今日は、オーストラリア政治の授業の「チュートリアル」がありました。初回です。
「チュートリアル」とは、講義とは異なり、20人に満たない少人数のクラスで、ディスカッションを中心として進めていくものです。
まぁ覚悟はしていたんですが、いやー、厳しい。
私以外全員ネイティブで、かつオーストラリアの政治を日常のものとして知っているから、語学力・政治的知識のどちらをとっても私が議論に入れる余地はありませんでした。
かろうじて何を話しているのかはわかるのですが、発言なんてできるわけがありません。
一言もしゃべらないまま授業が終わってしまいました。
それだけでも大変打ちのめされたんですが、帰ろうとしたとき目の前にいた初老の学生に
「今日は一言もしゃべらなかったね。意見がないわけじゃないんでしょ?だったら、次回はチャレンジしないと!」
と言われて、…本気でへこみました。
しかも、彼に対しても
「Yes,Thanks」
としか答えられなくて…。
頭の中には、
「私は英語のネイティブスピーカーじゃないし、オーストラリアの国民でもないので、こういう議論に慣れるのに時間がかかるのは仕方がないことだと思います。でも、みんなの何倍も努力していつか対等に話せるようにがんばりますよ」
というような内容が、(英文で)浮かんでいたのですが、言う勇気がでませんでした。
自分を表現するのに、恐怖感を抱いてしまったようです。
ネイティブにとっての私は、見下すべき対象になるのではないかという気がしました。
そのあと、次の授業までの間、押し寄せてくる情けない気持ちをやり過ごすのが大変でした。
もうこの授業、Dropしちゃおうかなぁ…とまで思いましたよ。
しかし、今日は幸運でした。この最悪な精神状態を救ってくれるようなイベントが直後にありました。
実は、マンツーマンの英会話ボランティアを申し込んでいて、今日がその初回だったのです。
「また英語話せなくて恥かくのかー…これから水曜日は大変だ…」
そんなことを考えながら、ボランティアとの待ち合わせ場所に行ったんですよ。
ボランティアの方は、中年の女性の方でした。
なんというか、自己をしっかり持っています、っていう感じで、初対面なのにえらく信頼のおけそうな雰囲気で、へこんでいた私もリラックスして話すことができました。
チュートリアルがしんどいという話をしたら、
「最初から話せる留学生なんて見たことがない。6か月くらいかけて、徐々にうまくなっていくんだよ」
と、彼女が前に教えていた中国人の例を交えて、そう語ってくれました。
他にも、大学の授業や宿題のことや、こっちの文化のことなど、いろいろなことを話している中で、つっかえながらでも相手が理解できるよう一生懸命しゃべる様、自分が努力をしていることに気付きました。
そこで、ボランティアと別れてから、「逆の立場だったらどうだろう」ということを考えました。
日本の大学のクラスに、英語圏からの留学生がやってきて、カタコトの日本語で一生懸命しゃべろうとしているのを見て、私たちは彼を見下すでしょうか?
絶対に、そんなことはありえない。
むしろ、母語ではない言葉で、自分を表現しようとするその挑戦を、尊敬するのではないかと思います。
もちろん、英語圏の人々が、非ネイティブに対して上のケースと同様に考えることができるかというと、疑問はあります。英語は日本語とは比較にならないほどポピュラーなので、話せるのがあたりまえ、と考える人もいるかもしれません。ですが、私は英語を日常的に話さない文化圏からやってきたのですから、英語でネイティブと対等にに話すのは、大変challengingなことなんです。
話せないからといって、見下される筋合いは絶対に、無い!
そう開きなおってしまうと、ほんの少しですが、モチベーションが復活したような気がしました。
まったく話さないよりも、流れをぶったぎるようなひどい英語でもいいから、何か話せばいい。
そのためにも、知識は他の人と同等・あるいはそれ以上の水準を保てるように、もっと勉強しよう!
そういう気分になってきました。
このモチベーションを維持できるよう、有言実行の精神を以て、今から頑張りたいと思います。
長文かつ独りよがりな文章で申し訳ありません。
読んでいただいて、ありがとうございました。