ、見栄を張るところ、他人の迷惑など全く気にならないところは、そっくりそのまま娘にも伝わっている。

親が無計画で家に金がなく娘である彼女は苦慮したろうし、そんな父親を憎んだり軽蔑したりもあっただろうに。でも結局親と同じやり方で、しかも女性だからこそ有利になるポイントを活かしまくり、父親がなれなかった政治家になった。

 

ほしいものを手に入れていき、今は首都のトップに座る。だが訳がわからないことをすると感じることが多い。都庁のプロジェクションマッピングとか、お台場の大噴水など必須とは思えないものに多額の税金を投入する。庶民の生活が苦しいから何とかしようとか、この人にそういう発想はない。環境大臣をやっている時に公害被害者にいかに冷淡だったかを読めばよくわかる。とことん他者には関心も共感もなく冷淡だ。

 

この人物は人がやっていないことをしてとにかく目立ちたいのだ。だから公営マッチングアプリとか、プロジェクションマッピングとか噴水とか、そっちに行ってしまう。東京都の学費が高校まで学費ゼロになったのも、他の自治体がまだやってないからだろう。

同じ流れで無痛分娩の無料化を発表する時、自分は病気で手術して子供が産めなかったという趣旨の発言をしていたけれど、この人が子宮筋腫を手術したのは46歳の時だそうだ。ほぼ出産適齢年齢を過ぎているし、それ以前に産もうと思えば産めたかもしれない。使える要素はとことんアピールに使うのだ。

 

 

この本の著者は自身の主観ではなく、取材した内容と証言でこの人の実像を描く。筆致も落ち着いていて読みやすく、ネガティブな情報の伝え方も自分の言葉で言い切ることはなく、証言として伝える慎重さがある。

特に貴重なのは留学時代同居をしていた女性の証言だ。この女性のことは、この人物は公には発信していない。卒業してないことがバレるからだ。

著者は同時期に留学した男性たちからこの同居女性の存在を知らされたが、名前も手がかりもなく探すのは困難だったという。だが著者が書いた雑誌の記事を読んで、この女性が真実を伝えたいと手紙を送ってきたという。まるで桐野夏生の「オパールの指輪」さながらの展開ではないか! これは本当に驚いた。事実は小説より奇なりで、著者の心の昂りを想像するだけでこちらも興奮する。

 

いろいろあってもそれが留学時代だけのことで済んでいれば、同居女性も手紙をわざわざ書いて送ることはなかっただろう。だがこの人物の虚飾の履歴が堂々とまかり通ってしまっている上、まさか政治家になるとは。言ったもの勝ちの日本社会の欺瞞性やマスコミの功罪に感じるところがあったようだ。

 

同居女性が最後にエジプトで会った時、この人物の顔の印象が変わっていたということが、さらりと書かれている。目が大きく、二重幅も広くなっていた、こんな顔だったろうかと。

それ以前のパートではこの人物の若い頃の容貌については、特に目立つタイプでもなく目が小さいと何度も書かれていた。これは私の知るこの人物の容貌と重ならないため読みながら疑問を抱いていたのだが、そういうことかと腑に落ちた。本当にさりげなく書かれているから、読み流す人もいるだろう。でも確かに、二十歳の頃振袖を着てピラミッドの上で撮った写真の顔は、後に歯並びを直しただろうことを差し引いても目元が違う印象だ。何らかの措置を海外で施した可能性は想像される。

ちなみに若い頃の写真として、全くの別人の写真がネットに上がってくるのはご愛嬌。明らかに違う誰かだ。ピラミッドの上での振袖姿の写真がご本人である。ついでにwikiの経歴もだいぶ盛られていると感じる。誰かが印象操作していても不思議ではない。

 

だがこの本に書かれている全てが真実であるとも限らない。証言者の勘違いや、日時間違いなどいろんな可能性が含まれる。それでも複数の人から出た同内容の証言は信用するに足るのではないか。そしてコアの部分でどういう人間なのか、読む人が把握して判断するのが肝心なのだと思う。