翌朝、親司は軽自動車を走らせた。
左膝に湿布が貼ってあった。幸恵が昨日の帰り際に三枚置いていった。
ちゃんと貼るようにと言った。貼った。少し楽だった。
素直に認めたくなかったが楽だった。
太田の茶店は駅から少し入った路地にあった。看板が小さかった。
古い建物だった。知っている人間しか来ない店だった。それでいいと太田は言っていた。
引き戸を開けると珈琲の匂いがした。
カウンターに三人いた。鏑木と加藤と、見知らぬ老人だった。
見知らぬ老人は親司を見て会釈した。親司も会釈した。それだけだった。
「おじさん、足は」と太田が言った。
「まあまあや」
「まあまあか」
「まあまあや」
カウンターの端に座った。太田が何も聞かずに麦茶を出した。それから珈琲も出した。
「両方飲め」
「どっちかでええ」
「両方飲め」
親司は黙って珈琲を飲んだ。
鏑木が低い声で言った。「川沿いの件、話が広まっとるぞ」
「そうか」
「おじさんが見つけたって話も広まっとる」
「そうか」
「ええのか」
「どうせ広まる」と親司は言った。「榊原さんが動いたら広まる。早いか遅いかだけや」
加藤が缶コーヒーを持ったまま言った。「身元、分かったんやろ」
「知らん」
「知らんことないやろ」
「知らん」
加藤は苦笑した。鏑木も笑った。
そこへ引き戸が開いた。
榊原だった。
スーツだった。今日も暑そうに見えない顔だった。カウンターを見渡して、親司の隣に座った。
「いると思いました」と榊原が言った。
「そうですか」
太田が無言で珈琲を出した。榊原は一口飲んだ。
「うまいですね」
「毎回同じこと言いますな」と太田が言った。
「毎回うまいので」
鏑木と加藤と見知らぬ老人が、さりげなく席を外した。長い付き合いの空気の読み方だった。
三人になった。
榊原が珈琲カップを置いた。
「安西郡司、五十二歳です」と榊原が言った。
親司は麦茶を飲んだ。
「建設関係ですか」
榊原が少し目を細めた。
「なぜ分かりましたか」
「勘です」
「そうですか」榊原は親司を見た。一秒だけ見た。
それから続けた。「建設会社に勤めていました。当時は。今は別の仕事です」
「今は何を」
「自動車関係の下請けです。美濃加茂のほうで」
親司は右手を見た。節の張った指を思い出した。
「子供は」
「息子です。当時小学三年生。今は二十歳になります」
「今どこに」
「父親と二人暮らしです」
太田がカウンターを静かに拭いていた。聞いていた。聞いていないふりをしていた。
「当時の捜査はどうでしたか」と親司が聞いた。
「夫が届けを出した翌日から動きました。ただ」榊原は珈琲カップを両手で持った。
「状況証拠が薄かった。喧嘩の形跡もなかった。
夫は一貫して知らないと言った。子供も何も見ていなかった」
「それで」
「迷宮入りです。二年後に捜索が縮小された」
親司は黙った。
「夫は今も可児ですか」
「美濃加茂です。引っ越しました。三年後に」
「子供が小学六年の頃か」
「そういう計算になります」
榊原はまた一秒だけ親司を見た。
「根古さん」
「何ですか」
「昨日、余計なことをしていませんか」
「していません」
「本当ですか」
「足が笑っていました」
「今日は」
「湿布を貼っています」
榊原は太田を見た。太田はカウンターを拭いていた。
「太田さん」
「はい」
「この人が余計なことをしそうになったら止めてください」
「無理ですな」と太田は言った。「二十年止めようとして一度も成功しとらん」
榊原は短く息を吐いた。
珈琲を飲み干した。
「捜査が動いたらまた連絡します」と榊原が言った。「ただ」
「ただ」
「時間がかかるかもしれません。十一年前の事件です。物的証拠が残っているかどうか」
「そうですね」
「根古さん」
「何ですか」
榊原は立ち上がった。財布を出した。
太田が手で制した。榊原は財布をしまった。
「サイコメトリーで見えたもの」と榊原が言った。
声が少し低くなった。「もう少し詳しく聞かせてもらえますか」
親司は珈琲カップを持った。
「手が大きかった」と言った。「節が張っていた。力が強かった」
榊原は動かなかった。
「それだけですか」
「指が長かった」と親司は言った。「右手でした」
榊原の目が少し動いた。
「安西郡司は右利きです」と榊原は言った。独り言のように言った。
誰も何も言わなかった。
珈琲の匂いが店に満ちていた。
外で蝉が鳴いていた。
太田がカウンターを拭く音だけがしていた。