柚木麻子が描く、長い期間かけて続いていく女性たちのゆるやかな連帯の物語。

タイトルの『オール・ノット』とは、真珠のネックレスを作る際に珠の間に糸の結び目を作る方法のことで、糸が切れても珠がばらばらにならない。

そんなネックレスのごとく女性たちが繋がり、持てる者は持たざる者に今できる形で手を差し伸べ、共に前に進むことを模索していく。

 

奨学金問題、女性同士の恋愛、セクハラ、シスターフッド、ヤングケアラーなど盛りだくさんな内容に、個性がかなり強い女性たち。

感想ログを読むと物語に感情移入しづらい方も結構いたようだ。確かに序盤は少しだけとっつきにくかったが、自分の育った横浜が舞台になっており、読むにつれてどんどん引き込まれた。

 

 

学費と生活費の全てをバイトと奨学金でまかなう大学生・真央が、バイト先のスーパーにたまに来る移動販売員と親しくなる。謎の説得力があるその中年女性・四葉は、もともとは横浜の名門女子校出身の裕福な家のお嬢様で、仲良くなった真央は四葉が育ってきた上質な生活の残滓を垣間見る。

 

真央の家庭は金銭的に余裕がなく、真央はヤングケアラーでもあったが、高校時代に覚醒して時間を自分のために使うと決め、家を出て大学進学をした。

一方、四葉は事業が成功し多くの有名人が集う家で育った。贅を尽くした生活で本物に囲まれて育ち、感性と自信が養われたが、今は没落し家族もお金もなくアパート暮らし。四葉は移動販売で自腹を切って使った食品のパッケージを利用し、真央のために懸賞応募して見事1位のパソコンを当てるのは夢がある。

そして四葉は祖母からもらった唯一の財産である宝石箱を、奨学生の真央に中身ごと譲る。もらった宝石はそれほど値段がつかず、その中で唯一価値が高そうで、手放せずに持ち続けたのがオールノットの真珠のネックレスだった。

 

 

物語は章ごとに主人公が変わり、時系列も進んでいく。

最終的には第5章では現時点よりさらに先の近未来(恐らく2040年位)まで行くが、驚くことにディストピア小説の体である。まさに今の日本がこのまま進んだらこうなるだろうと思えるような酷い社会だ。

大学進学させるような家庭は子供を留学させてしまうことが多い。富裕層はとっくに海外に移住、同性カップルを含めた多くの若い人たちも海外に出てしまっている。働き手が少なくなり正規雇用も減り、ほとんどの大学進学できない高校生は非正規雇用になるしかない。対人接客で買い物できる店は少なくて、ほぼ通販になっている。

だがその中で、何とか大学を出て非正規から正社員になったアラフォーの真央が、今度は次の世代にバトンを渡そうとしている。

 

 

他の章は四葉と真央に加えて、四葉の中高での親友だったミャーコ(同性愛者でかなり気まま)、四葉の家のレストランで売られていたクッキー(横浜オリジナルの土産として一世を風靡した)のパッケージイラストのモデルになった女性・舞、そして四葉の祖母と母親のライフストーリーを描きながら、それぞれが関係性を作り繋がっていく。

 

オールノットという言葉には全部がダメというわけでもないという意味もあり、コロナ以降閉塞感が強まった世の中で、立場の弱い人が手をとりあうには完璧な共感や価値観でなくてもいいから、周りにいる誰かと手を結べないだろうか。そのくらいの連帯でもいいから、という筆者の思いが込められた言葉だという。

 

完璧な形でなくても優しくしてもいい、今とても困った人に手を差し伸べる。それはこの物語では暖かなスープであったり、金銭であったり、住むところや居場所であったりする。

男性優位社会や生まれ落ちた境遇による格差など、自分ではどうしようもないことへの怒りを描くでもない。四葉の家が差し出すような優しさを受け止めるのは根本を変えることにはならないけど、それで何とか生き延びることもありなのだと読み取れる。

 

ラストは読者に委ねられている部分もあり、読後すっきりしない人も結構いたようだが、私はその後の四葉がしたたかに生き延びていることが嬉しかった。真央と出会った時は目立たない中年女性だったのが、祖母に似たインパクトある見た目になり、謎の説得力を生かしてちょっとした有名人になっていた。前章までの伏線がここで活かされるのも楽しい。

 

 

この話のもうひとつの軸は戦後から昭和の終わり、時を経てコロナ後の現代、さらには2040年の未来へと流れていく時間だろう。

時系列を理解するためのヒントはふんだんに描かれていたので、メモを作ってみた。

よつばとミャーコは1978年生まれ。中学校入学は1991年。

真央は2000年生まれ。最後は40歳目前の2039年頃か。

舞は1977年生まれ。クッキーの発売は1988年。

 

横浜で飲食業で大成功した四葉の祖父母は、野毛(いかにもな感じだが、伊勢佐木町の方がピンとくるな)での米軍兵向けのダイナー(ここは実際は雇われの身だった)を振り出しに、いくつもの飲食店を様々な業態で経営して横浜飲食店業界に君臨し、一家は横浜の山手の邸宅で暮らす。

ダイナーの次は馬車道の洋食屋(場所のセレクトに説得力・洋食駅弁も大ヒットしたあたりは崎陽軒?)元町のアフタヌーンティーの店、ホテル内フレンチと、祖母にはビジネスセンスがあり次々に成功させた。

 

四葉の祖母が店は何を出すかよりどんな客か来るが大事というポリシーがあり、見込んだ若者にはただで食事をさせて、自宅に呼んで有名人を紹介した。そうやって肩入れし出世した者も多く、やがて文化人や芸能人が大勢集まる店になった、というのは60〜80年代頃のイタリアンレストラン・キャンティを思わせる。

 

四葉の祖父母の生年は不明だが、戦後にダイナーを始めてマッカーサーが来たと自慢するのだから、50年代には店を切回していたはずだが、そうすると昭和初期か大正の終わりの生まれだろうか?60年代にはダイナーに行くのがステイタスになったというから、洋食屋を開いたのも恐らく60年代だろうか。アフタヌーンティーの店は80年代。この辺り、事業が成功していく流れとしては、些か時間が飛びすぎてる感がある。ちなみにダイナーが閉店したのは88年ということで、バブルの時期だ。

 

四葉が通う女子校はおそらく、それほど遠くない場所に併設の女子大がある設定から考え、フェリス女学院がモデルだろう。同じ駅から通称乙女坂で通う女子校の横浜雙葉と共立には市内の併設大はない。

真央が通う大学は柚木麻子の母校・立教がモデルのようだが、真央のキャンパスは小田急沿線で都内だけど横浜にほど近いというから、町田あたりの設定か。

 

 

こうした設定の妙も楽しいが、一番心惹かれた部分は舞台の横浜だ。

この小説には独特のハイカラな雰囲気だったあの頃の横浜が描かれている。これが横浜で育った自分にとってはたまらなかった。幼少期から青春時代の、みなとみらいもなかったあの懐かしい横浜の空気が思い出される。

 

横浜はとても広いので、市内でも内陸部に住んでいた私には、この小説の舞台となる山手あたりは完全に観光地、遠足で行く場所、横浜の象徴ではあるけどごく狭い一部の場所だった。そして憧れもあった。

山手は坂が急勾配で道が細くて入り組んだ場所で、旧居留地なので外人墓地や洋館はあるものの、散歩して雰囲気を楽しんだらそんなに長くはいられないセレブな住宅街という感じだった。今はもっと観光地化しただろうか。

 

実在の店や人(ゴールデンカップスはそのまま名前が出てくる)のエピソードを改変してはめ込むことで、フェイクだけどリアルな感じは出ている。

あの頃の空気を知っていると読んでいて自分の中で自家醸造された思い出が蘇る仕掛けは、作者が狙ったものではないかもしれないが自分には存分に作動した。

でもあの時代や当時の横浜に思い入れがない人はどう受け止めるのだろう。羅列されるデータを流し見するような感じなのだろうか。

 

中にはユーミンをモデルにした歌手もチラッと出てくる。ソーダ水の中を貨物船が通ったあの歌のエピを改変した感じで、四葉の家のアフタヌーンティーの店をモデルにした歌ということにしている。

ずいぶん前、実際に根岸の旧競馬場の傍のその喫茶店に足を運んだことがあるが、格別お洒落さはなく窓の大きい喫茶店という感じだった。歌が描いた洒落たセンスの世界とはだいぶ違うと感じた覚えがある。見えた海も横浜のコンビナート越しでそんなに綺麗ではなかった。お店よりもユーミンの感性に感服した。

今はもっとお洒落なカフェレストランに生まれ変わったようなので、歌の世界観にむしろ近付いたかもしれない。

 

四葉の母が同じくフェリスに在学中、当時の夜遊びやアルバイト先の設定で本牧が出てくる。電車の最寄駅がなくて、バスか車で行くしかない場所。そこに米兵が集まるリンディやゴールデンカップ、イタリアンガーデン、リキシャルームというような、今となっては郷愁をそそる店、そして広々とした米軍住宅があった。

本牧の返還された土地は90年代にマイカル本牧というイオン経営のショッピングセンターになった。そこも今はもうない。小学校の時遠足のバスの中から一瞬見えた、白い大きな平屋が緑の芝生に点在し、ブロンドの子供たちが駆けている風景。二度と戻らない時間と景色で、あの時代の空気への懐かしさが募る。