だから 震えがくるような世界ときみを見つめていたい | 君を殺しても

君を殺しても

THE NOSTRADAMNZ Lucifer K nemoto

お久しぶりです。ルシファーです。

言いたいことがある。

■THE NOSTRADAMNZのホームぺージでライブ情報をチェック!
あんまり表立って言ってなかった気がするけれど、THE NOSTRADAMNZにはかっこいいホームページがあります。
ここからライブの日程などのチェックができるようになっているのと、地味に通販環境を構築したので、是非ご活用くださいませ。

 


■noteを開設しました。
こちらのブログを前世から長年愛読して頂いている方、結構いらっしゃるかと思います。
ぼくに才能があるとしたら「地味に継続すること」がひとつあると思うので(「捨てられない」という欠点と表裏一体だけれども)、こちらを消したりはしないのだけど、バンドマンという属性に縛られない文章を書く場所が欲しくなり、開設に至りました。
なので、こっちのブログにはバンドマン的な立場、即ち今であれば「ルシファー様」として書きたいことはここに書き、すっぴんのぼくが何かを書く時はnoteを使う、みたいなゆるやかな切り分けにしていこうと思ってます。

 


■なんか好きな動画
Drue Langloisという人の動画がなんかすごく好きで、インスタとかで流れてくると観てしまいます。

きっかけはコレだった。

 


楽曲は"Robot Tune" という曲で、 Winnipeg bandという人が作ったらしいのだけど、英語なのでよくわかりません。
特筆すべきは、楽曲そのものが持っているグルーヴを絵がブーストしていること。
これ、「補完」はできても「ブースト」って結構難しい気がしていて、それも絵で、アニメでできてるってすげえな、というのがとっかかりでした。

で、話として好きなのはこっち。

 


これ全然意味がわからないのに面白いなーと思ってました。
どんなテクノロジーかわからないけど、面白いと思った動画とかってなぜか何度も出てくるじゃないですか。
それで何度か見ているうちに、妙な引っ掛かりに気づきました。

ざっくりあらすじを書くと、

①ある男が、友人(または知人)の家にあるバーベキューコンロを見て「That's a Nice Grill」「Very nice」と何度もしつこく感嘆し、フタを開け閉めしたり点火したりして賛美する


②盛り上がる最中、持ち主の男が突然「家族が嫌いだ、生きるのが嫌だ」と突飛な悩みを打ち明け、「頼む、このグリルで俺を焼いてくれ」と狂気的な願いを口にする


③最初は戸惑い止めていたもう一人の男だが、最終的にその勢いに押し切られ、本人は「俺がクリスピーに焼き上がったら、油受け(グリース・トレイ)を掃除してくれ!さもないと俺の魂がこのグリルに永遠に憑りつくぞ!」と叫びながら、自らグリルの中に飛び込んでフタを閉めさせる


④グリルの中で焼かれながら断末魔の叫びを上げる男の姿と、男の子供が「お父さん?どこにいるの…?」と声をかけてきたことで錯乱し、嘔吐


⑤残された男は「I'm sorry」を連呼しながら自分の車に飛び乗って逃走したものの、亡くなった(あるいは幻聴となった)男の「油受けを掃除しろ!」という呪いの声がフラッシュバックしたことで前方不注意となり、車は大破・爆発する

なんかクソ笑っちゃうんだけど、なんでこれが面白いのかが引っかかりました。

で、ひょっとすると「グリル」が「お父さんの権利の象徴」なのでは?と思い立ち、AIに訊いてみたら、欧米では少なくとも日本よりはそうです、とのこと。
つまり、「庭でバーベキューパーティーをするとき、家主(父)が“立派なグリル”を使って料理を振る舞う」ということに象徴的な意味合いがあるということです。

これはまあ、日本でもあることだと思います。マイホームじゃなくて河原だったりするけど。
日本だと、マイホーム自体とかマイカーとか、はたまたゴルフクラブのほうがグリルよりもその「父権を確認する儀式」の象徴性が強いかなと思います。
「残クレアルファード」があれだけ揶揄されるのは、その辺が絡んでいる気もしていて、つまりは「身の丈に合わない父権の誇示」を可能にするシステムを売りつけられていることに気づいていない滑稽さ、みたいなものが見出されてるんだと思います。(ぼくは残クレを嘲笑したいとは思わないけど。)

そう考えると、「グリルの男」の悲哀と滑稽がちょっと見えてきますよね。
彼は、「家族が嫌い」と言ってる。つまり「父として威張れない」という状態なのだと思う。
せっかく新しいグリルを自慢したいのに、家族は家でゲームをしているし、来た友人も一人という状況がある。
おそらく、前からそういう状況が続いていて、「使うあてもないグリル」を買ったのだろうという感じもかなりある。

その果てに、男はグリルの中で死ぬことを選ぶ。
迷走した父権は、最後はその象徴の中で生涯を終えることを当人に選ばせる。

…あれ?どっかでこういう話あったよな…

と連想したのが、三浦友和さん主演の実写邦画、「葛城事件」でした。

 


■ 「葛城事件」のこと
観たきっかけはアマプラか何かでオススメが出て来たのか、ロケ地に見知った本厚木の地下道(予告編の0:16あたりの場所)だったから興味がわいたのか、どっちが先だったか忘れたけれど、なんだか印象に残っていた映画でした。

父・葛城清は、マイホームを建てた祝いに、庭にみかんの苗木を植えます。
「息子たちの健やかな成長を願って」と言いながら。 
でも、家族は壊れていきます。 長男は、会社をクビになったことを家族に言えないまま、息子に「バイバイ」と見送られたあとに、ビルから身を投げます。
次男は通り魔となり(厚木でな)、死刑になる。
 
そして最後、父は、自分で築いた"城"で、息子のために植えたみかんの木で、首を吊ろうとします。
けれど、枝が折れて、死ぬことすらできない。荒れ果てた部屋で、食べかけのそばをすすっている。

「父性」「父権」という、男が背負わされてきた記号と、それを背負えなくなった男の行き場のなさ、そして迷走した父権は、当人をその象徴の中で死に向かわせる。

「グリル」と「マイホーム」が「父権の象徴」だとすると、「That's a Nice Grill」と「葛城事件」はほぼ同一の構造を持った、「父の寓話」になります。

この、原産国も文化圏も言語も作風もプラットフォームもまるっとぜんっぜん別の二作品の相同に気づくのって世界中でぼくだけじゃないですかね??
もっと評価されるべきでは????何??じゃあおまえら気づけるわけ???あ????

■ぼくがモテてきた話
この二作を反芻しているうちに、そういえば、ぼくに惹かれてくれる女性は、父親との間に軋轢があるか、そもそも父親が欠けているか、そのどちらかの人が多い気がするな、と思いました。
いや、多いというか、ほとんどがそうだったような、偶然にしてはさすがに多すぎる気がしてきました。

そこで、以下の仮説を立てました。
ぼくの中に、その人たちが強く反応する"何か"、 ラカンの言葉を借りるなら"ファルス"的な、父性の記号のような何かが、ぼくにはあって、それを求めてくる女性(ごく稀に男性)が、一定数いるのではないか、と。
 
■自分で決めつけずに、当人らに訊いてみた
今までのように、その"何か"を、ぼくが自分で「たぶんこうだろう」と決めつけて自分の中に置いておくだけでは進歩がないので、当人たちに直接訊いてみました。

地味にツイキャスで不定期に(しかも頻繁に)ただ語るだけの配信をしているのですが、それを聴いている人たちは、結構ぼくのこと好きだと思うので、ツイキャスのリスナー層(≒ルシファー様ガチ勢)に向けて募集しました。

「ぼくに何を求めていて、ぼくから何を得ているか」と「父親との関係」について、まっすぐに問いました。

そして、 集まった声をAIにすべて読ませて、そこにぼく自身の見立てをぶつけて、壁打ちをしました。

なぜ、こんなことをするのかというと、たぶんよくいう Will・Can・Mustの話なんだと思います。

 自分が「やりたいこと」「できること」「求められていること」の三つが重なったところが、おそらく人が世の中でいちばん役に立てる場所であり、ぼくは特に「求められていること」の把握が弱いな、と思ったからです。
 それを憶測ではなく、"生の声"から掘れば、ぼくが世間に差し出せるもの、望まれているものの輪郭が見えてくるんじゃなかろうかと。

■ご回答ありがとうございました
集まったご意見・ご見解は、人によって使う言葉はバラバラでしたが、並べてみると、共通項が見いだせてきました。
 「否定されるかと思ったのに、否定されなかった」、 「適当なことを言わない人だから、信じられる」、 「一緒に考えて、言葉にして、世界のどこに置けばいいかを教えてくれる」、 「この人を通すと、自分の世界のほうが広がる」などなど。(ありがたくて泣いちゃう)

逆に、実は「父親」との関係性についてはそれぞれでしかなく、もちろん血縁上の父親が居ない方もいれば、居ても関係が悪い方もいれば、血縁はないけど父性的な役割や機能が家庭内にちゃんとあった、という方もいました。
つまり「父親が欠けている人」という、最初のぼくの雑な仮説はやや外れていたと見ていいと思います。 
欠けているのは、父親という"人"ではなくて、たぶん「自分の欲望を、自分の外側の世界へ接続する機能」のほうなんじゃないかと思うほうが自然です。
少なくとも、今回集まった声からは、ぼくにはそう見えてきました。

つまり、「自分の欲望を、自分の外側の世界へ接続する機能」について、その回路(プログラム)が不鮮明な人ほど、それを渡してくれる相手に反応しやすいのではないか、ということです。

■ぼくは何者なのか 
ここから、各種LLMと何往復も壁打ちをして、ひとつ、像が結びました。
ぼくは、たぶん、単に「優しい人」とか「父性的な人」とか「安全基地」なのではなく、生来的に、構造を掴みたがり、それを言語化したがり、常に予測可能な世界で生きていたいし、自律していたい、という認知特性があります。(このへんはnoteに書いてます)

しかし、しばらく生きてみると、世間や社会の理不尽と摩擦を起こします。世界は、構造や言語だけでは動いていないし、それはぼくにとって予測不可能でした。
端的には、幼少期の「何をすると怒られるのか分からない」みたいな予測不可能性がしんどくて、そのしんどさの中で生きるために、ぼくは、世界を"観察して読もうとする"ようになった。

普通は、読まなくても空気で感じられたり同期できたりするらしいのですが、ぼくにはその機能が欠落しています。

なので、普通よりも少しばかり注意深く世界や人を読もうとするチカラが働いて、世界を少しでも予測可能なものにしたかった。

その一部が、「読む力」になり、処世術になり、「人を不必要に傷つけない」という倫理としてぼくの中に定着するに至ったのだと思います。
欠落を抱えた子供の生存戦略だったものが、いつのまにか、人格の一部になっていたのでしょう。

いま、ぼくが人に対してやりたい、できる、そして必要とされていることは、おそらく 「ここにいていい」という安全の提供と、他方で「ここだけがあなたの世界じゃない」という外への接続の提供なのではないかな、と今は思ってます。
この二つを、同時に渡して、 そして最後に「では、この先はご自身で」と、送り出したい。
「答え」はぼくにもわからないので与えられないけど、「世界への接続手段のひとつ」なら提供できる気がします。
そして、ぼくが父性とかファルスとかと呼んでいたものの正体は、たぶん、それなのだと思います。

つまり、「混沌を構造化・言語化して、その人が自分自身の世界を、自分の足で歩いていけるようにするための"接続点"になること」であり、それ即ち「ぼくを使え。大丈夫になったら、自分の世界へ帰れ。」です。
これこそをやりたいし、少なからず求められてもいる、ということなのだと思います。

身に覚えもあります。
「あなたがいたから、今はしっかり生活できています。」「あなたがいたから、これが分かりました/変わりました。」という声。
それが、ぼくはめちゃくちゃ嬉しい。

■なぜぼくは紅白に出られないのか
自分でいうのもなんですが、敢えて言い続けますと、ぼくや、ぼくが所属しているTHE NOSTRADAMNZって、すごいかっこいいと思います。
そして、10年くらいかっこいい状態を続けています。

それなのになぜぼくは、マジョリティ的な人気を獲得するに至らないのか、なぜ「卒業生」が出るのかが不思議です。
いや、普通に実力不足とか、普通に飽きたり幻滅したりってのがあるのであろうとわかってます。(は?うるせえ殺すぞ)
とはいえさ、10年も続けていれば、そこそこもっとこう、あるでしょうよという気持ちがある。

ぼくから見た自分ですが、まず入口としてルックスがあって、そこで刺さる人と刺さらない人に割とはっきり分かれる。これは普通です。特にV系だと猶更です。
さらにステージでのパフォーマンスとか、パッと入ってきた楽曲とかも、一次情報に近いと思います。
次に、ブログやnoteや楽曲解説まで見ようとすると、それなりに時間をかけて、考える必要が出てくると思います。ここでもまた、ニーズが不一致だった場合は更なるふるいがかかります。
そのうえで、さらにさらにその奥の思考や世界観まで好きでいてくれる人、みたいに、段階を進むたびに、母数は絞られていきます。
(もちろん見た目や楽曲は別にまあ…だけど文章はめっちゃ好きです、という方がいるのも知ってますし、それはそれでいいです。殺さない。)

そのうえ、ぼくは人を自分のところに"接着"することに、あまり興味がないのだと思います。
ふつうの人気者が「ずっと一緒にいよう(≒共に夢を見よう)」とファンを繋ぎ止めるのに対して、ぼくは「自分の世界を生きろ(≒地獄に墜ちろ)」と、送り出してしまう。
接着剤というよりは、触媒のほうが機能的に近い。

だから、本当にぼくに心底惚れ抜いてくれた方の中からも、卒業生が出ます。
普通は、ショービジネスとしてやりたいのであれば、ここを必死に繋ぎ止めて累積していかなければいけないのだと思います。

でも、ぼくはそのチャンスがあったとしても、やりたくないな、と思います。
負け惜しみのように見えるかもしれないけど、それが今回見つけた自分の本音であり、むしろ、自分のやりたいことと、求められている機能がちゃんと重なり合って働いた結果なんだと思います。

ぼくにとっていちばんの成功は、「ぼくに出会って、もう自分の足で歩けるようになった人」なのだと思います。
広く浅くじゃなくて、できるだけ深く、そして送り出す、そういうかたち。

推し活的な文脈でいくと、万人に愛されるアイドルよりは、知る人ぞ知る怪しい占い師や霊能者みたいなポジションに近い。
もしくは、夢や希望を与える「アーティスト」ではなく、世界とあなたを接続する「インターフェース」に近い。


■ 結局、7歳のぼくの話だった
そして、いちばん腑に落ちたのが、ぼくの中には、ずっと、静岡県焼津市のガード下で膝を抱えて泣いている7歳の自分がいます。インナーチャイルドというやつです。
あの子が本当に欲しかったのは、たぶん、抱きしめられることではなく、「何が起きてるのか、一緒に理解しよう。世界は、ここだけじゃないよ。」という声だったのだと思います。

7歳のぼくは、「世界が怖い」「安全な場所が欲しい」と思っていました。
他方で、ぼくの詩作を振り返っていくと、今のぼくは聴いてくれる方に向かって「ここは安全だ。だから、外へ行け。」と言っています。
つまりぼくは、かつて自分が欲しくて手に入らなかったものを、今はあなたがたに渡そうとしている。渡したい。渡せるはず。そして、きっと必要とされているはずだ、と信じて歌っています。

なんのことはない、それだけの話だったのかもしれません。

■「世界と真実」の“大予言”
THE NOSTRADAMNZの「世界と真実」という曲があります。

 

 

バンドが最初に世に出した、ぼくにとって、最も象徴的な曲です。
実はTHE NOSTRADAMNZ以前からこの曲自体は存在していて、ぼくはまだ640~650歳台くらいの、まだまだ若いときに書いた曲でした。
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 見せてあげる 世界を 君の狭い世界へ 
  
  おとぎ話じゃないよ ほら 嫌いじゃないでしょう

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 似せて見える背格好 相容れずな性格も

 それはそういったお話で 酷でリアルな現実だ

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 錆びついた視界には 556 吹きかけて

 嘘みたいな真実の 目撃者になりたいね

 怖くはないでしょう 甘くもないでしょう  勇気を出しましょう

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 映してみて世界を グロテスクな世界を

 昔話じゃないよ 手が届く未来でしょう

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これ、ぼくは自分で心底ぞっとしました。 

だって、今回ぼくが時間と手間暇をかけて、皆様にもご協力をいただいて、やっとこさ掘り当てた結論と、そっくりそのまま同じことを宣言してるんです。

「きみの狭い世界に、外の世界を見せてあげる。それは、おとぎ話みたいに甘くはない。グロテスクで、リアルだ。でも、怖くないよ。勇気を出して、一緒に、その"本当"を見る目撃者になろう」。
 安全な場所から、外の広い世界へ。答えではなく、世界への入口を渡す。

もちろん、冷静に考えれば、今のぼくが、あとから歌詞に意味を後付けで付加しながら読み込んでいるだけなのかもしれないです。

でも、これを書いた当時のぼくは、自分の発達特性も、ラカンも、"安全基地"も、インナーチャイルドも、何も知らなかった。なんなら、テーマを決めて書いた曲ですらなくて、スタンダードナンバーの「Proud mary」から冒頭の「デデッデー♪」というフレーズを着想して、ぼくなりのロックンロールを作りたかった。そうしてなんとなく出来た曲に、思いついた言葉は当てはめていっただけです。

ただ、少なくとも今のぼくが何時間もかけて言葉にした構造と驚くほど似たものを、当時のぼくが何の意識もせずに、作品として形にしていた、ということは事実です。

だからこそ、いま読み返すと、めっちゃ怖いです。

たぶんぼくは、ずっと似たようなことをやってきたんだと思います。
 ただ、それが"何"なのかを、自分の言葉で説明できるようになるまでに、とても時間がかかった。 
若き日の自分が意識せずにやっていたことに、いまのぼくが、ようやく言葉で追いついたみたいな、そんな感じがしています。

■免責事項
色々書きましたが、自分自身についても、ファンについても、「世界と真実」を含んだ作品についても、あくまで見解の一つであって、そうでなければいけない理由などない、ということは解っておいていただけると嬉しいです。
ライフステージの変化とか、もう十分癒されたとか、元気をもらったとか、そういう健康的なかたちでの卒業は、それはそれで嬉しいし、卒業せずにいつまでも毎回顔を見せてくれる方の存在も超嬉しいし、折を見て実家に帰ってくる奴みたいな方も、それはそれで嬉しい。
どんな人でも居て良いのです。むしろバンドとしては一人も卒業してくれるな!!!!なんですけど、ぼく個人としてはそういう捉え方もしています、という話です。
なにせ10年やってきたので、10年で変わらないもののほうが少ないし、変わらないことはリスペクトされていいし、かといって変わることは即ち悪ではない、ということ。

ここまで読んでくださって、ありがとうございました。