「ど近眼」が年々進む中、エキセントリックな母親は、「近視は治る」という内容の本に感化されていました。
母は、目を閉じて太陽を見ると、近視が治るというページにくぎ付けになり、毎朝そのトレーニングをさせられるようになったのです。
当然、目を閉じて太陽を見ても「ど近眼」は治りません。
学校では黒板が見えず、先生の顔も見えず……。
友だちの顔も、ぼんやりとしかわからない毎日でした。
習い事は強制的にさせられ、学校から帰っても習い事の毎日。
なにをしても気持ちが晴れることはありません。
湧き上がるのは、「死にたい」という想いだけ。
のちに退行催眠をしてわかったことなのですが、この「死にたい病」は、1つ前の過去に原因がありました。
それは、わたしの魂の記憶から湧き上がる感情だったのです。
前世で体験したストーリーを知ることで、現在のトラウマを治す治療です。 前世療法とも呼ばれます。 これは前世で起きた出来事が、いまの自分に大きな影響を与えているとする概念が根底にあります。前世で体験した苦しみや業が、現世でカルマとなっているケースが多いです。
その前世について、少し触れましょう。
かつてのわたし、「菊ちゃん」が生きたのは、江戸の末期から明治にかかるくらいの時代です。
みかんが多く実る、裕福な家で育った菊ちゃんは、失意の中病気で亡くなりました。
わずか、12歳ほどで亡くなった菊ちゃんの無念が、わかるでしょうか?
もっと楽しいことや、幸せをたくさん感じたかったことでしょう。
人は死なない存在なのです。
繰り返し生まれ変わり、自分が決めてきたシナリオに沿って、学び続けるのだと感じました。
だけど、輪廻が多い人であるほど、苦しい体験や辛い体験も多く、それが魂に記憶されてしまい、感覚的な記憶から苦しむことも多いのです。
その影響から、現世に生まれ変わったわたしは、死にたがりさんになったのでしょう。
毎日、「次の休み時間に窓から飛び降りて死んでしまおう」などの想像をしながら授業を受ける、根暗な女の子ではありましたが、不思議と成績は中の上から上の下くらいでした。
そんな中、結局死ぬこともせずに、中学生になりました。
ひと学年40名程度の田舎の小学校から、いきなりひと学年360名もいるマンモス学校への進学です。
ご想像通り、なかなか馴染めずにいました。
友だちもほとんどできませんでしたが、基本的にひとりでいても平気なタイプだったので、より孤立化。
ほかの子みたいに、トイレにひとりで行けないとか、お弁当も誰かと食べないと悲しいということも無く、ひとりは楽だ、清々すると思ってしまう、可愛くない女子生徒でした。
そんな女性的な団体行動取れないわたしは、活発な女の子のイジメのターゲットになりました。
下駄箱の靴や運動服、ときには制服を隠されたり、あることないこと悪口を書かれたノートを回覧板のように回わされたり。
直接的なことだと呼び出しされたり、カマをかけられることも。
ひどいときは自転車パンクさせられたり、「ブス」と罵声を浴びせられたりすることもありました。
一番ひどかったのは、中学2年生のときです。
学年総代として、卒業生に「送辞」を読むという大役を任されたことがきっかけでいじめがエスカレートしていきました。
今思えば、そこまでひどいいじめにあっていたのであれば、学校を休むなり、転校すれば良かったのですが、そんな選択肢もなければ権限もありません。
子供から見える世界は恐ろしく閉鎖的でがんじがらめの価値観の中で生きているのです。
そんないじめを受けていても、学校に行くのは当たり前。ひたすら耐えながら中学校生活を送っていました。
あれから35年の月日をまたぎ、わたしを一番いじめていたA子ちゃんが、相談に乗って欲しいとやってきました。
いじめていた側は当時をなんとも思わないのだなと、驚きと同時におかしな悟りを得たものです。
おとなになってから知ったのですが、いじめていた本人は、その行いや口にした言葉も忘れてしまうそうですね。
人ってそういうものだと学びました。
彼女への想いはともかく、相談の依頼については、お仕事としてきちんと引き受けました。(笑)
A子ちゃんを占った結果、中学卒業後人生がとても不幸であったことが強く記憶に残っています。
不徳は必ず自分に返ってくるということも、再確認できた出来事でした。因果応報ということですね。
人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるということ。行為の善悪に応じて、その報いがあること。現在では悪いほうに用いられることが多い。「因」は因縁の意で、原因のこと。「果」は果報の意で、原因によって生じた結果や報いのこと。
いまでこそ「いじめ」は社会的にメジャーな言葉ですが、当時はいじめという単語も無く、社会問題にされなかっただけで、水面下では相当陰湿に繰り広げてられていたと思います。
高度経済成長の社会背景の中、高学歴であれば一生涯年功序列の恩恵を受け、良い給料を貰えて一生安泰。
そのルートから落ちこぼれた人間は、一生不幸になる。
そんな暗黙の社会的風潮の中で、受験や親からのプレッシャーを受けた子どもたちほど、他者をいじめていたように感じます。
当時はわたしも苦しみましたが、今ではその体験をもとに、人の痛みを共感できます。
人生に無駄な経験はないのです。
もちろん、当時のわたしにはまだわからない概念でしたが、これも必要な経験だったことに、間違いはありません。
そんなわたしは、いつしか死にたい病も治まり、受験も成功して、高校へ進学することになりました。
北陸の地方都市で、2番目に進学率の高い学校に入学することにしたのです。
その学校では、どうして市内で一番の進学校に行かなかったのかと聞かれました。
理由はまたネガティブなもので、そんな所に行くと受験のストレスにさらされている生徒から、またいじめられるかもしれないと思ったから。
いかに心穏やかに、自分なりに楽な高校生活を送れるか。
心身ともに安全な学校がいいと思い、進学先を決めたのです。
それが功を奏して、高校生活はとても楽しく過ごしました。
男女問わず、現在も付き合いを続けている良い友だちにも恵まれました。
そして一気にプチモテ期に突入したのです!
時代はバブル期真っ只中。
おそろしいことに男性のカテゴリ分けも平気で行われた時代です。
食事だけ驕らせるメッシーくん、
移動のとき頼るアッシーくん、
そして連れて歩くひと、
将来を考えられるひと、
……などに分類されたのです。
ところがわたしは、上手く周りの男性をカテゴリー分けして上手く異性と付き合う周りの女子を見ながら、その波に乗れず、結婚にも興味が湧かない20代前半を過ごしました。
当時、短大卒業後の女性は、お嫁に行くための準備段階に入り、お茶やお花や着付けや料理教室などに通うひとが多くいました。
とりあえずは周りの目もあるので、わたしも形だけでもと習いには行きましたが、あまり本腰を入れませんでした。
いつもどこかで
「このままで人生を終わってはいけない、なにかやらなければいけないことがあるはず」
という渇望にも似た感情に支配されていたからです。
ちょこちょこ恋愛の機会もありましたが、相変わらず結婚に関心が向かず、結婚していく同級生たちの気持ちを理解できないまま、わたしは音楽の道を選びました。
やがてわたしは、音楽教室の講師になり、可愛い子どもたちを指導しながら、これまたそれなりに恋愛を経験します。
恋バナで盛り上がる、ありきたりな20代女子を満喫するようにはなっていたのですが、結婚よりもすべきことがあるという気持ちは消えず。
そんな平凡な日々を過ごしていた25歳のときでした。
ある日を境に、わたしの生活は一変します。
突然の電話で知らされた事実に耳を疑いました。
父親の肺癌が発覚したのです。
「まだ大事ではない。手術で助かる」
そんな軽い気持ちで手術に立ち会ったのですが、手術は8時間にも及び、弱り果てた術後の父親の姿を見てようやく事の重大さを感じました。
手術を担当した執刀医から言われた言葉は、さらなる追い討ちをかけます。
「極めて悪性の肺癌です。1年もつかどうか」
という残酷な現実を知らせる一言。
生まれてからずっと親元でスネをかじりながら、その恩恵に預かった楽々とした生活をしていたわたしです。
一気に暗澹たる気持ちになるできごとでした。
どうしたら良いのかわかりませんでしたし、なにができるかもわかりません。
だけど、父が死んでしまうのは嫌だという気持ちだけは確かなものだったと思います。
その日から、
「なんとか父の肺癌を治したい、絶対に治せる方法があるはず」だと強く思い、数十冊もの民間の癌治療の本を読み漁り、治った体験があると謳う漢方薬やサプリメント、温熱治療や、薬草など、さまざまな療法を父に試しました。
まるで、いつかの母親が、わたしの「ど近眼治療」に躍起になっていたときのように。
これらは保険がきかない民間療法なので、すべて実費です。
ひと月に数十万円も費やすこともあり、音楽教室の仕事だけでは賄いきれず、朝の6時から昼過ぎまで空港でバイト、その後派遣社員、夕方は21時までは音楽教室でレッスン。
土日はまた違うバイトをこなしながら、父親の民間治療にかかる費用を捻出する生活を、4年も続けました。
ほとんど休みなく、毎朝5時に起床して夜の21時まで働き、付添いの母親を病院に迎えに行って戻る毎日です。
ひとは切羽詰まると、すごい力が出るものだなという体験でした。
なんとしてでも、父親の肺癌を完治させたいと思いがむしゃらになりましたが、当の本人は医者が病気を治してくれると信じる人でした。
抗がん剤や放射線治療など、医者が勧める科学的な治療を片っ端から行っていましたが、父の望みとは裏腹に、みるみる体力がなくなっていきます。
このときから25年経っても、大きく治療法が変わってないことと、癌を発症する人が2人に1人と患者が増え続けている事実に驚愕します。
父は、あと1年の命と言われていたなか4年半頑張ってくれました。
結局、わたしが28歳のときに父は治療の甲斐なく亡くなりました。
父親と言う後ろ盾を失ってしまったことと、パートでしか働いたことのない母親との2人暮らしは精神的にも、金銭的にも、とても心細いものでした。
そんな中、わずかな光がみえてきます。
3年間つき合っていた、4歳年下の彼からプロポーズされて結婚することになったのです。