聖暦1848年
雨が降っていた。
俺は一体何をしているのか。考えれば考えるほどに全身を茨で締め付けられ、茨の棘ひとつひとつが俺の肉を突き刺すような感覚を覚える。考えてはならないのだ。
しかし、今、目の前に広がっている光景は何だ。中には人は死んだら天国か地獄に行くのだと言う宗教家もわずかながらいるが、アスガルドの人間は概して、人は死んだらその魂がアニマとなってこの世界とひとつになると考えている。だが、今俺の目に映っているこの光景こそが、地獄そのものではないのか。時計の針は真夜中であることを指示しているというのに、この雨の中でさえも、真っ赤な光が村を、空を包み込み、強い雨音とは別に、木を組んで建てられた家が崩れ去る音や、銃声、そして耳をつんざくような悲鳴が不揃いにそれぞれ響き渡っている。
俺の横を後ろから次々とライフルを脇に抱えた兵士達が通り抜けていく。同じ制服、同じヘルメットを被った彼らは、自分達と異なる姿をした者を見つけると、すかさずライフルの引き金を引く。すると、その先端から放たれた金属の塊が、その先にある肉をまるでトンネルを掘るかのように貫く。この一連の動作を機械的に行っていく。たとえそれが、武器を持たない女・子供であっても。
俺も彼らと同じ意匠の制服を着ていた。バンドール共和国軍が正式採用している制服だ。ただし、彼らの制服が青を基調としたものであるのに対し、俺のそれは赤を基調としたものだ。命を断ち切られた者達が残した血で汚れ、人か否かの判別もせずにすべて煤(すす)の塊にしてしまう炎に照らされたその赤は、どこか生々しく感じられて、死者に魂を引きずられていくような不快感をもたらしていた。
考えるな。ただただ、今の俺に与えられた命令を実行すればいい。バンドールに脅威をなす《アネル皇国軍》の残党を壊滅させればいい。女・子供を問わずに――。
俺は歩いた。その右手に《妖刀鬼斬丸》と呼ばれる一本の刀を携えたまま。何ら整備されておらず、土肌を露わにした道は、雨に濡れて柔らかくなっており、一歩一歩が冷たい土の中に引きずり込まれてしまいそうに感じられた。
ひとつ光が見えた。まだ火の手の回っていない民家の中からだ。俺はその民家の中を覗いた。すると、その中で、一人の女がびくびくと体を震わせながら床にへたり込んでいた。俺が見た光は、彼女の首から下げられた首飾りが外の炎の光を反射させていたものであったらしい。
俺は雨露を床に弾かせながら、一歩ずつゆっくりと彼女に近付いて行った。彼女は何も言わなかった。いや、言えなかったのか。身体を小刻みに震わせながら、その怯えた目でただ俺を見るだけだ。俺は歩みを止めて、鬼斬丸を持つ手にぐっと力を入れた。
考えるな。考えるな。考えるな――。
頬に生暖かい感触がした。その感触をもたらしたものは、頬を濡らしていた雨露と交じり合い、首もとへと伝っていった。
誰かの視線を感じた。隣の部屋に続く扉の方を向くと、一人の男の子が立っていた。この女の子供か。灯りの消えた部屋の中では、はっきりとその子供の姿を見ることができない。しかし、まばたきひとつせずに俺を見つめるその瞳だけは、はっきりと見ることができた。深淵の闇の中で面妖に輝く紫の瞳。その瞳には、俺自身が映っていた。鬼斬丸の刃に雨露とは違う何かを滴らせた俺自身を。だが、その瞳の中にいる俺は、たしかに俺の方を見て笑っていた。それは、心の底から人殺しを楽しんでいる人間の表情だった。
聖暦1853年
知らない天井だ。
今の今まで、あの村にいたはずなのに、レイは窓から暖かい光が差し込む部屋の中、ベッドに横たわっていた。
※
演説台へと続く通路の両脇には、ソウルギアの文官や士官のみならず、ノワールの市長をはじめとした役人の姿もあった。
ソウルギアが駐留するバンドール軍を殲滅し、ノワールを実効支配するようになって三日が経つ。それまでに、ノワールを取り戻そうとするバンドール軍の艦隊が数度攻撃を仕掛けてきたが、いずれも返り討ちとなり、バンドール軍はその無力さをノワールの市民に見せつける結果となっていた。たとえ“軍”を名乗るソウルギアであっても、その軍事力がアスガルドの三大国家のひとつとして数えられるバンドールの国力に勝るはずがない。ノワール市民の誰もがそう思っていた。だからこそ、バンドール軍がソウルギア軍にことごとく退けられているのは、首都ヴァルキュリアでぬくぬくと生きている政治家と軍高官の連中が本気でこの街を取り戻そうと考えていないのだという風潮が街中に広がっていた。ノワール市長もそのような世論を肌で感じ取っていたからこそ、ソウルギアからの招待状を受け取り、今この場にいるのだろうことは、仮面を被ってけして素顔をさらそうとしない男に向けたその硬い表情から容易に読み取ることができた。
用意された赤絨毯の上を歩くオーディンは、普段から着用している黒の制服の上に儀礼用のマントを着用し、ソウルギアの《総帥》という地位を超えた《象徴》としての気風を強めていた。演説の用意を指示したのはオーディンだが、このマントを着用すべきだと提案したのはツァイコフだった。ツァイコフにはソウルギアの文官として外交その他政治的な分野を任せているが、元々バンドールの役人であった彼を引き抜いたのは正解だった。数少ない改革派であったが故に疎んじられていたこの男は、よく働いてくれている。
オーディンの後ろには、ツァイコフと共にリゼルが付いて歩いていた。オーディンは歩みを止めず、正面を向いたままリゼルに尋ねた。
「《ラ・ピュセル》の捜索はどうなっている?」
「リンド・トリレナ少佐の部隊に捜索させていますが、ノワール市内では発見できないとのことで、《ナーシサス》まで捜索範囲を広げて目下捜索中です」
「ナーシサスか……ラ・ピュセルを確保するには少々厄介な場所だな。トリレナ少佐にはくれぐれも慎重に動くよう指示しておけ」
「ハッ」
通路を抜けると、ノワール基地をびっしりと埋め尽くす人の海が広がっていた。それはすべて同じ制服を着たソウルギアの兵士達だった。オーディンの姿を見るやいなや、基地は割れんばかりの歓声に包まれた。
演説台にはマイクが設置され、数台のカメラが向けられている。この演説は、全世界の通信回線をジャックし、アスガルドに住む者すべてに向けて放送される手筈となっていた。
「アスガルドに住むすべての国民よ。私はソウルギア総帥のオーディン――皆を導く者である。
我々ソウルギアは、今は失われた旧アネル皇国軍を母体として新たに組織された軍であるが、《魂の歯車》を意味するこの名の通り、いずれの国家にも属さず、ただ弱き者――持たざる者達の魂を解放するために戦うべく組織された義勇軍である。
ラグナロクの終結から一万年もの年月が経つ。かつてすべての我らアルシスを束ねていた大国《ヴァルハラ魔法王国》は、その力に溺れ、更なる覇権を求めてソラシスとディクシスに対し戦争を仕掛けた。しかし、その結果、人類に未曾有の危機をもたらしたことは皆の知るところである。
それにもかかわらず、人類は今に至るまで幾度となく戦いを続け、自らの手で自らの住むこの世界を傷つけてきた。そして、その代価を払わされたのは、いつの時代も一部の持たざる者達であった。このような歴史がいつまでも続いてよいはずがない!
今のアスガルドを見て欲しい。自らが悦に浸ることのみを考える政治家や役人どもは、自らに都合のよいシステムを構築し、弱き者の魂を搾取している。
私が仮面をつけている理由は、すべての持たざる者達の意思を、願いを、魂をこの身に受け入れ、器とならんためである。私はすべての持たざる者一人一人なのだ。
すべての持たざる者達よ。今こそ立ち上がる時だ。我らを虐げてきた人々を粛清し、戦争を二度と繰り返さないようにし、我ら自身の手で、我らを縛り続けてきた負の歴史を終わらせるのだ!
さすれば、我らの魂は解放されるであろう!」
つづく
