このブログで一貫して発信していることです。何かに頼ろうとする前にまずやるべきことがあるというのが大前提です。それさえもせずに、神頼み、占い頼みではあなたの軸はどこにあるのでしょうか?
正当な努力をされているのに、なぜか上手く事が運ばないという方に対して、ヒントや背中を押せる発信をしていきます。
みなさんこんにちは。
このたびは中井耀香のブログを訪問していただき、まことにありがとうございます。
素敵なご縁に、感謝申し上げます。
これからたくさん、幸せになるための情報をみなさまにお届けしたいと思っております。
でもその前に、そもそも中井耀香ってどんな人なの?
と思われる方も多くいらっしゃるでしょう。
そこで、まずはじめにわたしの自己紹介を兼ねて、中井耀香ができるまでのストーリーをお届けしたいと思います。
なんと言っても半世紀ほど生きているので、ストーリーも若干長めになりますが、きっと楽しくお読みいただける内容です。
どうぞお付き合いくださいませ。
昭和39年11月。
高知県中村市(現四万十市)。
いちじょこさんの愛称で地元の人達に愛されている、「一条神社」の大祭の日に、わたしは小さな女の子として生まれました。
みなさまは、「産土神社(うぶすな神社)」をご存知ですか?
「産土神社」とは、自分が生まれた場所の土地を守っている神さまを祭っている神社のことです。
日本の土地で生まれた人は、祭られている神さま、すなわち「産土さま」のエネルギーの一部である、分け御霊(わけみたま)をいただきながら、生涯お守りいただいています。
さて、わたしの産土神社は、「いちじょこさん」です。
それも、11月22日の大祭の日。
町中がお祭り一色の中に誕生しました。
とある審神者(さにわ)の先生曰く、いつかの時代のわたしは、この一条神社の巫女だったとのことでしたので、とても合点の行くことでした。
近年、11月22日は「いい夫婦の日」と言われていますね。
そのため、この日に結婚式を挙げたり、入籍をするひとが増えました。
でも、残念ながらわたしは、「いい夫婦の日に生まれた、バツイチの中井耀香です」と、自虐的な自己紹介をする人生を歩むこととなります。
さて、話を幼少期に戻しましょう。
わたしの父親は自衛官でした。
父の転勤に伴い、わたしは埼玉県越谷市に引っ越しをすることになりました。
3歳まで越谷市で暮らし、その後はまた、父の転勤にあわせて石川県小松市に引っ越しをしました。
そのまま北陸で成長したわたしは、日本一の働き者と言われる、北陸の女性の精神を培います。
とにかく、アクティブに、パワフルに働いてきました。
また、北陸の土地のエネルギーを受けて育ったおかげか、「北陸の神さま」と、巷で言われているようです。
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けれども、幼少期のわたしは、今とは別人のように暗く、幸せとは程遠い考え方の持ち主でした。
小松市に引っ越しをした3歳以降は、あるときを迎えるまで、とても厄介なことばかり。
そのあいだの、憂鬱なことばかりを覚えています。
当時、公営の団地で親子4人で暮らしていたのですが、父親しか働いていなかったため、とても貧しい家庭でした。
そうした家庭は、特別珍しくはないと思いますが、わたしを悩ませたのは、もっと別のことです。
物心がつく頃には、その悩みも根深いものに変わっていきます。
なにに悩んでいたかと言いますと……。
常に、へんてこなものが見えたのです。
たとえば、当時の部屋の壁といえば土壁でしたが、その土壁の中に人の顔が浮かんで、わたしに話しかけてきたり、人形劇のように動くのです。
愛らしいおもちゃの人形の顔などではありませんよ。
さながら、生きている人のような顔であり、明らかに人ではない、なにかの顔。
それはまるで、「ゲゲゲの鬼太郎」に登場する、大きな壁の妖怪のようした。
小さかったわたしは、怖くてひとりでトイレに行けませんでした。
当然、部屋の中にひとりで居られません。
わたしを怖がらせたのは、それだけではありません。
夜になると定期的に現れる、「小人たち」の存在が、小さなわたしをビビらせました。
当時は弟と両親を含めた、親子4人で並んで寝ていたのですが、みんなが寝静まった頃を見計らって、小人たちが宴会をはじめるのです。
それも突然、「となりのトトロ」に出ていた小さいトトロのように、部屋の隅に群れをつくり、垂直に柱を伝って上がっていきます。
何やら言語もあるようですが、とても高音で、早口すぎて聞き取れません。
小さな声で、おしゃべりながら、部屋の中を動き回るのです。
その小人たちの顔色は5色。
いろんな人種が混ざって、仲良くしているようでした。
いま思い起こせば、はるか昔、地球上にいた人間は、5色の肌色を持っていたのではとも考えられます。
今は、黒人、白人、黄色人種だけが残りましたが、小人の中には赤色人、青色人がいたような気がします。
こう書くとなんだか「楽しそうやん」と、思うかもしれません。
しかし、4歳くらいのわたしには恐怖心しかなく、毎日が恐怖の連続でした。
布団に潜ると、小人たちが騒いでいてるなんて、普通ではないことくらいわかります。
そんな「普通ではないこと」は、ほかにも……。
子どもの頃のわたしに追い打ちをかけるように、月に1度くらいの頻度で、窓の外に30センチくらいの人型の影が現れました。
影絵のように、ぼんやりとしたものが、こちらをうかがっているのが見えたのです。
それは小人とはまったく違うもので、家の中には入らず、外から家の中をうかがっているようでした。
悪さをするものなのか、良いものなのかを判断することができない謎の影は、よりいっそう恐怖心を煽ります。
目が覚めたときに、枕元にいたらどうしよう。
のぞき込まれていたらどうしようなど、子どもながらにリアルな想像をして怯えました。
こんなことが毎晩のように起こるので、わたしは毎日寝不足でした。
保育園でもボーっとしていて、やる気も覇気も無く、子どもなのにとても疲れを感じていたのです。
小学校に進学すると、今度は片道40分くらい歩いて登校することになり、更に疲労困憊となりました。
当然授業にもついていけずに、ぼけーっとしているわけです。
学校の先生との個人面談で、「娘さんは授業中も眠そうにしていて、全然勉強に身が入ってない」と言われた母親は、当然キレまくります。
学校では先生に叱られ、家では母親にキレられ、夜は小人たちがそこら中で騒ぐ日々。
とても辛く、孤独です。
幼いわたしは、早くもストレスを知ってしまいました。
小学校の2年生になったあるとき、窓の外から、あの小さな人型の影が、こちらを見ていました。
一体、なにをしたいのでしょう。
なにをしてほしいのでしょう。
こんなものたちが見えなければ、ぐっする眠れるでしょうし、学校の先生や、母親に叱られることもなくなるのに。
溜め込んだいろいろな感情が、ついに爆発します。
わたしは意を決して布団から出ると、初めて窓を開けて「もう来ないで!」と叫びました。
そのとき、夜の町が、一瞬だけオレンジ色の光に包まれたことを、覚えています。
それ以来、布団の中からも、壁からも、窓の外からも、へんてこなものの姿は完全にいなくなり、見えなくなりました。
同時に、わたしの視力は一気に悪くなり、1.2あった視力が、なんと0.2まで下がってしまいます。
小人たちは見えなくなりましたが、世の中の景色を、正しく見ることもできなくなってしまったわけです。
なんとも皮肉な話です。
そんなこんなで、とても真っ暗な子ども時代を送ってきました。
当然、中学校に進学する気も起きず、どこかで死んでしまいたいという、希死念慮が湧いてくる、根暗な女の子に育ってしまったのです。