引きこもりと黒猫 木天蓼採取 ⑦ | ネコおやじのブログ

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おやじのボヤキです

翌朝、親司は軽自動車を走らせた。

左膝に湿布が貼ってあった。幸恵が昨日の帰り際に三枚置いていった。

ちゃんと貼るようにと言った。貼った。少し楽だった。

素直に認めたくなかったが楽だった。

太田の茶店は駅から少し入った路地にあった。看板が小さかった。

古い建物だった。知っている人間しか来ない店だった。それでいいと太田は言っていた。

引き戸を開けると珈琲の匂いがした。

カウンターに三人いた。鏑木と加藤と、見知らぬ老人だった。

見知らぬ老人は親司を見て会釈した。親司も会釈した。それだけだった。

「おじさん、足は」と太田が言った。

「まあまあや」

「まあまあか」

「まあまあや」

カウンターの端に座った。太田が何も聞かずに麦茶を出した。それから珈琲も出した。

「両方飲め」

「どっちかでええ」

「両方飲め」

親司は黙って珈琲を飲んだ。

鏑木が低い声で言った。「川沿いの件、話が広まっとるぞ」

「そうか」

「おじさんが見つけたって話も広まっとる」

「そうか」

「ええのか」

「どうせ広まる」と親司は言った。「榊原さんが動いたら広まる。早いか遅いかだけや」

加藤が缶コーヒーを持ったまま言った。「身元、分かったんやろ」

「知らん」

「知らんことないやろ」

「知らん」

加藤は苦笑した。鏑木も笑った。

そこへ引き戸が開いた。

榊原だった。

スーツだった。今日も暑そうに見えない顔だった。カウンターを見渡して、親司の隣に座った。

「いると思いました」と榊原が言った。

「そうですか」

太田が無言で珈琲を出した。榊原は一口飲んだ。

「うまいですね」

「毎回同じこと言いますな」と太田が言った。

「毎回うまいので」

鏑木と加藤と見知らぬ老人が、さりげなく席を外した。長い付き合いの空気の読み方だった。

三人になった。

榊原が珈琲カップを置いた。

「安西郡司、五十二歳です」と榊原が言った。

親司は麦茶を飲んだ。

「建設関係ですか」

榊原が少し目を細めた。

「なぜ分かりましたか」

「勘です」

「そうですか」榊原は親司を見た。一秒だけ見た。

それから続けた。「建設会社に勤めていました。当時は。今は別の仕事です」

「今は何を」

「自動車関係の下請けです。美濃加茂のほうで」

親司は右手を見た。節の張った指を思い出した。

「子供は」

「息子です。当時小学三年生。今は二十歳になります」

「今どこに」

「父親と二人暮らしです」

太田がカウンターを静かに拭いていた。聞いていた。聞いていないふりをしていた。

「当時の捜査はどうでしたか」と親司が聞いた。

「夫が届けを出した翌日から動きました。ただ」榊原は珈琲カップを両手で持った。

「状況証拠が薄かった。喧嘩の形跡もなかった。

夫は一貫して知らないと言った。子供も何も見ていなかった」

「それで」

「迷宮入りです。二年後に捜索が縮小された」

親司は黙った。

「夫は今も可児ですか」

「美濃加茂です。引っ越しました。三年後に」

「子供が小学六年の頃か」

「そういう計算になります」

榊原はまた一秒だけ親司を見た。

「根古さん」

「何ですか」

「昨日、余計なことをしていませんか」

「していません」

「本当ですか」

「足が笑っていました」

「今日は」

「湿布を貼っています」

榊原は太田を見た。太田はカウンターを拭いていた。

「太田さん」

「はい」

「この人が余計なことをしそうになったら止めてください」

「無理ですな」と太田は言った。「二十年止めようとして一度も成功しとらん」

榊原は短く息を吐いた。

珈琲を飲み干した。

「捜査が動いたらまた連絡します」と榊原が言った。「ただ」

「ただ」

「時間がかかるかもしれません。十一年前の事件です。物的証拠が残っているかどうか」

「そうですね」

「根古さん」

「何ですか」

榊原は立ち上がった。財布を出した。

太田が手で制した。榊原は財布をしまった。

「サイコメトリーで見えたもの」と榊原が言った。

声が少し低くなった。「もう少し詳しく聞かせてもらえますか」

親司は珈琲カップを持った。

「手が大きかった」と言った。「節が張っていた。力が強かった」

榊原は動かなかった。

「それだけですか」

「指が長かった」と親司は言った。「右手でした」

榊原の目が少し動いた。

「安西郡司は右利きです」と榊原は言った。独り言のように言った。

誰も何も言わなかった。

珈琲の匂いが店に満ちていた。

外で蝉が鳴いていた。

太田がカウンターを拭く音だけがしていた。