原田ひ香は初期の頃の作品は、日常の中に潜む思わぬ危険や、知らないだけで実は誰かの企みの中にいるんじゃないかというような恐さが、物語に潜ませてあるのがすごく好きだった。

だけどここ何年かで、すっかりお金と食がテーマの小説家になっている。

この作品も早期リタイアした男性が、自分を見つめ直しながら東京の喫茶店を巡る物語。ドリンクはもちろん、喫茶店ならではの様々なフードメニューが読者を魅了する。

 

作者がテレビで喫茶店巡りの番組を見て、小説にしたら自分もいろんな喫茶店に行けるんじゃないかと考えたのがきっかけで誕生した小説だそうな。

店の名前は伏せてあるけれど、場所が書かれていてあの店だなと想像のつく有名店もある。

 

どの店もその店なりの空気があって居心地が良さそうで、メニューは奇をてらわずにきちんと手をかけていて。読んでいると喫茶店へ行きたくなる。

フードメニューの描き方など相変わらずの上手さで、筆者の魅力の大きな要素の一つだ。まるで自分の前に皿が置かれたような、わくわくした気持ちになる。

 

でもこの作品は単なるグルメ小説ではない。主人公の男性が自分の人生に抜けていたものを、周囲の人たちとの関わりで自覚する物語だ。

 

 

真面目で優しい主人公の純一郎は、突然妻が家を出て大学生の娘の部屋で暮らすようになり当惑する。理由を聞けばいいのに、いろいろ逡巡して聞けない。それも「あっちが出て行ったんだから」と自分に言い訳している。

 

理由の一つははっきりしている。早期リタイアで退職金を割増する話が会社であった時、家族の反対を押し切り早期退職した。それだけならまだしも、喫茶店をやりたいと言って大した準備もなく開業し、半年で潰した。退職金は相当の額を失った。

 

そもそも彼と妻は、社内不倫の末一緒になった。最初の妻に別れを切り出した時あっさり承諾され、特にもめることもなく離婚した。料理上手だった最初の妻(フードコーディネーターで後に料理屋を出す)と違い、今の妻はクリームシチューとカレーを交互に作るような女性で、デパートで買い物するのが大好き。だが夫の両親も一人娘もきちんと面倒を見たし、家の中は綺麗にしている。夫の喜ぶものを探してわざわざ買いに行ってくれたりもする。

誰しも満点の配偶者ではないが、それなりにいいところがある。相手のいいところを認められる方が結婚生活は円滑に行きそうだが、なかなか難しい。純一郎も今の妻から離婚を切り出され、何の疑問もなくずっと一緒に生きていくと思っていたのに突き離されて、初めて感謝の念を抱いて離婚を受け入れる。

 

 

周囲の人々が決まって彼に言うのは「何にもわかってない」「自分のことがわかっていない」という言葉。言われた本人は何を言われてるのかぴんと来ないが、言う側にはその時彼に対し、呆れたり物足りなさや歯がゆさなどいろんな感情が湧いている。この言葉には彼への苛立ちや侮り、哀れみなどが込められているのだが、肝心の本人はさっぱり分かっていない。それで周囲は更にいらいらしてしまう。

 

エピソードが進むにつれて、純一郎が呑気でおめでたい人だと分かってくる。

気が利かないわけでもなく、悪意もなく素直な善人なのだが、これまで大きな挫折や苦労を経験してきていない。おっとりと誠実なままで、抜け目なさや狡さを発揮する必要もなく、バブル時代に大企業に就職してここまでやって来た。ずっと恵まれて生きてきた人特有の鷹揚さと気づかなさがある。

だから追い詰められて選択を迫られる人の切羽詰まった気持ちや、大きな悩みを抱えて何かを諦めた人の気持ちが察せられない。いい人だし人畜無害だけど、相手の神経を逆なでして苛立たせる。

 

 

彼のおめでたさは早期退職後に開業して潰した喫茶店にも表れている。

そもそも喫茶店をやろうと思った動機が、テレビで見たカウンターだけの小さな喫茶店の店主に感銘を受け『あんな風に生きていきたい』と思ったのがきっかけだというのだから、ずいぶん軽くて純粋で夢見る乙女のよう。目の前に実在してたら、聞いて失笑してしまいそうだ。

 

それでコーヒーの『勉強』と称して本を読んだり喫茶店に行ったりするうち、早期退職制度で背中を押された。退職後に喫茶開業教室に半年通い、銀行の融資を取り付け、知らない繁華街でそこそこ大きな店を開業した。

小さな店を開く夢が、周囲の反対を押し切った反動や、まとまった退職金が入ったことなどが重なり、気付いたら繁華街でそれなりの店を開くことになっていた。学生時代に喫茶店でバイト経験があるし、建設関係会社勤務でクライアントの喫茶店開業に営業職で関わったこともある。だから全くの未経験というわけではないと、本人は思っていた。

 

だが喫茶店は好きでも、特別な想いや情熱があるわけでもない。開業に動く前に、いろんな店に行って知見を広げたり、どこかの店で修行したりもしていない。経営者としてのきっちりしたビジョンやポリシーもなかった。詰めの甘さはどうしようもなく、雇っていたバイトの子や教室の同期に「最初からうまくいくはずないと思ってた」と後から言われる始末。

 

読んでいてあまりの殿様商売ぶりに呆れながらも、善人で素直で優しい純一郎はやはり憎めない人物だと思ったりする。人には向き不向きがあり、彼は戦略的な生き方はできないというだけだ。

だが、いざ開業が現実化した時に薄々ヤバさを感知しながら、一旦走り出したレールの上で現実を見ようとしなかったのは彼の弱さだ。人生の折り返しを過ぎて、自分の弱さを突きつけられている純一郎に、こちらもひやっとする。

 

 

そして老後のことや日々の生活費を気にしたら、喫茶店のハシゴは躊躇するだろうに、気ままに喫茶店巡りをして食べたいものを食べている。純一郎は月に生活費としていくら必要なのか、年金は何歳からもらえるのか、今ある資産をどう活用するかなど、全く考えていないのに驚愕する。何とか再就職したが給与は安く、適当に貯金を引き出している。

 

純一郎は何事も深く考えることなく生きてきて、それでもまあまあやって来れた。

高度成長期に子供時代を過ごし、日本が世界でどんどん上がっていく時代を経験してきた年齢層の人たちは、これから老齢期に入る。

作者は『一生懸命働いたと自分では言い、会社の仕事だけして歳を取ってしまった、そんなサラリーマンはこれが最後の世代になるのではないか』という気持ちで書いたそうだ。大学を出たら大手企業に終身雇用で就職、家を買い子供を育て、リタイアしたら悠々自適、そんなフォーマットを描けた最後の世代になるかもしれない。

 

時代は変わった。これからは自分で自分の面倒を死ぬまで見られるよう、考えなくては安心できない。今の若い世代はしっかり仕事をしながら副業もしたり、自己啓発のため勉強したり、資産運用で投資をする人たちも多くいる。自分の人生を自分でデザインし、意欲的だ。それは裏返すと、給料が安くて国が頼りにならないからとも言える。

 

令和になり、コロナを経て、時代の変わり目をひしひしと感じることが多い。

周囲から「わかってない」と言われ続け、純一郎も自分の至らなさや浅さを省みるようになるが、だからと言ってガラッと変われるわけでもない。

それでも純一郎はやっぱり自分がやりたいのが喫茶店だと最終的に自覚し、独りに戻り自由なのだから好きに生きようと思い至る。

 

あまりお金を使わず、最低限必要なだけの収入が得られて、できる範囲で自分の好きなことをやる。ミニマリストの極致というか、ある意味これからの理想の生き方かもしれない。