決断 10月18日のこと | お父ちゃんがんばれ!肺がんに負けない家族の闘病日記

お父ちゃんがんばれ!肺がんに負けない家族の闘病日記

2011年4月お父ちゃんが肺がん宣告されました。
かわいい娘のためにも、前向きにがんばる家族の日記です。

退院が見送りとなった17日、午後から冷たい雨

お父ちゃんに会って、帰宅がまた延期になったことを謝りたかったけど、

病み上がりのひめもいるので、自宅で過ごすことにした。


介護用ベッドとエアマットに流れる空気音がむなしく響く。


義理姉が会社帰りに顔を見に行ってくれ、

私が会った日曜日からたった3日の間にも、病状が悪化していることを知る。


夜、眠れず、私が出した苦汁の決断は、

「残される者のことを考えよう」ということでした。


予定では今月末には残るひとつの胚盤胞を移植できる。

ただ、それは、お父ちゃんの命あってのこと。

ならば、そこまでなんとかがんばってもらうには、

緩和ケア病棟のある病院へ転院し、専門的な治療を受けることではなかろうか。


家に帰りたいというお父ちゃんの願いを叶えてあげたいのはやまやまだけど、

ひめのために兄弟を!という私たち夫婦の願いのためなら、

お父ちゃんは「うん」と言ってくれる、そんな人だ。


そのかわり、道中ちょこっと回り道をしてもらえば、家の前を通ることができる。

外観だけでもいい、「お家に帰ってきたよ!」と眺めることさえできれば。


18日朝、早速ナースステーションに電話をいれ、

師長さんに私の出した結論を伝え、即、転院先の病院と連携をとっていただく。


この日はくしくも三宮病院 今周期の移植の準備が始まる日。

先生に「もうサインができなくなるかもしれないので」と伝え、

いつもより先に同意書をもらい、お父ちゃんの病院へ駆けつけた。


いつもの場所に入っていくと、ベッドには別の人がいた。

お父ちゃんのベッドは、ナースステーションに一番近い、しかも一番手前のベッドに移動していた。

それはつまり、ナースコールが頻繁に押されていることを意味する。


たった4日ぶりだというのに、お父ちゃんの顔はもはや別人でした。

ウトウトしそうになってはハッと目が開き、

私がベッドを離れるときは、左手にナースコール、右手に携帯

マスオ 「これがないと不安でたまらないんや」


お父ちゃんはすでに、死ととなりあわせにいて、

少しでも気を抜いたら、魂を持っていかれそうな、

そんな恐怖と戦っているのだとわかりました。


主治医N先生にも私の意向を伝えると、

そこでやっとH医大病院の緩和ケアチームが動いたことがわかりました。


家に帰ることにこだわったせいで、

自宅でも引き続き使える薬という足かせをつけてしまったことに気づきました。

もっと早く緩和に切り替えていたら・・・

ここまで苦しまずに済んだかもしれない。


いまさら「たられば」を言っても仕方ないことだけど。


転院は来週月曜日に決まりました。

それでもリスト上ずっと後だったはずの予約を強引に動かしてくれたんだけど。

土日をはさむことにやや不安は残りました。

めちゃくちゃな希望はわかっているけど、即、明日の金曜日に転院できたら、

この局面ものりこえられそうな気がしたから。


心配なので、この日は義理姉がお父ちゃんに付き添ってくれることになり、

私は

サザエさん 「明日ひめを連れてくるから待っててよ」

と言い残し、近所の友達の家で待つひめを迎えに行きました。


今まで誰にもお父ちゃんの病気のことを話していなかったけど、

いよいよという段階にきたので、2人だけ、

ひめのお迎えなど頼らせてもらうことになるであろうお友達に話しました。

そのひとりのお家。


「もう寒いし、今から帰って支度じゃ大変でしょ」と用意してくれたなべ風おうどんを一緒に食べました。

ひめはお友達のおうちで一緒に夕飯なんて始めてのことで、とってもはしゃいでいました。

私も、お父ちゃんが発作で倒れてからというもの、

病院の往復や在宅看護の準備で、

外食だったり、お惣菜だったり、レトルトカレーだったり。

久しぶりに心も体もあったまる食事でした。


お友達に恵まれたことに、本当に感謝です。