中島京子による図書館小説。そして一人の女性の人生を描いた物語でもある。
作者本人を思わせる『わたし』が語り手の、喜和子という女性についてのパートと、章ごとに挟み込まれた「夢見る帝国図書館」というオムニバス小説が交互に出てくる構成。全く関係がない二つの話のようで、喜和子の語る話と図書館の物話は内容がシンクロしている。
フリーライターの『わたし』は春先に仕事で上野に行った際、公園で喜和子というシニア女性と出会う。端布をつぎはぎしたコート、頭陀袋のようなスカート、白髪のショートヘアという個性的な見た目で、突然ベンチの隣に座ってきた喜和子は、初対面なのに知り合いのような気やすさで接してくる。上野に仕事のため図書館に来たことを話すと喜和子は反応し、『わたし』は誰にも打ち明けず小説を書いていることを、なぜか喜和子には話してしまう。
夏に再び上野に行くとまたもや喜和子に遭遇し、半ば強引に自宅に誘われる。
根津の方にある細い路地の、そのまた奥の路地に建つ間口の狭い木造二階建て。昭和初期に建てられた家は、すごく狭くて本がたくさんある魅力的な空間だった。
無邪気であっけらかんとして強引な喜和子に驚きながらも、二人は友達になる。電話がない喜和子とは偶然会うか直接家まで行くか、ハガキを送って約束するしかない。二人で散歩したり、家で冷や汁をご馳走されたり、銭湯や植物園に行ったり楽しそうだ。
喜和子は「わたし」に、自分の代わりに上野の図書館の物語を書いてほしいと頼む。図書館が語る図書館の歴史の物語で、タイトルも「夢見る帝国図書館」に決まっているという。それは喜和子が幼少期に一緒に暮らしたお兄さんが書いていて、喜和子に語ってくれた物語だった。
喜和子は小さい頃、上野のバラックで若い男性二人と暮らしていた時期があった。背の高い方のお兄さんが本好きで、喜和子は背中の背嚢にすっぽりと入って一緒に上野の図書館に通ったという。小説を書いていたのもこのお兄さんだ。どんな人も受け入れる懐の深いのが上野だと言う喜和子は、戦争孤児だったのだろうか。
『わたし』は喜和子の元カレの老紳士とも面識ができる。この元大学の先生の登場で、喜和子の断片的な過去が見えてくる。17、8年前に東京に出てきて、広小路の小料理屋で働いていた時に先生に見初められ、借りてくれた部屋に囲われて仕事も弁当屋さんに変えた。4年ほど付き合ったが破局して今の家に引っ越した。
喜和子は生まれも育ちも東京だと思いきや、バラックで暮らした時期は東京にいたが、親が迎えに来てその後はずっと九州で暮らしたという。喜和子は子供の頃のことはあまり覚えておらず、謎は多い。先生にも全部話していたわけではなさそうだ。
『わたし』は仕事の都合で定期的に上野に行くことがなくなり、喜和子と会う回数が減る。やがて小説家になり、パートナーもできて生活が変わり、そのうちと思いながら喜和子とは疎遠になっていく。そして東日本大震災を経て、2年ぶりに喜和子の家を訪ねるとそこは更地になっていて跡形もなかった。家もろとも無くなってしまった無惨さを感じる。
『わたし』は喜和子を見失ってしまった。年賀状に返信しなかったことに悔いが残る。このパートの心許なさと喪失感は、読んでいてしっかり共有できてしまう。こういうこと、大概の人に心当たりがあるのではないか。いつかはと思いながら連絡をさぼり、そのうち関係が途切れてしまい、そこで縁が切れて時折その人を思い出す程度になってしまう。
だが元カレの先生が市民講座に講師で出ると知り、そこで喜和子の消息を知ることができた。喜和子は体を壊して入院したのを機に、有料老人ホームに入っていた。訪ねていくと思いの外元気で、図書館の話を書くのはお任せしたいとか、死んだら灰は海にでも撒いてほしいと思わぬことを言う。
ここで突然喜和子の娘という人物が登場してきて、とても驚く。考えれば不思議ではないが、家族がいたのだ。でも喜和子と娘の関係は相当こじれていた。
夫は地元で名のある人物だったが、喜和子は嫁として窮屈で差別的な生活を長年強いられ、娘の大学進学を機に誰にも言わず家を飛び出した。夫は決して離婚を認めず、夫の死後喜和子に渡った遺産は雀の涙だった。施設の入居時に身内の身元引受人が必要で、勝手に自分の名前を使われたと激昂する娘の前で、喜和子は身を小さくして黙るだけでらしくない。
そして物語の真ん中辺りで喜和子は亡くなってしまう。これは読んでいて結構な驚きだった。『わたし』は密葬後に施設の人からの連絡で知り、お別れができなかった虚しさや喪失感、もう少し何かできたのではという後悔がわく。理由をつけて後回しにして失ってしまう、こういう時の後ろめたさと何ともいえぬやるせなさが伝わってくる。
メインの人物が不在となり、物語の残り半分どうなるかと思うが、ここから新たな証言者が現れて喜和子の人生が紐解かれていく。
『わたし』に喜和子の孫娘からSNSのダイレクトメッセージが届く。
孫娘は喜和子にシンパシーを寄せており、生前2度しか会ったことはないが、家庭の息苦しさや母親から聞いた祖父の人柄から家を出た理由は察するものがあったという。孫娘もまた高校で家を出て、東北の全寮制の学校に進んだ。
孫娘が加わることで、『お兄さん』の素性や喜和子が覚えていない幼少期や婚家での事情などがだんだん分かってくる。この辺りは物語ならばこそだが、女性の人権が裏テーマなのだと察すれば、そこを描かずしてどうするということでもある。
喜和子は戦時中に東京で生まれ、出生が記された戸籍は空襲で燃えてしまった。戦後に母親が亡き夫の弟と再婚することになり、喜和子は北関東の親戚に預けられた。だがそこを逃げ出して上野でお兄さんに拾われバラックで暮らした。母親が必死に探し出して九州に連れ帰ったが、上野での生活は母親には黒歴史扱いされた。性的虐待を疑われそうで、母親としては触れたくなかったのだろう。だがお兄さんは優しくて、喜和子は恐らく嫌な思いをしたことなど一度もなかっただろうし、人生で一番幸福な時間を過ごしたのだと思う。
しかし九州での生活に馴染めず、その上婚家ではモラハラや差別的扱いを受けた。家族に(娘でさえも)喜和子の味方はおらず、喜和子の自我は押し潰された。娘が大学進学したのを機に逃げ出して、辿り着いたのが幼い頃過ごした上野エリアだった。喜和子の自由で突き抜けたキャラクターは東京に来てからのもので、上京したばかりの喜和子は地味で目立たなかったという。過去の喜和子の萎縮ぶりを想像するに、胸が軋むようだ。
喜和子への婚家の扱いがあまりに酷くて前時代的で、現実でもこんな境遇の人がいたかもしれないと思うと、理不尽さに腹が立つ。地方に若い女性が少なくなっていくのも無理はない。母親世代がされた仕打ちを見てきて、大人になる前に都会に逃げ出すのだ。
喜和子に対して頑なだった娘が、亡き母を多少なりとも受け入れたのか、物語の終盤に散骨をして喜和子の最後の願いを叶える。母の元を早くに離れた喜和子の孫娘が、思いを伝えて母の背中を押したのがとてもいい。母親に捨てられたと感じ、娘も早くに離れていき、喜和子の娘もまた誰にも尊重されないと苦しんできたのだろう。
生きている間にもう少しお互いを尊重できていればとほろ苦さもあるが、肉親同士の難しさもあって簡単でないのも分かる。それでも夕暮れの海の場面は清々しく、喜和子の人生は浄化されて、散骨は先生の言う「祝祭」となった。
喜和子がずっと探していた「としょかんのこじ」という本は、小学校の図書室にあったのだが、母親の差金で2度と読むことができなかったという。国会図書館で『わたし』が閲覧した内容は、喜和子が話した図書館の思い出や「夢見る帝国図書館」の内容に重なり、書いたのはどう考えても『お兄さん』としか思えないが、筆者はすでに亡くなっている。
そして喜和子が書き残した上野の思い出の雑文と共に残されていた古いハガキには、なぞなぞとして数字を羅列したものが書かれていた。差出人の男性は『お兄さん』だろうけど、喜和子の母親に忌避されていたから、それきり交流が絶えてしまったのも想像がつく。暗号を解くとそれは「いつか図書館で会おう」と読み取れる。喜和子にとって上野の図書館はずっと特別な場所だったのだろう。元は帝国図書館だった国際子ども図書館の建物に、喜和子はなかなか入らなかったことに、逆に喜和子の思い入れを感じる。
「お兄さん」が考えた「夢見る帝国図書館」を小説にしてほしいと頼まれた時、「わたし」は一度は断った。だがお兄さんが語った内容に重なる「としょかんのこじ」や、喜和子が書いた雑文、大切に取ってあったハガキなど、喜和子が終生大事にしていたものを思えば書かずに済ませるわけにはいかない。それは喜和子の供養にもなる。
「夢見る帝国図書館」は国立国会図書館の前身であった上野の帝国図書館の話だ。
明治時代の帝国図書館の成り立ちや、政府に対し何とか立派な図書館を作らせようとする人たちの奮闘記。そして明治から昭和へと時代が変わり、きな臭い空気になっていく中、図書館や動物園が苦難の歴史を辿り、戦後を迎えた所まで描かれる。
図書館の価値を認めさせ、蔵書を増やすよう働きかけ、もっと広い立派な建物でと働きかけた先達たちの苦労を偲びたい。図書館を利用できること、自由に読みたい本が読めることがどれほどありがたいことか、改めて思わされる。
あるいは図書館を拠り所にしていた文学者たちのこと。文豪たちが若かりし頃に帝国図書館で青春の時を過ごし、今以上に立場が弱かった女性も図書館に来て知識欲を満たすことができた。貧しい樋口一葉に図書館がひとしお心を寄せたり、宮沢賢治が親友と今生の別れを帝国図書館でするのは、創作とはいえ文学者たちの人間味を身近に感じられる。
そして戦後にGHQのべアテ・シロタさんが訪れ、憲法起草に際し資料を借りる。ベアテさんが男女平等の条文を起草して、日本国憲法に人権条項が盛り込まれたことは現実だ。この章は『わたし』が考えたものだろう。女性蔑視に晒された喜和子の人生への『わたし』の思いが強く反映されていると感じる。
「としょかんのこじ」の最後に付記された『お兄さん』の書いた詩は、「真理がわれらを自由にするところ」で終わる。この一文は図書館使命の理念として国会図書館のホールにも刻まれており、現実とリンクすることで物語を一際深めて感動的だ。
図書館には人間の膨大な知識や想像力が詰まっている。誰もが自由に想像の翼を広げたり、
知識欲を満たせる。図書館こそは自由と平等の砦だろう。
ラストは帝国図書館が喜和子の特別な場所になった場面で終わる。最後に振り出しに戻るようで、余韻と共に読み返したくなる。