すごい長い時間かけてちまちま書いてたら死ぬほど長い文章になってしまいましたね。
しかももう明日2020年10月14日は、わたくしどもTHE NOSTRADAMNZが高田馬場エリアでワンマンをやる日なのに、ぜんぜんバンド関係ない内容なのでワンマン終わってから読んでもいいと思います。
ああ、これを書き足した分さらに長くなってしまた。
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映画を観ました。
◾️「イエスタデイ」(2019)
映画館でやる映画の広告って倍くらいおもしろそうに見えるのはぼくだけでしょうか。
大画面で音が大きいだけでワクワクしてしまいますね。
ビートルズには、個人的にはアンビバレントな気持ちがあって、普通にすごい好きなんだけど、反面で憎たらしい気持ちもあり。
ビートルズがいなかったらそれこそぼくらがやってるような音楽ってなかったと思うくらい影響の大きな存在だし、確かに良いのだけど、なんとなくアートを気取った感じとか、ビートルズ自体が大きな権威になってしまってる感じとか、ジョンレノンとオノヨーコが気色悪い感じとか、あと髪型とかなんかそういう細かいとこがきめえなって感じもするんです。
置いといても、結論から言って、思ってた半分くらいの面白さでした。
や、面白いし最後まで観たんですが、単純に作者の言いたいことがよくわからぬ、というか賛同できねえって思いました。
お話としては、
「もしこの世にビートルズがいなかったことになってたら」
という話です。
世界中で、売れないミュージシャンである主人公だけがビートルズのことを覚えていて、ビートルズの曲でスターにのし上がっていくけど、ずっと支えてくれていた幼馴染のマネージャーとはすれ違っていく、というストーリー。
賛同できない点としては、まずぼくが主人公だったらそもそもその幼馴染のこと最初から好きなはずだと思うんです。
それに気づいてない風ってぼく的には共感できないというか。
自分の曲や歌を好きって言ってくれる人には、そりゃあ好感をもってしまうと思います。
逆に、幼馴染側も、だったら相手を試したり揺さぶったりするようなことすんなよって思います。
でさ、これが中高生を描いたラブコメだったら甘酸っぺえなオイで良しとされるのだけど、いい大人が周り巻き込んでそんなことですったもんだしてんじゃねえよみっともない!!という感想です。
良かったところは、ビートルズが無いのでジョンレノンが生きていて、主人公がジョンレノンへ会いに行って、会話するシーンです。
これは胸熱ですね。
ただ、実在したジョンレノンはビートルズのせいで不幸になった、というようにも捉えられると思うので、あくまで良い夢くらいの胸熱さですね。
あと、ビートルズ以外にもいくつかなくなってるものがあり、ビートルズがいないせいでオアシスもいなくなってたのがちょっと面白かったです。
あと、ビートルズがいない?!と気づいた主人公が、ビートルズの曲名やアルバムタイトルでググッてみるシーンが、ナウいなというか、多分20年後くらいに観たら、あー!こうやってググッてたよねあの頃!みたいになってそうだなと思いました。
ビートルズに何らかの感情がある人はみたら面白いかもしれません。
◾️「埋もれる」(2014)
どうやら映画ではなくドラマのようですが、つくり的に映画なので映画として観てよいと思います。
お話としては、大手食品会社の社員である主人公の桐谷健太さんが、会社の不正をマスコミにリークして一躍ヒーローにはなったものの、その影響で不幸になった人が多々発生して「正義漢ぶったヒーロー気取りの迷惑な人」というレッテルを貼られてしまい、立ち行かなくなって市役所職員として地元に戻ったらゴミ屋敷の対処にあたることになり、偶然にもそこの隣人が初恋の相手である国仲涼子さんで、再会して文字通りゴミ屋敷に埋もれた過去の謎と、その謎を抱えたうえでこれからどうするか、という内容でした。
会社の不正をマスコミにリークする、という行動は、正義感が原動力だったわけですが、目に見えてる限りにおいては誰も幸せになっていない、というパラドクスがなんともリアルというか、現実でも超あるあるな感じがします。
正義って、ぼくは最大多数に幸福をもたらすことだと思うのだけど、その最大多数が見えない存在だったりとか、もしくは本当は存在すらしなかったりしたら、正義の代償は何なのか、という。
例えばウルトラマンが現れて、どうやら怪獣と戦ってるんだけど、怪獣が人間には見えない存在だとしたら、ウルトラマンの評価はどうなるだろうか、みたいな。
たぶんただ街を破壊した悪の巨人という見られ方になると思います。
きっとウルトラマンだったら、それでも守らねばならない正義があって、そっちを選ぶと思うのだけど、それはM78星雲の考え方であって、これが日本の普通の父親だったらどうなんでしょうね。
ただ真っさらな正義を貫こうとすることが、思い描いた正義とは程遠い結果になってしまうでしょうね。
主人公はそんなパラドクスを内包したまま、更にちょっと別の角度の選択を突きつけられることになります。
まさしく「埋もれている」状態の真実を知りたくて仕方がなくなってしまい、およそ正義とは認めがたい方法を使っても真実に迫っていきます。
ただ、埋もれたそれを掘り返すことで誰がどうなってしまうのか、誰が幸せになって、誰が不幸になるのか、極限の選択です。
そしてその選択の結果をどう考えるかは観客に放り出すスタイルで作品は終わります。
というわけで、これはめっちゃ好きでした。
ぼくはこの話は、浦島太郎伝説が下敷きにあるように思いました。
物言わぬ存在を助けて、美女のいる謎の屋敷にいざなわれ、そして禁断の玉手箱を開けるのか否か、という。
狙ってか偶然か、現代における浦島太郎のアイコンである桐谷健太さんが演じているのがすごく面白いなと思います。
超オススメなので是非観て感想を聴かせてほしいです。
◾️儀式をすることについて
みなさんは、儀式ってしますか?
日本だと冠婚葬祭っていわれるものについては、人によりけりですが、ぽつぽつ参加する機会があったりしますよね。
ぼくも、友達が結婚ラッシュのときはご祝儀貧乏だなあと思ったりもしたけど、祝いたいと思って参加したし、参加してよかったなと思ってます。
結婚式に関しては、近年はスマ婚なんて言葉もあったり、式を挙げない人も増えてますよね。
でも、式をするしないの選択自体が、今後の夫婦の幸福度に影響するかというと、しないとぼくは思います。
そもそも夫婦の幸せって測るタームが人生単位なので、測ること自体が超難しいと思います。
でも、結婚式にお金をかけることって自由だし、かけないのもまた自由です。
それがぼくの考えなのだけど、この広告を見てぼくはなんとも言えない気分になりました。
が、感じた違和感は、葬儀や法要をやることについて、ぼくの見解と世の中の見解には差異がありそうだなというものでした。
このツイートに連なったツリー内では議論になっていて、概ね主に
「仏教や信仰への、ひいては死者への冒涜だ」
という意見と、
「金をむしりとる葬儀業者や寺院が悪い」
という意見が多いように思います。
これは両方間違ってないと思うのだけど、大切なポイントが抜けているとも思います。
それは、そもそもなぜ葬儀や法要をするのか、ということです。
風習だから、といえばそれまでなんですが、その風習にもやる理由が元々あるはずだと思うんです。
例えば、バンギャルの皆様がライブ中に手をハタハタさせる風習があるじゃないですか。
あれって、元々頭を振っていたのを簡略化して手でやるようになったと言われてますよね。
だから、頭を振るヘドバンに対して、手を使うのは手バンとか言ったりしますよね。
これ、それを知らない人が見たら意味がわからない動きなんだと思います。
あとは、例えばぼくはスターウォーズやウルトラマンが好きで、その物語やそれに対する見解なんかが、自らの生きるうえでの考え方とかにもすごく影響しています。
だからフィギュアとかプロップレプリカとか映像ソフトとかがつい欲しくなって買っちゃうんです。
この感覚って結構広く共感してもらえると思います。
好きな映画とかアニメとかバンドとか、あるコンテンツが好きになるとそのグッズがほしくなりますよね。
ぼくらが仏教と呼んでるものって、2200年前のインドあたりにいたガウタマシッダールタさんの物語が、中国経由で日本に入ってきて、日本向けにアレンジされたコンテンツだと思うんです。
誤解を恐れずにコンテンツとして考えます。
そしたら、仏像ってフィギュアだし、経典てストーリーブックなんじゃないかと思うんです。
大仏とかってのもあるけど、仏に限らずでっかいフィギュアってありますよね。
ガンダムとか有名だと思います。
そう考えると、大乗仏教って、日本で超昔から人気があるコンテンツなんだと思うんです。
スターウォーズ好きな人がいて、例えばジェダイ式葬儀とかが実現できるなら需要あると思うんですけど、仏教に関してはお上がバックアップしてた経緯もあって、単純にスターウォーズとかよりも強く広く生活に入り込んでいったんだと思います。
ただ、古くから何代にも渡って受け継がれる間に、絶大な人気があることも相まって、だんだんストーリーの内容や意味や教示が薄れていって、今ではとりあえずカタチだけやればよい、というかカタチしか周知されない、という状況になってるんじゃないでしょうか。
特に日本ではオウム事件以降、更に宗教自体にアレルギー反応がおきやすくなって、「カタチ」すら避けられるようになった気がします。
でも、一回宗教云々とかぜんぶ取っ払ったとして、大切な誰かの死に対して、生きてる人はどう対処すればいいのでしょうか。
例えば明日、大切な誰がが死んでしまったとして、あなたは本当に何もしないでいられるか否かという。
仮に、手を合わせることも、花を手向けることも「してはいけない」となったら、結構しんどいと思います。
というのも、宗教をもたなかった筈の原始人が、仲間の死体のそばに花を手向けた形跡が発掘されたりしているそうなのです。
つまり、「弔い」とはそのくらいヒトにとって根源的な行いなんだとぼくは思うのです。
なんなら、相手が死んでるから、花を手向ける行動が「弔い」という呼び名になるだけで、生きてる相手に同じように花を贈ったら、どうなんでしょうね。
お誕生日おめでとうとか、結婚おめでとうとか、勤労感謝ありがとうとか、傷つけてしまってごめんなさいとか、早く怪我や病気を治してねとか、
推しへ素敵ですとか、あなたを愛しています、とか。
そういう感情を相手に伝えたいのに、いくら言葉にしても足りないくらいの想いってあると思うんです。
それは尊いことだし、別に珍しいことじゃないと思うんです。
だから、花を贈ったり、千羽鶴を折ったり、なんかプレゼントしたりするじゃないんでしょうか。
で、贈られたほうも嬉しいと思うんです。
ぼくは嬉しい。
何が嬉しいって、そう思ってくれる気持ちが嬉しい。
逆に、1ミリも嬉しくない人ってそんなにいるんだろうか。
そういう気持ちをどう伝えたらいいのか、生きてる場合でも悩ましいのに、相手が死んでる場合はどうすればいいのかという。
で、一応、亡くなった方に何かしてあげるときの作法として「こうしてあげればオッケー」という代表的な方法が、今の日本では仏式の法事や葬式なんだと思います。
亡くなった方に対してはお経をあげてお線香をあげて花を手向けましょう、というのがポピュラーな作法であって、母の日といえばカーネーション、というのと同じことだと思います。
逆に、母の日に感謝を伝えたいとき、必ずしもカーネーションじゃなくたっていいと思います。
他に好きな花とか、もしくはお菓子とかケーキとか、お母さんが喜びそうなものはなんだろうって考えますよね。
なんなら0円の肩叩き券でも、一生の宝物になったりするわけで。
100円のカーネーションでも、100万円のカーネーションでも、それは贈る側の自由だと思います。
母に感謝を伝えたい、が先であって、金額は手段でしかない。
じゃあ100円のカーネーションってダメだと思いますか?
ダメじゃないと思います。
100万円のカーネーションなら必ず全員喜びますか?
そういうわけでもないと思います。
同じように、亡くなった人に感謝を伝えたいときは、必ずしも仏教じゃなくていいし、神式でもキリスト教式でも、なんなら自己流でもジェダイ式でもいい。
どうしてあげたいかが重要であって、してあげたい相手じゃなければしなくていいとすら思います。
逆に、高いお金を払っても、派手な葬儀をやってあげたいとか、立派な戒名をつけてあげたいとか思うのも自由です。
葬儀社や寺院がそれ相応のサービスを提供していればいいだけですよね。
逆に一切お金かけないのも自由。
生前の贈り物と同じように、死後の贈り物にも本当はすごく幅広く選択の自由があるはずなんです。
してあげたい相手に、してあげたいことを、できる範囲でやればいい。
なんとなく地域とか風習とか周りがどうやってるかとか親族の意見がとかでややこしくなりがちだと思うんですが、根っこは生前の贈り物と同じように考えるのが自然だとぼくは思います。
その観点に立ったとき、生鮮食品の半額パックを思わせる容れ物に、位牌が入ってるって、どういう意味合いを持つのでしょうか。
そもそも位牌をWikipediaで調べるとこう書いてあります。
魂をパック入りの位牌に入れてあげたら、あの人はきっと喜ぶだろうな♪
という人っているんでしょうか。
あんまり居ないと思います。
ぼくが仮に弔われる側だったらそんなんで全然構わないし、というかぼく自体は祀らなくていいから、残した作品と、それ作った奴天才だろ!という情報だけを後世に残したい派だし、むしろ可能なら永遠に死にたくないし、やるとして冠婚葬祭金かかりすぎ問題も確かにあるので、安価だよ!ということを謳い文句にするのは、それはそれでいいんだと思います。
ただここで言いたいのは、お金とか手間とかの話より、誰かに何かをしてあげたいって気持ちが先にあるべきなのに、なんかそこがゴッソリ抜け落ちてる感じがしゅる!!という話です。
以上でございます。
読んでくれてありがとうございます。
冒頭の注意を無視して早々に読んでしまったあなた、エリアで武装して待ってます。




