桐野夏生の「砂に埋もれる犬」を読んだ。

 

最近増えた虐待の連鎖を描く作品の一つでもあるが、虐待から救い出されても人格形成、生活習慣など、個人の根源を形成するものが虐待によって形成されないという、問題の深さに触れている。

 

優真は小6だが学校には行っていない。父親違いの5歳の弟と母と共に、母の男の部屋に居候している。顔立ちも整った方で頭も悪くない優真は、機を見て保護を受けることに成功し、施設での生活を経て里親の元で生活するようになる。

 

ネグレクト、暴力。ライフラインも頻繁に止められ満足に食事も取れず、優真たち兄弟は常に飢えている。だがそこから脱したら問題は解決されるのかというと、もっと大きな問題が立ちはだかる。

 

 

親の保護というのは、単に衣食住の提供だけではない。家族との生活を通して幼い子供は、健康で文化的な生活を営む上で大切な生活習慣(入浴して清潔を保つ・食事のマナー・季節の行事を楽しむ)とか、人との距離の取り方(思いやり・気遣い・周囲を見る)、倫理観など、生きていく上で大切な社会常識を、日々の暮らしの中で知らず知らずに身につけていく。

優真たちにはそうしたものが、全てすっぽりと抜け落ちている。

 

里親夫婦は優真に安心して暮らせる環境を提供するが、当たり前に育った人間には考えられないようなものが優真には欠けていて、読みながら暗澹とした気持ちになる。

自分が危害を加えられないよう他人の顔色は伺うが、基本的に他人に関心が薄いため、自分のしたことで相手がどう思うかと言う視点がない。

当たり前の生活習慣やマナーを全く知らず、その結果自分がどんな不利益を被るかも想像できていない。

こうしたことを里親が指摘して(というか指導だ)中学生・思春期を迎えていた優真は反発や屈辱とともに、自分を育てた(いや、育てなかった)母親を憎悪するが、それは愛情の裏返しである。そもそも自分の母親が子育てを知らないという認識も欠けているのである。

 

母親への憎悪、恵まれた環境で苦労もせず育った周囲の子供たちへの憎悪と憧憬が、やがて同級生の少女への並々ならぬ関心という形で膨らんでいく。優真の少女への執着は度を越しており、状況を薄々里親が察した頃には危うい状況になっている。

 

思いやりを素直に受け取ることができず、それをめんどくさいと思い、努力を放棄し、思考することもしない。そんな少年を里親はどう扱えばよいだろう。読んでいて疲労感を感じてしまう。

 

 

優真の母親は、優真がそのまま大人になったらこうなるだろうという見本だ。思考せず、学習せず、常識がなく、向上心もなく、たまたま出会った男に依存して生きている。母親もまたその母にネグレクトされて成長したため、社会規範も子育てもわからないままである。非常識な言動が多いが、自分が知らないことはできないのだ。子供への愛情も、自分が愛情をかけてもらった意識が希薄であるため、自分の付属物みたいな感覚しか持てない。成長したら食べる量も増えるのに、2、3日ごとにパンやおにぎりなどを与えてまたいなくなるの繰り返しで、一切面倒を見ない。下の子を預かった男が幼児性愛者で逮捕されたと聞いても、全く問題にしない。ある意味超越している。

 

 

優真はどんどん自分で自分を追い詰めていくが、里親も真っ当なことしか言わないので距離が開くばかりである。だが、思春期の子供というのは元々焦立ちやすいし、親を煙たがるものだ。そういうことを分かっていないと、どんな子でも大人と距離は取ろうとするだろう。里親の妻の方は、優真は母親への気持ちの整理ができていないことにうっすらと気づいているが、夫の方はとにかく教育的指導をしようと懸命である。

 

だが、物語の最後に交わされる優真と里親夫の会話に希望を感じた。優真の危うい行動を身を挺して里親妻は止めようとして、初めて優真が鎧を脱いで本心を吐露する。里親夫も本音を見せる。二人ともやっとここで本音を吐く。立場を超えて、一人の人間として相手と向かい合った瞬間だと思う。

 

大事なのはここからじゃないのか? 大人は建前で物を言いがちだけど、一人の人間として優真と向かい合えばまだチャンスはあるかもしれない。そして優真も、あまりに自分が他人と違いすぎてどうしたらいいのか分からない状況を認め、助けを求められればまだチャンスはあるだろう。

 

その先の物語は読者に委ねられている。自分の辛さは誰も分からないと閉じていた優真は里親に心を開けるようになるだろうか。助けてと言えるだろうか。

優真の闇はどれほど深いか、察しているよりもずっと深かったことで里親の覚悟も試されている。情をかけてやってもそれに応えない相手に耐えられるだろうか。

できればここから少しずつ、最初から関係が築いていけたらいいのだけれど。そして優真も素直になれればいいのにと願う。

 

あるいは優真が問題行動を起こしており、環境を変えないことにはそこからの更生は難しいという判断で、更生施設送りになることも考えられる。里親夫婦には優真をかばう気持ちもあったが、優真が手に負えないと思うかもしれない。どの選択肢が優真にとってベストなのか。というのを考えさせられる。