忘れないでね わくわくする その きもち | 君を殺しても

君を殺しても

THE NOSTRADAMNZ Lucifer K nemoto

こんばんは。ルシファーです。

マジクソ長いので頑張ってほしいです。

先日はレコ発にお越しいただきましてありがとうございました。

今年は特にマツタケワークスとチキンハットと、生涯忘れないような素敵なオモイデがたくさんできた年だったので、この3バンドで年の瀬にイベントができたことがとても嬉しかったです。

自分たちも含めて全バンド、曲も歌詞も出で立ちもステージングもめっちゃ好きです。
共通してることはなんだろうと考えると、ぼくは「少年性」にあるように思います。
青春を思わせるというか。
みんなロック少年のままの感覚があるひとたちだと思います。
ぼくは、自分の本当の青春時代に、それを謳歌しまくっていたなあという自覚が今はあるものの、当時はそれを素直に受け止められていなかったんです。
でも、先日のステージや楽屋での他愛無いやりとりとか、フロアにたくさん笑顔があったこととか、すごく楽しかった。

普通の大人になってしまったと思っていたけど、普通はこんな体験できないんだから、ぼくはここにいてもいいんだ、みたいな、エヴァ最終回的な感覚がありました。
そのへんは思うところがあるので、またそれはそれを深掘りして書く機会を設けようと思います。
音楽をやる意味みたいなこと。

で、今回出したシングルの内容にも、自覚していなかったけどそれにリンクすることが反映されていることにも気づいたので、深層心理っておそろしい!

というわけで、ウズウズしていた曲解説を解放するのだ!

◾️装丁


絵柄は見ての通りでしかないんですが、かっこいいですよね。

原罪論は過去のアートワークからの流れというか、らしさがある表情にしました。
家族写真風の、もしくはこう、新撰組の人らとかが撮ってそうな集合写真をずっとこの3人で撮りたかったんです。
元ネタというか、三人組のそういう写真かっけえなと思ったのはライムスターのジャケットですね。
中身もめっちゃいいですこのアルバム。
オススメです!!
とにかく、ぼくがかんがえたひみつそしき!!!!みたいな空気感が出したかった。

星のしっぽは、ナチュラルな質感のカラー写真がジャケットになったことは前例がないので新鮮ですよね。せっかく紙なので、80年代末くらいのイモみたいな邦楽バンドの垢抜けないレコードジャケットをイメージしました。
でもぼくがiPhoneを持ってたり、窓の外に星が降り過ぎて滅亡してく感じになってたり、それがどう見ても合成であるあたりが、我々のスタンスをうまいこと表しているなと思いました。
いや、勝手に表れたのだけど。
あとね、窓にかみむらくんの表情がちゃんと反射しているのがこだわり。
これごと消してしまうほうが作業はラクなんだけど、一手間かけて映り込みを残していますのでよく見て感謝してください。

ちなみにどちらの写真もこのために撮ったものではないのだけど、その為に用意したかのようにハマっていて、すごいなあと思っています。

歌詞と盤面はお買い上げの皆様はお解りかと思いますが、円環構造になっています。
これは、歌詞の内容が巡っていたからですね。
これも、そうしようと思って書いたわけではないのに、そうなっていたので、すごいなあと思っています。

両A面なのは、単にシングルにしたい曲が2曲あったわけですが、ぼくらは連続リリースも同時リリースもやったことがあるのです。
あとどうするかっつったら、ラルクアンシエル的に考えるとNEO UNIVERSEとfinaleが両A面だったことを思い出さざるを得ないじゃないですか。

しかも当時、ラルクは両A面ではなく「ダブルAサイドマキシシングル」という触れ込みだったことがすごく印象に残っていて、みなさんもお友達に勧めるときに「あっ、両A面なんだ?」と言われたら「うん、両A面というよりはダブルAサイドマキシシングルだけどね」と言って地味にキメ顔をしておいてほしいです。

もちろんしなくても構いません。
内容にまいります。

◾️原罪論
えんどうさんがえらく壮大なイキフンの曲を作ってきて、しかもパンクというよりはメタルっぽさすらあってめちゃくちゃ意外でした。
でも超絶かっこいいと思ったので、みんなでスタジオで組み立てをやって、歌詞を当て、同期モノもクラシック風とかタンゴ風とかケルト風とか色々試した結果、いま皆様のお手元に届いた形へとあいなりました。
ちなみに仮タイトルは「ウォウウォウ」でした。
いま予測変換が一発で出てびっくり。

歌詞は、まさしく原罪について考えたものです。

サタニズム的に、現実や実存と「自分で考えること」について理解しようとするとき、やはり宗教への考察は避けられませんでした。

宗教とか教典て、いわば、より幸せに生きるための思考のマニュアルだ、とぼくは思っています。
そうしてマニュアル的に、降りかかるあらゆる事象に対応できるスキームとして機能するように、思考方法が体系化されたものを、思想と呼ぶんだろうな、とイメージをしています。

そう考えると、聖書というのは人類最古にして最大の、優秀な思想マニュアルのはずなのです。
だからこそ、色々解釈を拡げながらも、一応はあれに準じた認識をして生きれば、考えるカロリーが減るわけです。
例えば、神を信じ祈れば救われる、みたいな。
でもそれは思考停止だよね?というのがサタニズムの立場なわけです。

でも、神を信じれば救われると思い込んで、思考を捨てて生きることって、個々の幸福を考えると、実は理にかなってると思うんですよね。
だって、思考しなければ、不幸なことも考えなくていいのだから。
不幸が降りかかってきたら、悪魔のせいにすれば済んでしまうし、そしたら悪魔払いの儀式をすれば、その人の中では解決するわけだし、悪いことをしてしまったら神に懺悔すれば赦されるので、罪悪感を感じることもない。
すごくよくできたシステムだと思います。

はたまた、キリスト教はユダヤ教から派生したものなんだけど、単純にイエスさんの言ってることって、いまの感覚からしても至極真っ当というか。
つまり、各々が無駄にいがみあったりしないで、仲良く暮らそうぜ?ということでしかなかったりするんです。

でも、いつしかそれがまたそれぞれの時代によって様々に解釈され、中には原理主義的に凝り固まってしまったりして、同じ旧約聖書から始まっていても、キリスト教とイスラムの間にはいざこざが絶えないように見えます。
911やイラク戦争の報道を見ていて、なんて不幸なことだろうと思っていました。
普通の市民感覚として。
いまもそれらは、形を変えて、世界のどこかで続いているわけで。

つまり、ヒトに起こる不幸が何によるものかというと、他の動物に比べて知恵があるからに他ならないと思うのです。

だから、知恵の実を食べてヒトに知恵をもたらしたアダムとイヴの行いは、まさしく原罪であり、すべての不幸の始まりなんですよね。

でも、ヒトは幸せになりたいだけなんです。
自分や、大切に思う人の幸せを願ってやまない。
そうして祈るように組んだ両手には力が入りすぎて血が滲むし、幸せを奪おうとする誰かに投げつけようと石を握る手にもまた、同じ血が滲んでいて。
その誰かもまた、幸せを願って、ときには誰かの幸せを奪う結果になっても、罪を犯しても、幸せになろうとすることをやめられないという。
世の中良くも悪くもその連鎖しかないように思います。

愛し合っているはずの男女でさえ、男性は目の前の快楽に抗えず、女性はそれに涙を飲んで応えざるを得なかったりしますよね。
生殖において、たまたま男性は能動的で、女性は受動的な仕組みに、物理的にそうなってしまっているだけなのに。
でもそれが種の保存と生存に有利だから、そういう性質の遺伝子がずっとずっと連なって受け継がれていて、今もそうなってるわけですよね。
だから男女は対にならざるをえない。
このたった一対の男女の間にさえ、なんとも言いがたい噛み合わなさのようなものがあって。
そんなの、人類ぜんぶがまるっと幸せになることなんて絶対無理じゃないかと、ぼくは思ってしまうのです。

そういった、幸せを希求してきた人類とは、なんて悲哀に満ち満ちた存在なのだろう、ということを思って書いた歌なのだと思います。

でも、嘆いていても、知恵を使って、どうにかこうにかできるだけ、うまくいくように物事を考え、そして考え続けなければならないとぼくは思っています。
知恵を失って、言葉と思考を捨ててしまったら、我々は猿と変わらない存在になってしまうのだから。

ぼくは、恥ずかしい猿になるよりは、神に背いても悪魔でいることを選びます。

知恵を絞ってもどうにもならないことからは、ロックンロールを踊っているあいだだけ解放されるのです。
それが、ぼくらが音楽をやる意味のひとつだと思います。


◾️星のしっぽ
とはいえ、ミニマムな個人の生活の中では、腹が立ったり、疑心暗鬼になったり、すっ転んで怪我をしたり、それこそどうしようもないことに押しつぶされそうになることって多々ありますよね。
ぼくはあります。

流れ星に願いをかけたとて、叶わないとわかっているし、そもそもあの瞬間に3回願い事を言うことなんて無理なので、あの「流れ星に願いをかける」というオマジナイは、「願いとはそもそも叶わないものである」という先人の知恵な気がしてしまいますよね。
ぼくはそう思います。

そんな叶わない願いなんて、そもそも持たなければよかったのに。

何か不幸を感じると、ぼくはその不幸の原因を考えます。
すると、どんな不幸も、原因を遡ればアダムとイヴを通り越して、宇宙の始まりまで遡らなければいけなくて。
だってぜんぶなんにもなかったら、不幸なんて一個もなかったはずなんですよ。
逆に、宇宙が始まった瞬間から、どんなにむごい不幸でも、理不尽なことでも、起きることが決まっていたことになります。
そうでしょう?これ真理だと思います。

少なくとも我々は、愛も夢も願わなければ、血眼になってそれを希求する必要もないし、それによって不幸になることもないんです。
今日も良いことがなかったなんて、夕日を呪うようなこともしなくていいのです。
そんなどうしようもない日々から解脱するには死ぬくらいしか方法がないように思うのだけど、それも怖くて選べない。

仏教とかは、そういうアップダウンを避ける思想体系になっているイメージがあります。
だから煩悩だの俗物だのを避けて見ないようにするという。
それが幸せなのかは甚だ疑問だけど、確かに不幸は少なくて済むのかも。

でも、そうして足元と近い未来ばかり見るのに疲れたりして、ふと上を見てみると、意外と流れ星って見えたりするんです。
見えた気がする、くらいの一瞬。
それでも少なくとも、わあすごい!とか、きれい!とか思いますよね。
ぼくは思います。

そんなふうに、叶わないはずの願いでも、その片鱗というか、しっぽくらいは掴めそうな気がするときがあるんです。

それは、時空の果てのような、何万光年の距離の、とおいとおい光かもしれない。
それでも、もしどこかで会えたなら、しあわせになろうよって思ってしまうんですよね。

ヒトには知恵があるから、3大欲求を満たすこと以外にも、自分で決められる幸せがあるはずで。
それは神様が決めるものでも、悪魔がほだした妥協でも、はたまた自分の思い込みでもなく、流れ星のしっぽのようなつかみどころのない一瞬の煌めきの中に見出すことができるのではないでしょうか。

例えばロックンロールのような、片思いのような、ひとひらの透き通ったときめきのようなもの。

それを想えることが、なんとなく自由の意味するところのように思います。

でもヒトって欲深いもんで、ロックンロールをもっと楽しくでっかい音で!とか思ってしまうし、恋をしたら手に入れたくなってしまうし、そのために知恵を巡らせたりするので、原罪論に戻ってしまうという。

そういう円環構造があると思います。

曲はぼくがデモを作って、細かいところはみんなで詰めてった感じでした。
なんかこう、初期のローリングストーンズらへんのレコードとかっぽいミニマムな感触のロックンロールがやりたかったんです。
ブルースっぽいギターリフとタンバリンは、ぼくの中でそれっぽさの象徴なんだと思います。
そこにえんどうさんがプワーって感じのシンセを入れてきて、急にすごく流れ星感が出て素敵だなと思いました。
ノストラマジックのひとつですね。

メロは、特にAメロはどっかで聞いたことあるなあと思ったらhideさんのMISERYにめっちゃ似てますねコレ。
珍しく意図してパロッたわけではないのですが、思えば歌詞のテーマ的にも重なる部分が多いので、なんというかやっぱり影響ってすごいなって思います。

◾️いっつ・おーらい!
そんな 原罪論⇄星のしっぽ のような、大小の夢を抱いては罪に溺れる無限ループ地獄にヒトは陥らざるを得ないわけですが、そこに生まれてきた子供たちに、ルシファーさまが本当に本気で贈る歌です。

お解りのとおり、原曲は前作「MOTHER EP」に収録の「Smallchange」でございます。
思えばこの曲も、今回のシングル2曲と同じテーマなんですよね。
どうしてこうなった!!!!という。

この曲の前半部分をルシママが褒めてくれて、音楽をやることに一抹の後ろめたさがあった身としてはすごく嬉しかったんです。
でも、ファッ○オフ!!とかは子供には聴かせられないね?とも言われ、たしかにと思いました。

スモールチェンジは、純粋無垢で素直な可愛い子供だった自分や皆様が、どうしてこう、原罪を背負いながら星に祈るようなことになった、という意味もあって。
だから、今こどものひとたちに向けて、ぼくの身勝手な願いを込めて書きました。

台風のときに作ったんだけど、作りながらオイオイ泣けてくるという初めての体験をしました。
聴いて解ると思いますが、完全に歌のおにいさん的イメージに振り切って歌ったわけです。
まあ正直笑ってほしくて、というか、普段ルシファーさまとか自称している中二病のおじさんが、こんな歌い方しているのは面白いに決まっていると思いました。
で、録音したものをミックスしながら、ファルセットとかはやっぱりV系的なクセが抜けてないなーなんて思いながら結構機械的に作業してたんだけど、中間部あたりで泣けてきてしょうがなかった。

一体何をやってるんだ俺は、と。

そして、自分も本当にこどもだったんだなあと思ったし、この曲に書いたことは全くおふざけではなくて、心から思ったことを、できるだけ伝わるように、いつか思い出してくれたら意味がわかってハッとしてくれたら、すごく幸せだなあと思います。

未来に生きていく子供たちにこそ、肉食動物も草食動物も、哺乳類も爬虫類も鳥類も魚類も、海に生きるものも陸に生きるものも、みんなが最大限にめいっぱいしあわせになれる世界をあきらめないでほしいのです。

立場の違いや見た目の違いや生き方の違い、そして言葉や思考の違い、すなわち多様性というものは利害を生むけれど、それでも多様なみんなが、多様なみんなの幸せを、互いに願って、ひとつの輪になって踊ったら、なんかめっちゃ素敵なことが訪れそうだなと思うんです。
イッツアスモールワールドで描かれているのってそういうことだと思うのです。

それを人類は、創作物の上でしか体現できていないけれど、ヒトが考えつくことは必ず実現できるっていうじゃないですか。
だから、ぼくが生きている間は無理かもしれないけど、少しずつでも実現に向かっていくように、できればその一旦を担えるように振る舞って生きていきたいと思う。

それが、この歌を聴いたこどものひとたちの時代に実現できなかったとしても、ビー玉の透明さとか、シャボン玉が飛んでいく様子とか、キラカードやCDのキラキラした感じとか、ジュースやケーキがおいしいこととか、とてもいい天気でそらが青いこととか、桜やキンモクセイが季節を告げることとか、パパやママが笑ったとか、そんな素朴なことすらワクワクして嬉しかった気持ちを忘れないでほしいし、それをまたそのこどもたちに経験させてあげてほしい。

そんな気持ちを忘れない心と、その気持ちを誰かに伝えられるような言葉を、ぼくが居なくなっても、ノストラダムスの音楽が届かなくなっても、ずっとずっと紡いでいってほしい。

大切な誰かを笑顔にしてあげられるように、げんきに大人になってほしい。

そうして、ヒトが本当に人間として生きられる成熟した社会システムが形成されていって、知らない人や苦手なことが怖くないような、そんな世界がいつか遠い遠い未来にでも訪れますように。

いつか、人類の贖罪が終わりますように。

それまでは、どうしようもないから、ぼくらが最高のロックンロールを演奏するので、皆さまに歌って踊ってほしいです。

以上でございます。
いい話だなあー!!!!

もちろん、これはぼくのいち感想であって、どんな解釈があってもいいし、どこかでそっと皆様の感想や解釈を教えていただけたら嬉しいです。

それでは、さようなら。