ごめんね…ありがとう | you家のいろいろ☆ネフローゼママの食物アレルギーっ子育て

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2013年10月微小変化型ネフローゼ症候群発症。寛解し約一年でステロイドも終了。順調だったのに2017年11月再発(;´д`)
自分の病気、息子のアレルギーや発達障害など…いろいろあるけど頑張っていこ♪

前回の更新から二週間経ちましたが…



あの記事を投稿して


ほんの30分後くらいに


「さっき病院から、今の状況を先生からお話したいので来られますか?って電話があって、今病院に向かってる。」


と姉から連絡がありました。



病院から電話があった時


姉は夕飯作ってたから


すぐ出られないけど大丈夫ですか?って


看護師さんに聞いたら


いいですよーって言われたから


そこまで緊急性はないだろうと思うけど


集中治療室を出たってことでも無さそうだし


良くはないのかもしれないね…と話しつつ


また帰り道に報告をもらうことにして切りました。



それからしばらくして


姉から連絡があり


「今夜もつかどうかなんだって…。


同時には会えないけど一人ずつ順番になら会えるらしいから、今から来れる?」


と。



それを聞いて


動揺して平常心を保ってられなくて


元々ペーパードライバー歴長くて


今でも運転に苦手意識があるのに


30分以上かかる慣れない道をしかも夜に


この精神状態で運転するなんて


私、無理だ…ってなって…


旦那にすぐに帰ってきてもらえるよう電話し


近所に住む義母にも来てもらい


子供達をお願いして病院に向かいました。



病院に着き


案内されるまで


先生から説明されたことを姉から少し聞き


先に姉が集中治療室へ。



しばらくして戻ってきた姉と入れ替わりで


私も父のもとへ。




鼻と口に管を付けてベッドに横たわる父は


目は開いていたものの眼球は動かず


呼びかけても手を握っても


何の反応もなくて…。



看護師さんが言うには


前日は話しかけると


「あーあー」と返事してくれたりもしたみたいで


今は痛み止めの薬のせいもあって


ぼーっとしていて


目はぼんやりと見えてるか見えてないかだと思うけど


恐らく声は聞こえていると思いますって。



もっと早く


少しでも反応がある状態の時に会いに来たかった。。



モニターに映る線を指し


たまに白くなっている部分は


自発呼吸しているところだと教えて下さり


弱くはあるけども


頑張って自分の力で生きているのだとわかりました。



私が泣きながら一方的に話すしかできなくて


ピクリとも動かないから


本当に聞こえているのかも分からなかったんだけど


気付くと父の右目の目頭に涙が溜まってる?



頭がこちらに少し傾いていたので


下側になってる左目を見ると


目尻から横に涙が伝っていました。




あぁ、ちゃんと聞こえてたんだね…。




その涙を指で拭ったのだけど


父の涙を拭うなんてことは初めてで


私も余計に涙が溢れてきました。




時間になり待合室へ戻り


その後医師が来て


改めて話を聞いたのですが、、



呼吸が上手くいかず


酸素を送っても


身体に二酸化炭素が溜まってしまうこと。



痰がとても多く


大きな痰が出た時に詰まって


何度も危険な状態になっていること。



血圧を上げる薬を使っても


一時的にしか良くならず


他の部分でも不具合が出てしまうこと。



電解質のバランスがとにかく悪く


正常に保てないこと。



そして…



回復は見込めないこと。。。





父は透析をしている身ながらも


長年タバコを吸い続けていて

 

肺の機能がかなり悪くなっていたと思うので


呼吸不全や痰はきっとそのせい。



私、昔から親が吸うタバコが大嫌いだった。



やっぱりこういうことになるんだから


タバコなんて吸うべきじゃないんだ。



でも父は


痛みが出るようになって


痛くて寝られない時も


タバコ吸うと少しは寝られるって


言ってたらしい。



今までもいろんなストレスを


紛らわしてくれていたのかもしれないと思うと


悪物とすることもできないのかな。



力が入らなくなって


ライターの火も付けれなくなり


突然吸えなくなってしまったのは


可哀想だったのかもしれない。




今回手術をしてなければ…とも思うけど


心臓も手術しなかったらいずれ心不全とかになってたと思うし


手術前に体調が一気に悪くなったのを考えると


いずれにしても


身体が限界だったのだと思います。



30年も人工透析してきたんだもんな…。



頸椎症も初め市民病院で診て貰った時と


一週間後に他で診て貰った時とでは


驚くほどに悪化していたので


部分的な問題ではなく


他の不調とも全てが繋がっていたような気がします。




医師から


また危険な状態になった時に


どこで区切りを付けるのか


決めてもらいたいと言われたんですが…


きっと父は苦しいだろうから


楽になりたいかもしれないと思う一方


一応まだ少し自発呼吸があって


まだ頑張ろうとしてるかもしれないのに


私たちがそれを止める決断をするなんて


簡単には出来なくて…。




少し時間をもらって


泣きながら姉と話し合って


一応蘇生措置はしてもらいたいけど


ある程度やっても戻らなければ


無理して続けてもらうのはやめようと決めました。




いつその時が…なのかもわからないし


コロナ禍での病院の体制により


ずっと病院にいるわけにはいかず


それぞれ一旦帰宅しましたが


家に着いて少ししたら姉から


「病院から来て下さいって電話があった」


と連絡が入り


またすぐに病院に戻りました。



私たちが病院までそれぞれ


30分前後かかるというのを


先生方は分かって下さっていたから


その時30分近くかけて


蘇生措置をして下さってたみたいで


(この時は痰が詰まった訳ではなくはっきりとした原因が分からなかったらしい)


着いた時には持ち堪えた後だったのですが


先に着いた姉はそれを聞いて


先生方にも今まで充分やって頂いたし


父も苦しいかもしれないし


次にもし心肺停止になったら


もう大丈夫ですと伝えたそうです。



私も到着し


その後ほどなくして


今度は姉と二人同時に呼ばれました。




父のもとへ行くと


さっき面会した時と同じ様に


静かにベッドに横たわっていました。




ただし


もう息はしていませんでした。




姉と私立会いのもと


医師の確認を受け


2021年5月14日0時38分


父は68歳で永眠しました。




周りと比べればまだ少し早い、、


でも小学1年生でネフローゼになり


病気と闘ってきた父にとっては


頑張って生き抜いた68年だったと思います。





実は私


以前は父のことが好きではなくて…



家のことは全部母がして何もしないし


休みの日には一日中パチンコ。



身体が小さく身長も今の私と同じ157cmで


見た目も性格も頼りないのが嫌だった。



基本的に父から話しかけられることも


私から話かけることもなく


親子としてのコミュニケーションもない。



母も父と必要最低限しか話さないし


母に


「何で離婚しないの?」


って聞いたこともあったし


お父さんとは一緒にバージンロード歩きたくない


なんて思ってた。



でも私も大人になり


いざ離婚するってなったら


母の行動とかタイミングとか本当に最悪で。



離婚は母が切り出し


父はすんなり受け入れたのだけど


病気持ちの父のことも見放されたようで


父が可哀想にも思えてきて。



そこから父への気持ちが少しずつ変わり…


口数が少なく物静かだった父は


騒がしい女3人の中


どうコミュニケーションをとっていいかわからず


居場所がなかったのかもしれないな


不器用なだけだったのかもしれないな


と、思うようになりました。




思い返すと


ちっちゃい頃は


父が釣りに行くのについて行ったり


日曜日に一緒にお風呂に入りながら


面白い歌を教えてくれたり


楽しい思い出もあって。



仕事帰りに透析に通って


身体もしんどい中


家族のために働いてくれていたのに


思春期特有の感情とかが混ざって


余計に避けるようになり


父に寂しい想いをさせてしまっていたと思う。



昔から家族の誕生日には


ここらでは名の知れた美味しいケーキ屋さんで


ケーキを買ってきてくれて


私が結婚してからも


私の誕生日には同じ様に買って


うちまで持って来てくれた。



まともな親子関係を築けていなかったので


父として何をしていいのか


どう接していいのかわからない中


それだけはと思って


続けてくれたのかなと思う。



長男と次男の誕生日も毎年ちゃんと覚えてて


長男はアレルギーがあるからフルーツと


プレゼントを持って来てくれて。



昔はあまり喋らない人だと思ってたけど


話題を振れば


意外と喋るんだなぁってことを知った。




穏やかで忍耐強くて


私、父に怒られた記憶があったかどうか


思い出せないくらい……。



そんな父は


死に顔もとても穏やかで


目も初めは閉じていたはずなのに


しばらくすると少し開いてて


生前と同じように


目を細めにっこりと微笑んでるようでした。



本当は起きてて


呼べば返事をするんじゃないかと 


何度も思いました。



もっとたくさん話しておけばよかった。



入院日


どうせ一人しか付き添えないし


送り届けるだけで


病室に行くこともできないだろうと思って


私は行かなかったけど


その日の体調の悪さを後から聞いて


病院に入る前の


少しの時間でも会いに行けばよかったと後悔した。



4月に36.2kgだった父のドライウェイト(余分な水分を調節した透析終了時の体重)


入院当日の透析では34kgだったそうで


最期はもっと減っていたんじゃないかな。



小さく細い身体で


よく頑張ったよね。





あの頃冷たく接してしまって

ごめんなさい。


親孝行も全然できてなくて

ごめんね。



今まで本当にお疲れ様。


そしてありがとうピンク薔薇