言葉に ならなくても いいから | 君を殺しても

君を殺しても

THE NOSTRADAMNZ Lucifer K nemoto

夜だと思ったら朝、朝だと思ったら昼間、昼間だと思ったら夜、そしてもう昼過ぎ!そのまま死んでいくルシファーです。

今日は!おギグだ!

2019/05/11(土)

油断大敵火がぼうぼう

 

 [PLACE]渋谷DESEO

  [OPEN/START]16:30 / 17:00 

  [TICKET]adv¥2,500 / day¥3,000 (D代別)

  [ACT]THE NOSTRADAMNZ / Mr.ChickenHat Timers / 曖昧中毒 / マツタケワークス / LAURANT

 

 [TICKET INFO]

  発売日:4/1(月)〜

  1.イープラスチケット(A!〜)  http://eplus.jp

  1.ローソンチケット(A!〜) L:70602

  2.当日券


ベビシの赤ちゃん(おじさん)大集合だわいわいって感じのメンツで中指立てていくスタンスでやりますんで夜露死苦ゥ。



平成を振り返りたみにまだ収まりがつかないのでそれはまた今度にするとして、ブログリクエストにお答えします。


◼️お題

特にSNS上での、「やさしい言葉の使い方」や、「言葉を使う上で気をつけるべきこと」「大切なマナー」について、ルシ様が文章を書く上で気をつけていらっしゃることを教えてください。


◼️回答

これは、本当はぼくが教えてほしいくらいの難しいお話ですが、今現時点で自分がどう考えているかを整理したくもあり、徒然なるままに書いていきたいと思います。


そもそも言葉ってなんだろう、ということについては、ずっとずっと考え続けています。

ヒトは言語で認識し、思考し、コミュニケーションをとります。

ぼくは、ヒトが生きていく上で、いかに言語が占める重要性のウエイトが高いかが、いまいち認識されていないように思います。

とはいえ、難しいのは、言語ってそこまで重要ではない、という局面も、他方ではあると思っています。


ぼくは、中長期的には、やはり言語は重要だと思います。

正確にいうと、語彙力や文章力を含めた、言語能力はできるだけ高められるほうが、豊かに生きられると思っています。

生きるうえでのストレスも減ると思います。

なぜなら、より深く思考し、分析できるようになって、ソリューションまでにかかる時間が減るからです。

早い話が、筋肉がたくさんあるほうが力仕事がラクなのと同じように、言葉をたくさん持ってるほうが思考がラクなのです。

だからラクに生きられる。


子供の頃、語彙が大人より少なかった状態で考えてわからなかったことが、大人になればわかることって多いと思います。

これは、経験や知識によるものなのですが、経験や知識をどうやって自分の思考に置き換えているかというと、言語化することで自分の血肉としているのだと思います。


例えば、ことわざや格言は、そうした経験や知識を短くてポップなフレーズにまとめて認識しやすく、出し入れしやすく、拡散しやすくした姿だと思うのです。

先人の経験によって自分の思考が省略できる、便利なツールですよね。


しっくりくる言葉が見つかると、それだけで結構スッキリしたりもしますよね。

それは、理解に一歩近づいた安心感からのように思います。


だから、人生単位での、比較的長いスパンであれば、言語能力の重要性を低く見積もらないようにしよう、とぼくは考えます。



他方で、短期的にはどうかというと、実は、あれもこれも重く受け止めたり、深く考えてしまわないほうが良いことが多いように思います。


これは、発言するときも、受け手になるときもそうです。

特に、受け手になるとき。


発言するときは、何かを言うたびに深く考え込んでしまったら、単純に言葉が永久に出なくなってしまいます。

何も考えずに発言するのも良い結果に繋がらないことが多いですが、必要以上にあれやこれや考えてしまうのが、いわゆるコミュ障というやつなのだと思います。


ぼくもMCでよくどきまぎしてしまうのだけど、あれはコミュ障だからですね。

でも経験上、受け手側(つまり皆さま)のリテラシーは自分があれこれ考えなければならないほど低くない、ということもわかってるので、うまくはなりたいけど、あまり気にしてもいません。


重要なのは、何を言うかそのものよりは、どこにいる誰に向いている言葉なのかを明確にしておくことだと思います。

SNSで、特にツイッターなどでトラブルが起きやすくなる要因は、発言をどこに投げるかを明確にしていなかったり、受け取る側が投げられた方向を見誤ったりすることで起きることなのでは、と思います。


発言そのものは自由であるはずで。

あれはダメこれはダメというのは非建設的ですね。

対面の会話は投げる場所が相手でしかないので、どう伝えるかはある程度、相手との関係値とか、相手の人格とかは最低限考慮に入れるべきだとは思います。


なので、不特定多数に投げられた言葉については、重く受け止め過ぎてしまうと無駄なストレスがかかってしまいます。


まさしく先日かみむらくんのツイートに無用に腹を立ててしまったのは、そのあたりを頭では理解していたにもかかわらず、ナーバスに捉えてしまったことが原因でした。


さらにさ、ぼくアレ見た日は一日中スターリン聴いてて、しかもぼくさ、正直直前にxvideo(みたいなやつ)観てたんだよ。

だから、彼がぼくだけに向けたわけじゃないにもかかわらず、謎の被害妄想心理が働いたんだよ。

ぼくが悪かったんだよ。死にたい。


まあ致し方ありませんでしたね。


あと、現代文の授業で大岡信さんの「言葉の力」という文を読んで、あれにはすごい感銘をうけて、今も心に留めています。

http://jukuhinokuruma.blogspot.com/p/blog-page_2.html?m=1


要約すると、言葉は、見えない膨大なバックボーンの一端に過ぎない、ということだと思います。

だから、SNSや掲示板で見ず知らずの人の発言に無用に腹を立てるのは無駄だと思っています。

発言者の人格や立場や見てくれが、だいたいにおいてわからないわけだし。

なので、立場を明かさずに無用に腹を立てさせるのも等しく無駄だと思います。


そういったこともあるので、言葉を受け取る側も、どんな状況であれ、どんなに刺さったとしても、ネガティブなレスポンスをする前に一晩置いてみるべきだと思います。

そして、無用に深読みしないことも大事ですね。



まとめますと、ぼくが意識無意識に気をつけていることは、

①どこに向けられた言葉なのか解るようにする

②どうあれポジティブに帰結するようにする

③無用に深読みしない(させない)

の3つである気がします。


堕天使(人間)なので、例外は多々起きるんですけどね。


そして、言葉の使い方そのものは、口頭で読み上げて違和感のないようにしている気がします。

ビジネス的なシーンとか、論文とかではもっと堅い表現をしたり、注釈を入れたりするのだけど、ブログやツイッターなどは口語に近いニュアンスにしていますね。

普段ぼくが使う言葉遣いに近いというか。

喋ると一人称はだいたい 俺 になっちゃうんですけどね。


文章で ぼく にしたのはつい最近ですね。

少年性と育ちの良さを演出しています。


ぼくの文章を、長いけど読みやすいと言ってくれる方がそこそこいらっしゃって、それは頭の中で音にしたときに、話し言葉として通じるようにしているからではないでしょうか。

元々テキストを目で追うこと自体が苦痛なわけではない人なら、そんなにストレスなく読める文体にはなってるんじゃないでしょうか。


お勉強としての現代文の授業も何故か大好きだったので、それはすごく役に立っていると思います。

主語と述語があって、それぞれに対する修飾語があって、補語があって、一文はすごく長くなっちゃうんですが、含めた主部と述部がどこなのか、文節がどこまでなのかは、自然と意識しているように思います。


それでも昔受けた塾講師のバイトは受からなかったのでダメダメなんですけどね。


あとあれだ、英語の授業も役に立ちました。

日本語よりも分析的にやるじゃないですか。

SVOCとかって。

現代文や国語の授業ってそのへんちょっと分かりづらいというか、母国語は口語で使い続けて生きてきて、それを分析されても例外が結構あるせいでしっくりこなかったりしたんですよね。

英語だと、元々異質な言語だし、簡単な単語や短い文でやるし、だいたい日本語訳が併記されてたので、却って「あ、日本語ってそうやって組み立てられてるのか!」みたいに思ってました。


あとあと更に、よく言われる「5W1H」はめっちゃ大事だと思います。

when いつ

where どこで

who 誰が

what 何を

why なぜ

how どう

の疑問詞に対応する情報が入っているかです。


例えば、桃太郎の話とかって状況だけ冷静に見るとハチャメチャの極みというか、超ぶっとんだSFファンタジーなんだけど、子供でも理解できるのは、絵も併せてだけど5W1Hがきちんと網羅されてるからだと思います。

when 昔々

where あるところに

who おじいさんとおばあさんがいて

what それぞれ 川と山に仕事に行って

how どんぶらこっこすっここと

why なんでだよ!!!!意味わからん!!!

みたいな。


スターウォーズも、リアリティに妙な疑いを持たずに見られるのは冒頭の「long long ago,far far away」の効果だと思います。


ぼくは「君の名は」がダメだったんだけど、あれは現実の東京と身近なデバイスで素っ頓狂なロマンスが発生してたので、そんなわけあるはずがない、となってしまいました。


SNSの「〜なう」は発明ですよね。

「東京なう」で「今、私は東京にいます」が伝えられるという。

写真をつけることで、それに対する喜怒哀楽とか、東京のどこなのかとかの付加情報も伝えられるので、コミュニケーションがスムーズですね。


ただ、テキストだけ、言語だけでのコミュニケーション力は、スマホ・SNSネイティブの方々が増えるにつれて、落ちていくのではないかな、という一抹の危惧を感じたりはします。

ぼくらと、親や祖父母と比べても、字を書く能力とかは確実に落ちてると思う。

みんな字うまいもの。

YouTubeとか見てても、ブログで書けるようなことをわざわざ動画にしているものが結構あって、それって「動画」という、テキスト以外の副次情報がないと、読み取りがしんどいタイプの人類が既に一定数いるんだろうな、と思ったりします。

それも、生物の進化の取捨選択なので、良し悪しではないと思うのだけど、人類の最大の武器は言語だと思ってるおじさんとしては、ちょっと怖い気もしてしまっています。


変化を恐れて「昔のほうが」「俺らの頃は」みたいなことをいうおじさんにはなりたくないなーと思うんですけどね。



というわけで、なんか質問者様の知りたかったところにキチンとハマってない感があって恐縮オブ恐縮なのですが、以上とさせていただきます。



ぜんぜん関係ないけどさっきかみむらくんが教えてくれた歌がサイコーだった。

全男子が共感すること間違いナシ。

知らなかった自分を恥じるレベル。

(日本語字幕・歌詞付) (1Mbps)  【PV】 I Just Had Sex (feat. Akon)
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