感じたことのない違和感。頭の中に一瞬の光が走ったと思うと、無数の虫が脳内を這いずり回るかのような不快感を覚えた。全身に鳥肌が立ち、じわじわと毛穴から汗が噴き出すのを感じる。クラウは思わず呻き声を漏らした。
クラウに起きた突然の異変に気付いたレイは、「大丈夫か?」と声を掛けた。
「分からない……何だろ、この感覚……すごく気持ち悪い……」
クラウは自らの震える身体を抱きしめるようにし、背中を丸めた。
「列車に酔ったのかもしれませんね。薬がないか訊いてきます」そう言ってアークは席から立ち上がり、後部車両へと向かった。
ほどなくして、「これは……!?」という声が聞こえた。アークの声だ。レイはクラウに「見てくる」と言い、アークを追い掛けた。
アークは橋渡しされた連結部で立ち尽くしていた。後部車両の扉が開いている。開いた車両の中を見つめていた。アークの肩に手をかけて「どうした?」と尋ねたが、刹那、信じ難い光景が目に入った。方々に飛び散った赤黒い痕。天井や壁は所々穴が開き、車外へ逃げようとする風に血の匂いが乗っている。
通路に倒れていた乗客の一人がぴくりと動いた。アークが「大丈夫ですか!?」と声を掛けた次の瞬間、レイは何かの気配を察した。「危ない!」と叫ぶと共にアークの背中を押し、自分も前に倒れ込む。すると、背中に風が走った。気配の源を見る。それはレイ達の座席がある車両の屋根の上。そこにいたのは異形のもの――人ならざるものであった。首もなく、だぶだぶとたるませた肉の塊が四足歩行し、長く伸びた下を縮めるも口の中には納まらないのか、涎を滴らせながらぶらぶらと垂れ下げている。
「こんなところに《魔物》が出るのか!?」アークは目を疑った。
《魔物》。動物、植物、人間、更にはそれらの思念体が高密度のアニマによる影響を受けた結果として変化した存在である。稀に人間並みの知能を維持ないし新たに得た魔物もいるが、その多くは狂暴化し、本能の赴くままに人を襲う。《スイーパー》と呼ばれる職業の者達の活躍によって、人が生活する地域で魔物が出ることは滅多にないが、人が立ち入らない地域では多くの魔物が跋扈している。
「下がってろ!」立ち上がったレイは右手でアークを制すると、唱えた。契約の言葉を。「俺とお前の契約の下、今ここにお前の名を示す――来い! 鬼斬丸!」
レイを包む魔法陣と光の中から姿を現す1本の刀。
「それは……神器……」アークは呟いた。
それと同時に魔物は背を向け、クラウの頭上となる方へ屋根を伝っていった。
「クラウ!」
「レイ、何が――」
「ここは危ない! 後ろの車両に――」
レイが言い終わるよりも先に、天井が突き破られる音がした。見ると、異変に気付いて立ち上がっていたモッカネチが天井から伸びた魔物の太い舌に絡め取られている。
「な、何だこれは!? た、助けろぉっ!」
お付きの執事はもちろん腰を抜かしていたが、2人のボディガードはスーツの裏に隠していた拳銃を抜き、爬虫類の如き舌にその銃口を向けた。軍隊上がりの彼らであるが、銃口を向けてから撃つまでのタイムラグは否めない。その引き金が引かれるよりも早く、モッカネチの両足が床から離れた。そうなれば、屋根の上にいる肉塊の一部となるまでは一瞬の出来事――のはずだったが、重力に逆らう力は目的を達することなく断ち切られた。鬼斬丸によって。
「アーク、クラウを頼む!」
「危険です! 実態も分からずに!」
「こんなところで大人しく餌にされるかよ!」
座席シートの上に乗り、屋根の上へと跳び上がる。時速100キロメートル近くの速度で大陸を駆け抜ける列車の屋根の上は、連結部以上にレイの銀髪を後ろからなびかせる。眼前には例によって断ち切られた残りの舌を縮めて回収する肉塊がいた。その全身は馬車くらいの大きさ。舌に痛覚がないのか、悶絶する様子は見られない。
「どっから沸いたか知らねぇが、夕飯の時間にしちゃまだ早いんだよ!」
背中を押す風を味方につけ、魔物の懐へ一気に入り込む。そして、喉か分からない部位を狙って鬼斬丸を斬り上げる。この肉塊が元は人か動物であれば、喉元をかききったこととなる。しかし、鬼斬丸の刃はゴムの海に飲み込まれるようにめり込んでいくだけで、いつもならば得られるはずの感触が柄を持つ両手に伝わってこない。このままでは鬼斬丸ごと奴の肉に飲まれる――そう直感したレイは腕を引き、魔物から距離を取るべく後ろへ跳んだ。そして、レイの足が屋根に落ち着こうという瞬間、魔物から伸びた舌がレイを襲う。咄嗟に再び後ろへ跳ぶ。レイが着地した地点は、舌がぶつかる衝撃で砕かれ、穴が開いた。
一連の攻防は複数回にわたって繰り返されたが、レイのパターンが乱れた。列車の屋根の上――その限られた状況がレイに牙を剥く。後退し続けることを状況は許さず、レイは車両前方の端に片足をかけてしまった。足の半分は宙に浮いた状態。レイは大勢を崩した。たとえ本能でしか動いていなくとも、いや、本能で動いているからこそ、魔物はこの好機を見逃さない。鬼斬丸を持つレイの両手首に魔物の舌が絡み付く。このまま奴の巨大な口に飲み込まれるか。しかし、それで観念するほど大人しく育ってはいない。頭をフル回転させる。何か手は――。
つづく
