上杉鷹山 | 洋一のブログ

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僕は中学生くらいの頃から小説を読むようになりまして特に歴史小説、時代小説を読むのが大好きでした。

初めて時代小説を読んだ作品はハッキリと覚えています。
中学生の頃に読みました吉川英治さんの代表作で不朽の名作「宮本武蔵」です
ちょうどNHKで毎週水曜日に新大型時代劇と銘打って吉川英治さん原作の宮本武蔵を役所広司さん主演で毎週1年間放送されていて夢中になって観ていました。

父がテレビの時代劇や時代小説のファンで父が見ていた宮本武蔵を僕も見て夢中になって、それから吉川英治さんの原作を読むようになりました。

その後もNHKで放送された大河ドラマや時代劇ドラマを観て原作の小説を読むというパターンが多くなりました。

僕は中学校を卒業してバイトしながら専門学校通って、卒業してすぐに働きに出ましたから給料から家にお金を入れている以外に比較的同年代の高校生よりも自由にお金を使えていたと思います。
毎月給料もらえてたので親にあまり負担かけずに自分の給料で好きな本やCD買ったり映画観に行ったりする事できました。


数多く読みました歴史小説、時代小説の中でも特別に好きな作品がいくつかあります。

その特別に好きな作品の一つが童門冬二さんの「小説家 上杉鷹山」でした。








童門冬二さんの「小説 上杉鷹山」を読んでいて話が現代に飛んで、1961年1月20日のジョン・F・ケネディアメリカ合衆国新大統領の就任の日になります。

ケネディ大統領が大統領就任演説を行った後に日本人記者団と交わした会話の事が書かれてました。 

日本人記者の1人がケネディ大統領に「尊敬する日本人はいますか」

との質問にケネディ大統領が答えました。

「私が尊敬する日本人はウエスギ・ヨウザンです」








その場に居た日本人記者団は「ウエスギ・ヨウザンって誰だ?」と上杉鷹山の事を誰一人知らなかった事が書かれてました。


上杉鷹山とはどのような人物なのか。


上杉鷹山は寛延4年7月20日(1751年9月9日)に日向高鍋藩主秋月種美の次男として高鍋藩江戸藩邸で生まれました。
幼名は松三郎、9歳で米沢藩主上杉重定の養子になり治憲(はるのり)と改名し16歳で家督を継ぎ第9代目米沢藩主となりました。

このブログでは治憲ではなく鷹山で書いていきたいと思います。
鷹山が家督を継いだ時、米沢藩は現在の貨幣に換算すると200億円もの借金があったと伝えられています。
原因はもともと会津120万石もの巨大大名だった上杉家が関ヶ原の合戦で西軍側につき敗者に。
上杉家は家臣の直江兼続の所領だった米沢15万石にまで減封され、しかし120万石の頃の家臣6000人をそのまま放つ事なく召し抱えて15万石にまて減っても6000人の家臣はそのままでした。

童門冬二さんの「小説 上杉鷹山」には鷹山が家督を継いだ頃の米沢藩の財政は人件費が88%という有り得ない数字で藩が運営されていたそうです。
最後の手段と藩を幕府に返上し米沢藩は取り潰されるしかないところまで追い詰められていました。
上杉家の米沢藩の窮乏ぶりはこの当時から全国に知れ渡っていたそうです。

ここから若き君主 上杉鷹山の行政改革の戦いが始まりました 

鷹山は藩の重臣たちから嫌われていても私心なく藩の窮状を嘆き藩の為に尽くせる家臣4人を選び米沢藩の行政改革案を作成させました。

家臣4人が城の奥の書院に5ヶ月も籠って作成された行政改革案は徹底的な大幅なコストカット案でした。
上杉家は謙信公以来の武勇の誉れ高い藩できらびやかな派手な行事も多かったのですか、それらを一切廃止し奥女中が50人もいたところを9人に。
藩主の治憲(鷹山)は生活費にそれまで年間1500両もの君主への予算があてられてきましたが、これを200両にまで減らし着ている木綿の質素な服に。
これらの改革案に上杉家普代の重臣たちは大反対をして、そのような事をされましたら殿が藩主の座から追われる事にもなりかねません、とそう鷹山を脅したりしました。
 
鷹山はその重臣たちの言葉に1歩も怯む事なく言い放ちました。

「それは覚悟している、しかしこれだけは言っておく、この治憲を藩主の座から追えるのは家臣にあらず、領民だけである、年貢を納める領民にのみその権利がある!」

そう勢揃いした家臣たちの前で鷹山は言い放ち、家臣たちは静まりかえってしまいました。

この時代ヨーロッパではフランス革命前夜でしたが民主主義の無い時代に日本の一藩主の鷹山が藩(国)は領民(国民)の為にあると封建制度を覆し真っ向から挑戦するような発言をしていたのに本当に驚かされます。
家臣たちは鷹山の先進的な思想をまったく理解できなかったのだと思いました。

鷹山の改革はたんに倹約令を出しただけでなく、産業にも非常に力を入れ他国から腕の良い職人を招聘する事に関しては少しも支出を惜しまなかったところも凄いと思いました。

織物、陶磁器、和紙、養蚕、彫り物など他国から優れた職人を招き、他国の真似でなく米沢独特のオリジナルの商品を創りあげました。
それら鷹山が振興し始まった米沢織、絹製品、漆器、紅花、色彩鯉、笹野一刀彫りの産業はすべて現在に至るまで米沢を支え続けるい産業としてずっと続いています。

鷹山は農業に非常に力を入れた藩主として知られています。
石高を増すために武士の屋敷の庭まで作物を作る事を奨励されたと伝えられています。
鷹山は藩主の身ながら領内の田や畑をずっと見回り続け、時に鍬を手にして自ら畑を耕し田にはいって稲の育ち具合など見ていたそうです。
百姓の方々は藩主が田や畑に入り鍬を手にして耕す姿を見て驚き感動された事が書かれてました。

鷹山の武士にまで農業や産業をする事を進める政策に藩の上級武士ほど「武士がそのような事をやれるか」と反発が強かったのですが、下級武士ほど率先して鷹山の取り組みに積極的に参加されたそうです。

鷹山のあまりにも大きな行政改革を阻止しようと上杉家普代の数人の重臣たちは動きますが、七家騒動と呼ばれる全国にまで知られる事になったこの騒動は鷹山は素早く反対派を処断し改革を進める事になりました。

反対派の重臣2人か切腹と厳しい処断を行いましたが他の5人は閉門・蟄居されますが鷹山は反対派の家臣たちも後に再興させています。
ちなみに反対派の色部と千坂の今の説は反対派を暴発させない為に反対派側にいたとの説が強く、2名とももともと鷹山の改革には賛成していたと言われています。

反対派の重臣たちなのですが、いざ戦が起きたら我々が領民を守るのだ、だから領民たちからいくらでも年貢を取れたてるのは当然と考えています、この当時の武士階級の平均的な考え方と思います。
ある意味鷹山の思想の方が革新的過ぎて理解を得られなかった騒動と思いました。

上杉鷹山の行政改革は成功し、破綻寸前にまで追い込まれた藩の財政は鷹山の次々の代で借金はすべて完済されたそうです。

鷹山は学問にも力をいれ藩校「興譲館」を設立。
鷹山の師である細井平洲を招聘し学問の振興をし多くの逸材を輩出しました。

領民や武士たちにも笑顔が戻り、米沢は現在にまで続く魅了的な産業と豊かな農業の美しい国へと変わりました。


このようなエピソードもあります。
日本全国、特に東北地方に凄まじい被害をもたらした天命の大飢饉、餓死者は50万人を超えたと言われています。
鷹山は藩の備蓄を領民に与え、まだ米のあった庄内地方から米を大量に買いつけ、藩士や領民に米に変わる作物の生産を実践させました。
結果天命の大飢饉の被害がもっとも甚大な東北諸藩の中で、米沢藩からは大飢饉において1人の餓死者が出なかったそうです。


上杉鷹山は存命中の当時から全国にその名君ぶりが轟いていたそうです。
8代将軍徳川吉宗の孫で白河藩主の松平定信は鷹山を師のように慕い亡くなった時に。
「三百諸候一の賢君が亡くなった」
そう鷹山への哀悼の気持ちをしたためられました。


上杉鷹山が家督を譲ったときに書かれた有名な「伝国の辞」


「伝国の辞」はフランス革命の「人権宣言」よりも早い世界史上初の主権在民思想と言われています。



同じく家督を譲った時に伝えた鷹山が武田信玄の名言を模して伝えた有名な言葉を残されています。 
  
「なせばなる なさねばならぬ 何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」





僕が上杉鷹山を知ったのは1998年正月にNHKで童門冬二さん原作の正月特別時代劇「上杉鷹山 二百年前の行政改革」を見たからでした。

僕はこのドラマを見たあと童門冬二さんの原作を読みました。

このドラマは本当に素晴らしかったです。
若き米沢藩主 上杉治憲(鷹山)を演じられた筒井道隆さんが本当に若き稀代の名君を爽やかに品格溢れる素晴らしい演技で演じられて歴史に残るような名ドラマ作品になったと思いました。
僕の中では上杉鷹山はドラマで演じられた筒井道隆さんのイメージが強いです。

NHKのアーカイブから画像をお借りしてしまいました。











よく知られている話しですが、上杉鷹山の正室の幸姫(よしひめ)は生まれついての障がい者でした。

30歳で亡くなられる短い生涯で10歳にも満たないような心と身体だったそうです、現代での脳性麻痺のような障がいだったのではと伝えられています。

鷹山は幸姫が亡くなるまで終生幸姫をとても慈しみ大切にされたそうです。

「幸殿は天女だ、天女を裏切ってはならぬ」と側室を持つ事を頑なに拒んだ鷹山。

世継ぎがいなくなると重臣たちは説得に説得を重ねてようやく鷹山より10歳年上の上杉家の分家の娘にあたる、お豊の方を側室に迎えられましたが正室に及ぶ地位は認められなかったそうです。

鷹山はよく幸姫のところに行ってお人形や玩具、折り紙を作ってあげて幸姫を喜ばしてあげてたそうです。

童門冬二さんの小説の一場面に、顔の描いていないのっぺらぼうの人形を鷹山は幸姫に渡し、幸姫は不自由な身体で懸命にその人形に顔を書きます。

幸姫は「ヨシ…ヨシ…」と人形に自分の顔を描いた事を懸命に鷹山に伝えます。

鷹山はそっと幸姫の頬に手を当てて
「幸殿これは本当に幸殿に似ています、よく描きました」と鷹山は感嘆して幸姫に言いました。

「ああ……うう……」と喜びの声をあげて頬に手を当てた鷹山の手を握りしめて喜びを露にした場面にとても感動しました

この場面はドラマでも本当に感動的に描かれていて、幸姫をこの時演じられたのは倉沢桃子さんという当時12歳の子役の少女でした。
倉沢さんは障がいを持つ薄幸の姫君をとても素晴らしく演じられてました。


こちら幸姫を演じられた頃の倉沢桃子さんの写真を探してお借りしてしまいました。





鷹山は福祉に力を注いだ藩主としてもよく知られています。
育児を支援する制度を作り、家族に病人が居た場合休暇が取れる制度を、家族に障がいを持つ家に米を支給する制度を作り。
70歳以上の親の面倒を見る孝子に報償金を与える制度も作られたそうです
90歳からは藩が生涯ずっと食べさせていけるを米を領民に与えていたそうです。
鷹山の心の中に正室幸姫の思いがあり、藩全体に福祉の重要性を行き渡らせたのだと思いました。



いろいろ調べてみましたが上杉鷹山がドラマ化されたのは今のところこのドラマ1度だけのようです。

同じ内村鑑三さんの「代表的日本人」に登場する西郷隆盛は少し飽きるくらい何度も何度もドラマや映画になったのとは対照的と思います。

上杉鷹山を大河ドラマにと言う声もかなりあるようですが、なにしろ題材が地味過ぎてテレビドラマ化には向かないのではとも思ったりします。
鷹山の生涯は日本のどの歴史上の人物に比べても一際素晴らしい人物と思いますが。
ドラマになっても時代劇や歴史ドラマの見所の1つの派手な斬り合いや合戦などのシーンもまったくないドラマになると思いますので、作る側も鷹山を題材にドラマを作る事に躊躇しているのではと思ってしまいました。




上杉鷹山について書かれた著作は本当にたくさんありますが。
世界的名著の内村鑑三の「代表的日本人」に描かれた上杉鷹山の本以外で最も有名な上杉鷹山を描いた本は。
これまで紹介してきた童門冬二さんの「小説 上杉鷹山と。
時代小説の名手というより日本の偉大な文学者の1人、藤沢周平さんの最後の長編小策「漆の実のみのる国」と思います。









どちらも同じ上杉鷹山を題材に描かれた歴史小説の金字塔のような名作ですが、童門冬二さん藤沢周平さんそれぞれの作家の特色で描かれていて、作品としてはまったく真逆のような作品になっています。

童門冬二さんの経歴は数多くの歴史作家の中でも極めて異色の作家と思います。
戦時中は海軍予科練の土浦海軍航空隊で神風特攻隊に志願されたそうです。
特攻隊員に選ばれながら出撃する前に終戦を迎えられた事が語られてました。

戦後は東京都の職員になり目黒区役所に勤務されながら作家活動を開始し、その後東京都庁に勤務。
都庁職員に芥川賞の候補になった作家がいると知った美濃部亮吉氏が東京都知事になった時に美濃部さんは童門さんを知事広報室長に抜擢し、美濃部都知事の所信表明演説をはじめすべてのスピーチの原稿を書く仕事をされていたそうです。

童門さんのインタビューで初めて美濃部都知事のスピーチ原稿を書いた時に、美濃部都知事は一読するなりその場で原稿をゴミ箱に捨てて「もっと解りやすく書くように」と言われたそうです。
美濃部知事の元で働いて多大な影響を受けられた事を語られてました。
童門さんは東京都の政治の中枢にいた作家で、その都庁時代の仕事が童門さんの文学作品が他の作家と違う政治のスペシャリストとしての視点で描かれた作品スタイルを築かれた作家と思いました。

美濃部都知事が辞められた時、一緒に童門さんも都庁を辞められ本格的な作家活動に入られました。
「小説 上杉鷹山」は童門さんが都庁を辞められて5年後に出版され大ベストセラーになりました。
この作品は政治の中枢にいた童門さんだから書けた作品と思います。

童門冬二さんの「小説 上杉鷹山」は上杉鷹山の入門書でスタンダード、そして最高傑作ではと思います。


藤沢周平さんの上杉鷹山を主人公にした最後の遺作と言っていい小説「漆の実のみのる国」

藤沢周平さんは時代小説作家の枠を超えて日本最高の文学者の一人と思います。
よく司馬遼太郎さんと対照的に比較される事の多い作家ですが。
僕は司馬遼太郎さんも藤沢周平さんも大好きです。
司馬史観と呼ばれる独特の歴史観を持つ司馬遼太郎さんは随筆で、高層のビルから地上の人々を見下ろすような目線で書くことを好んでいる事を書いてました。
ですから司馬さんはリーダーと呼ばれる経営者や政治家に愛読者が多かったのかも知れません。

それに対して藤沢周平さんは作品でほとんど無名の市井に生きる人々を描いた数多くの優れた作品を、書いてこられた作家でした。

藤沢周平さんが病をおして最後に書かれた長編小説が上杉鷹山だったのは、これまで歴史上の有名な人物を題材に小説を書くことがほとんど無かった藤沢さんの作品の中で異色なのかも知れません。

しかし「漆の実のみのる国」は藤沢文学の1つの到達点のような至純の輝きを放つ名作と思います。
文学作品としてはこちらの作品の方が評価は高いかも知れません。


 

「私が最も尊敬する日本人はウエスギ・ヨウザンです」

ジョン・F・ケネディ米国大統領が日本人記者団の質問にこのように返答された事が上杉鷹山の人気の高さを決定づけたエピソードなのは間違いないと思います。

しかし何人かの歴史学者がケネディが鷹山を尊敬している発言をしたと言うのは本当にあったのだろうかと疑問を投げ掛けています。

ケネディが「私が最も尊敬する日本人はウエスギ・ヨウザン」ですと日本人記者団に発言したと言われるエピソードもいろいろあって、1961年1月20日のジョン・F・ケネディがアメリカ大統領に就任した日と言われる説や、この言葉はケネディではなくセオドア・ルーズベルト大統領の発言を取り違えて聞いたと言ったのではないかとの説もあります。


米沢市の「上杉鷹山公と郷土の先人を顕彰する会」が追跡調査し、当時のマスコミ各社の特派員などに聞き取り調査もし、そのような発言がなかったか調べたそうですが、なかった事が確認されています。

これによって地元米沢でもケネディ大統領が上杉鷹山公を尊敬していると言う発言は都市伝説と思われるようになったそうです。 


しかし2013年、1人の人物の発言によって再び日本人と米沢の人々を驚かせる発言がありました。

オバマ米国大統領からアメリカ合衆国駐日特命全権大使に任命されたジョン・F・ケネディ大統領の長女キャロライン・ケネディ駐日大使が着任して間もない頃のホテルオークラで行われたスピーチです。
 




私の父は、優れた統治、そして公共利益のために身をいとわなかったことで知られる、18世紀の東北の大名 上杉鷹山公を称賛していました。
鷹山は、民主的なやり方を導入し、いろんな新しいやり方で、異なる社会階級の人々が共に一緒になって自分たちのコミュニティに参加し奉仕することを奨励しました。
彼は質素な生活を送り、将来に向けて学校をつくり、さまざまな産業を興しました。
人々の奉仕を求めるケネディ大統領の有名な呼び掛けにも共鳴しあうような言葉も残しています。
国家とはわれわれの先祖から受け継いだものであって、私たちの子孫に渡してやるべきものです、私たちの個人的な所有物と考えてはなりません、〈国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれなく候〉あなたがそう思ってやれば、そう成ります。なにごともしようとしなけるば成らないのです。ものごとが成らないのは、その人がそのことをやろうとしなかったからです。
〈為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり〉



キャロライン・ケネディ米国駐日大使は上杉鷹山の伝国の辞と有名な言葉と、ジョン・F・ケネディ大統領の演説の言葉をシンクロさせて実に見事なスピーチを披露されました。

このキャロライン・ケネディ大使の「私の父は上杉鷹山公を称賛してました」とはっきりと言われた事に日本中や特に米沢市の人々が心から感動しました。

キャロライン・ケネディ大使が上杉鷹山について語られたのはこの時だけでなくこの後も何度も父は上杉鷹山公を称賛してましたと語られています。

そして再び「大使のケネディ大統領鷹山称賛の言葉の出所はどこだ」と様々な憶測が飛び交いました。

キャロライン・ケネディ大使はハッキリと私の父は上杉鷹山公を称賛された事をスピーチで語られましたが、ケネディ大統領の上杉鷹山称賛発言の確かな出所については語られてません。
それとも発言の確証は無くとも鷹山公はケネディ大統領が尊敬に値する人物と思いスピーチされたのだろうか。

1つ気がかりな事があります。

それはキャロライン・ケネディさんが駐日大使に任命された2013年に、アメリカ大使館のカート・トン首席公使がある参院議員にそういう発言は実際にあったといい、トン氏は文書の書き写しを渡すことも約束されたそうです。
その後どのようになったのかは解りませんが。

いずれにせよキャロライン・ケネディ大使の発言は米沢の人々に大きな希望を与えられました。

米沢の市民の方々と行政の方々はキャロライン・ケネディ大使の米沢訪問実現に向けて1年以上も準備されたそうです。

そして2014年9月27日ついにキャロライン・ケネディ米国駐日大使の米沢訪問が実現しました。
米沢市の伝国の社で行われる「なせばなる秋まつり」を観に来られる事になり。
この時のケネディ大使の米沢訪問はプライベートでの訪問でした。


ケネディ大使が米沢を訪問された時の動画を見たのですが、米沢市民の方々は日米の国旗を降って歓迎を超えてほとんど熱狂的にケネディ大使の訪問先を喜ばれてました。

キャロライン・ケネディ大使も米沢市民の熱烈な歓迎を見て本当に心から嬉しそうです。
しかもケネディ大使が首に掛けられていたのは米沢市民の方々の上杉鷹山公を顕彰する会の方が贈られた日本語と英語で書かれた「伝国の辞」が書かれた手拭いでした。










そして伝国の社のバルコニーにケネディ大使は立ち、米沢の人々に向けてスピーチされました。


皆様が鷹山公の残した遺産に応え、そして新しい世代に教えを伝えている事をお祝い申し上げます。
父(ケネディ元大統領)は「1人でも世の中に変化をもたらす事が出来る、みんなやってみるべきだ」とよく言ってました。
しかし上杉鷹山公ほど端的にそれを言い表した人はいないと思います。

スピーチの最後にキャロライン・ケネディ大使は日本語で言いました。

なせばなる。










「私が最も尊敬する日本人は上杉鷹山です」











キャロライン・ケネディ大使の米沢訪問は上杉鷹山とケネディ大統領を巡る伝説に1つの終止符が打たれ。
そして新しい関係の始まりのように思えました。