息子の四九日法要と納骨式! | ブルーアイランド

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先日、息子の四九日法要と納骨式を田野の西導寺で行いました。

 

いつも住職のお経が終わった後に説教をして頂くのですが、今回は息子の死が示す仏の教えを話していただくことになりました。

毎回、教えの内容に気づきのある話をしていただくので興味を持って伺っています。

 

息子の戒名である照拓という名について話していただきました。

 

桜の季節に応じて「散る桜 残る桜も 散る桜」という句から教えを導いていただくことになりました。

 

散っていく桜を惜しみながら、残っている桜を愛でてみても、その残っている桜も必ず散る桜なのである。

桜も命も「諸行無常」であり、常として生が永遠不変のものではなく、死がいつ誰に訪れるかわからない無常の定めである。

だからこそ、今この瞬間を精一杯生きていくことが、仏の教えであると話される。

 

人は色々な場面で気づく機会を与えてもらっているが、つい忙しさ(心を亡くす)にかまけたり、大事なことを聞き逃していることで、闇(門構えに音)や苦難を招いてしまい、闇の中をどこに進めばよいのかわからなくなり、そのような現在から逃れようと、過去がよかった、未来は明るい、と思ってしまいますが、身近な人の死によって、明日は我が身かと思えば、今この瞬間を精一杯生きていくことであり、闇を照らす光を得て切り拓いていくことが、今を生きるという事であり、息子さんの戒名である照拓の教えであると話される。

 

その流れで、相田みつを氏の「そのうち」という詩についても話される。

 

今という日を大事にしないで、そのうち、そのうちといって過ごしていると、いつの間にか淋しい墓標が立つという詩であると話される。

 

『そのうち お金がたまったら そのうち 家でも建てたら そのうち 子供から手が放れたら そのうち 仕事が落ちついたら そのうち 時間のゆとりができたら 

そのうち…そのうち…そのうち…と、

できない理由を くりかえしているうちに 結局は何もやらなかった

空しい人生の幕がおりて 顔の上に 淋しい墓標が立つ

そのうちそのうち 日が暮れる いまきたこの道 かえれない』