朝から妙に天気が良かった。
親司は縁側でヤマトと並んで日向ぼっこをしていた。
ヤマトは丸くなって目を細めている。
親司もコーヒーをすすりながら、このまま一日が終わればいいと思っていた。
スマホが鳴った。
太田からだった。
「もしもし」
「親司、今日暇か」
「暇だ」
「ならちょうどいい。バーベキューに付き合え」
親司は少し考えた。太田の誘いは断りにくい。大学からの付き合いだった。
「どこだ」
「ダムの湖畔だ。榊原くんたちも来る」
親司は黙った。
「肉は俺が用意する。お前はヤマト連れてくるだけでいい」
「……わかった」
電話を切った。
ヤマトが顔を上げた。黄金色の目がこちらを見ている。
「バーベキューだそうだ」
ヤマトが小さくあくびをした。
湖畔の駐車場に着くと、すでに賑やかだった。
榊原が炭を起こしていた。平巡査が肉を並べていた。
山本彩織巡査長がドローンのケースを車から下ろしていた。
柊澪がそれを興味津々で覗き込んでいた。幸恵とミーコが折り畳み椅子を広げていた。
太田が真っ先に気づいた。
「来たか。ヤマトも元気そうだな」
ヤマトがキャリーケースの中から太田を一瞥した。悪くない反応だった。
榊原が立ち上がって親司に近づいた。
「先輩、来てくれましたか」
「太田に言われたからな」
榊原が微妙な顔をした。
親司はその顔を見た。
「榊原」
「はい」
「バーベキューだな」
「はい、バーベキューです」
「それだけか」
「……はい」
目が泳いでいた。
親司はため息をついた。それ以上は聞かなかった。
キャリーケースをそっと開けると、ヤマトが慎重に外に出た。
湖畔の風を嗅いで、耳をぴんと立てた。
その瞬間だった。
ヤマトが湖面をじっと見た。
動かなかった。
親司も湖面を見た。
今日は体の調子が良かった。
だから見えた。
湖面のあちこちに、白いものがゆらゆらと漂っていた。
一つではなかった。
二つ、三つ、四つ……
親司は静かに息を吐いた。
背後で太田が近づいてきた。低い声で言った。
「見えるか」
「見える」
「そうか」太田が湖を見た。
「榊原くんから相談を受けた時、お前しかいないと思った」
親司は太田を見た。
「最初からそのつもりだったな、お前たちは」
太田が静かに頷いた。
「すまん」
親司はヤマトを見た。黒猫はまだ湖面を見ていた。
黄金色の目が細くなっている。
榊原が近づいてきた。炭のついた軍手を外しながら、
申し訳なさそうな顔をしていた。
「先輩」
「わかってる」親司は湖面から目を離さなかった。
「何体だ」
榊原が低い声で答えた。
「匿名の通報が先月あって。湖底に複数の異物があると。
ダイバーを潜らせたいが、正式な捜査にするには根拠が薄くて」
「だから俺を連れてきた」
「はい」
親司はしばらく黙った。
白いものが、風もないのにゆらゆらと揺れていた。
助けを求めているのか。
それとも、ただそこにいることを知ってほしいのか。
ヤマトが親司の左足に寄り添った。
「彩織さんのドローン、水中カメラはついてるか」
榊原が振り返った。
「山本、水中カメラは」
山本彩織が顔を上げた。きびきびした目をした女性だった。
「装備してあります」
「使えるか」
「いつでも」
親司は湖面を見た。
「バーベキューは後にしろ」
榊原が頷いた。
平巡査が肉をそっとクーラーボックスに戻し始めた。
柊澪が親司の隣に来た。
「根古さん、何人いますか」
「数えるな」親司は静かに言った。
「気持ちが持っていかれる」
柊が息をのんだ。
山本彩織がドローンを湖面に向けて構えた。
静かな湖畔に、ドローンの低い音が響き始めた。
山本彩織がタブレットを広げた。ドローンの映像がリアルタイムで映し出されている。
湖面を低空飛行しながら、水中カメラが湖底を捉えていた。
水は思ったより透明度が低かった。深くなるにつれ、映像が暗くなっていく。
「深度計測しながら進めます」彩織が淡々と言った。「怪しい箇所があれば教えてください」
親司は彩織の隣に立った。タブレットの映像を見ながら、同時に湖面を見た。
白いものがいくつか、湖面の特定の場所に集まっていた。
「彩織さん」
「はい」
「北東方向、あの岩場の手前あたりを重点的に」
彩織が無言でドローンを操作した。
タブレットの映像が北東に向いた。
湖底が映し出された。
泥と岩と、藻が絡まった暗い世界だった。
しかしその中に??
「止めてくれ」
彩織がドローンをホバリングさせた。
タブレットの映像が固まった。
榊原が息をのんだ。
平巡査が顔を背けた。
映像の隅に、泥に半分埋まった黒いものが見えた。形から判断して、
ビニール袋だった。大きな、人が入るような。
「マーキングしろ」
彩織が素早く座標を記録した。
「他にもあります」彩織の声は揺れなかった。
プロの目だった。「続けますか」
「続けてくれ」
ドローンが再び動き出した。
親司は湖面に目を戻した。
白いものが、ドローンの動きに合わせるように揺れた。
案内している。
そう思った。
「次は南側、あの流木の近く」
彩織がドローンを操作した。
タブレットに映し出された湖底に、また黒いものが見えた。
今度は二つ、重なるように沈んでいた。
「マーキング完了」
柊澪が親司の袖を引いた。顔が青かった。
「根古さん、全部で何箇所ですか」
親司はしばらく湖面を見た。
白いものを、静かに数えた。
「四つだ」
誰も声を出さなかった。
湖畔の風だけが、静かに吹いていた。
太田が親司の隣に立った。コーヒーの入った紙コップを差し出した。
「飲め。顔色が悪い」
親司は受け取った。
温かかった。
「榊原」
「はい」
「これだけ揃えば、正式な捜査の根拠になるか」
榊原が彩織のタブレットを見た。四箇所の座標がマーキングされている。
「なります」榊原が静かに言った。「ダイバーを手配します」
「頼む」
親司はコーヒーをすすった。
湖面の白いものが、少しだけ静かになった気がした。
やっと見つけてもらえた、とでも言うように。
平巡査がおずおずと口を開いた。
「あの、バーベキューは」
全員が平巡査を見た。
榊原が静かに言った。
「空気を読め」
平巡査が縮こまった。
柊澪だけが、小さく笑った。
翌日だった。
正式な捜査として潜水隊が手配された。湖畔に規制線が張られ、
昨日のバーベキューの面影は完全に消えていた。
親司は湖畔の岩に腰を下ろして見ていた。左足を伸ばして、ヤマトを膝に乗せていた。
幸恵が隣に立っていた。検視医として呼ばれていた。
ウェットスーツを着た潜水隊員が三人、静かに湖に入っていった。
彩織がタブレットで昨日のマーキング座標を潜水隊に送っていた。
「第一ポイント、到達します」
無線から声が聞こえた。
全員が息を詰めた。
しばらく沈黙が続いた。
無線が再び鳴った。
「……あります。ビニール袋、大型です。引き上げます」
榊原が安藤警部補に目配せした。安藤が無言で頷いた。
ロープが張られ、ゆっくりと黒いものが水面に浮かび上がってきた。
泥と藻に覆われた大きなビニール袋だった。
湖畔に引き上げられた瞬間、親司の体に走るものがあった。
膝の上のヤマトが低く唸った。
幸恵が素早く近づいた。手袋をつけて、慎重に袋を開いた。
その場にいた全員が、静止した。
白骨だった。
成人の、しかし小柄な骨格だった。
「女性です」幸恵が静かに言った。「死後かなりの年数が経っています。
五年以上、もしかしたら十年近く」
安藤警部補が顔をしかめた。
「十年……」
「第二ポイント、到達します」
無線が鳴った。
誰も動かなかった。
ロープが再び張られた。
二つ目が引き上げられた。
三つ目が引き上げられた。
四つ目が引き上げられた。
湖畔に並んだ四つの黒いビニール袋を、親司は座ったまま見ていた。
ヤマトが膝から降りた。四つの袋の前に静かに座った。
動かなかった。
まるで弔うように。
幸恵が四つ全ての検視を終えた。立ち上がって親司のそばに来た。
顔が青白かった。
「全員女性です。年齢はバラバラ、二十代から四十代くらい。
死後の年数もそれぞれ違います」
「つまり」榊原が低く言った。「長期間にわたる連続犯行だ」
沈黙が落ちた。
柊澪が唇を噛んでいた。平巡査が湖を見つめていた。
彩織はタブレットを胸に抱えて動かなかった。
太田が静かに親司の隣に座った。
「見えるか」
親司は四つの袋を見た。
白いものが、それぞれの袋の傍に立っていた。
四人の女が、ただ静かにこちらを見ていた。
泣いていなかった。
ただ、長い間待っていたような顔をしていた。
「見える」親司は静かに言った。「四人とも、ここにいる」
太田が目を閉じた。
親司はヤマトを見た。黒猫はまだ動かなかった。
「榊原」
「はい」
「こいつらを、ちゃんと家に帰してやれ」
榊原が深く頷いた。
「必ず」
湖面が静かに揺れていた。
風もないのに。
身元捜査は榊原たちに任せた。
親司の仕事はここまでだった。
湖畔から引き上げる際、榊原が近づいてきた。
「先輩、捜査に」
「俺は関係ない」
「しかし」
「ダイバーを潜らせる根拠を作るのが俺の仕事だった。終わった」
榊原が言いかけて、止めた。
長い付き合いだった。これ以上言っても無駄だとわかっていた。
「……わかりました」
親司はヤマトをキャリーケースに入れた。
柊澪が車のキーを持って待っていた。
太田が並んで歩きながら小声で言った。
「無理するなよ」
「してない」
「顔に出てる」
親司は答えなかった。
駐車場に向かいながら、一度だけ振り返った。
湖面は静かだった。
白いものは、もう見えなかった。
四人は、やっと休めたのかもしれない。
親司はキャリーケースを軽く持ち直した。
「帰るぞ、ヤマト」
ケースの中で、小さな鳴き声がした。
太田の喫茶店は駅前の細い路地に面していた。
古いビルの一階、看板も小さく目立たない店だった。
しかし常連だけは知っている。珈琲が旨い店だった。
親司が引き戸を開けると、古い木の匂いとコーヒーの香りが混ざって漂ってきた。
カウンターに柊澪が先に座っていた。幸恵とミーコも来ていた。
「おじさん、遅い」柊澪が言った。
「駐車場が遠かった」
親司はカウンターの端に腰を下ろした。ヤマトのキャリーケースを足元に置いた。
太田がケースを覗いて、無言で小皿に水を入れて床に置いた。
長い付き合いだった。
「いつもすみません」
「構わん」
太田がカップを二つ出した。何も聞かずにコーヒーを淹れ始めた。
しばらく誰も喋らなかった。
ミーコが口を開いた。
「四人って、本当に」
「ああ」
「十年近く誰にも見つからなかったなんて」ミーコが珈琲カップを両手で包んだ。
「その間、家族はずっと待ってたんでしょうね」
誰も答えなかった。
幸恵が静かに言った。
「検視しながら、この人たちに家族がいるんだろうなってずっと思ってた」
太田がコーヒーをカウンターに置いた。
親司は一口すすった。
旨かった。
体の芯が、少しほぐれる気がした。
柊澪が親司を見た。
「根古さん、四人とも見えてたんですよね」
「ああ」
「何か、伝わってきましたか」
親司はカップを置いた。
「怒ってなかった」
柊澪が目を丸くした。
「ただ、待ってた。誰かに気づいてもらえるのをずっと待ってた」
静かだった。
コーヒーメーカーがかすかに音を立てた。
太田がカウンターを拭きながら言った。
「犯人は」
「わからん。それは榊原たちの仕事だ」
「そうか」
しばらくまた沈黙が続いた。
ケースの中でヤマトが小さく鳴いた。
ミーコが笑った。
「ヤマト、お腹すいたんじゃない」
「さっき食べた」
「猫はすぐお腹すくのよ」
親司はケースを覗いた。ヤマトが黄金色の目でこちらを見ていた。
確かに、催促の目だった。
「……帰ったらやる」
ヤマトが短く鳴いた。
柊澪が噴き出した。幸恵も笑った。ミーコも笑った。
太田が無言で笑っていた。
親司は少しだけ表情を緩めた。
喫茶店の窓から、夕暮れの空が見えた。
オレンジ色の光が、静かに路地に落ちていた。
家に帰ると、ヤマトが真っ先にご飯皿に直行した。
親司は缶詰を開けながら、どっこいしょと床に座った。
左足を伸ばした。今日は随分と歩いた。湖畔の石畳が足に堪えた。
ヤマトが勢いよく食べ始めた。
親司はこたつに潜り込んでインスタントコーヒーを作った。
テレビをつけたが、頭に入らなかった。
スマホを机に置いた。
榊原からの連絡を待つのは、いつもこんな感じだった。
自分にできることはやった。後は待つだけだ。
しかしこういう夜は、妙に体が重かった。
四人の顔が、頭の隅にあった。
怒っていなかった。ただ待っていた。
それが余計に、胸に残った。
ヤマトが食べ終わって、こたつに入ってきた。
丸くなって目を細めた。
親司はヤマトの背中をゆっくり撫でた。
黒い毛並みが温かかった。
スマホが震えた。
榊原からではなかった。
柊澪だった。
メッセージが一行だった。
――根古さん、四人のうち一人、身元わかったかもしれません。
親司は体を起こした。
すぐに返信した。
――どこで聞いた。
すぐに返ってきた。
――平巡査から。内緒だって言ってたけど根古さんには言っていいと思って。
親司はため息をついた。
平め、と思った。しかし悪い気はしなかった。
続きのメッセージが来た。
――五年前に失踪届が出てた女性らしいです。可児市内在住だったって。
親司は画面を見つめた。
可児市内。
五年前。
ヤマトが顔を上げた。黄金色の目が親司を見た。
親司はスマホを置いた。
コーヒーをすすった。
榊原から正式な連絡が来るまで、動かない。それが決めごとだった。
しかし頭の中で、静かに何かが動き始めていた。
可児市内で五年前に失踪した女性。
ダム湖底に十年近く沈んでいた遺体。
四人。それぞれ違う年代。
一人の犯行にしては、長すぎる。
親司は目を閉じた。
ヤマトが再び丸くなった。
静かな夜だった。
深夜の二時だった。
親司は三台のモニターの前に座っていた。
ドル円が小刻みに動いている。
ポンドが妙な動きをしていた。ロンドン市場の終わりかけだった。
ヤマトが真ん中のモニターの前に座った。
「どけ」
動かなかった。
「ヤマト」
黄金色の目がモニターの光を反射してこちらを見た。どかない目だった。
親司はヤマトを抱えて左側に移動させた。
ヤマトは不満そうに一度鳴いて、そのまま丸くなった。
チャートに目を戻した。
ポンドが動いた。
親司は素早くキーボードを叩いた。ポジションを閉じた。
小さな利益が出た。悪くなかった。
コーヒーをすすった。
スマホを確認した。
榊原からはまだ何もなかった。
柊澪からは深夜にもかかわらずメッセージが来ていた。
――根古さん、起きてますか。
起きてるに決まっている、と思いながら返信した。
――起きてる。
すぐに返ってきた。
――やっぱり。FXですか。
――そうだ。
――眠れないんじゃないですか。四人のこと考えて。
親司は少し考えてから返信した。
――余計なお世話だ。
――否定しないんですね。
親司はスマホを伏せた。
否定できなかった。
チャートを見ながら、頭の隅で四人の顔が揺れていた。
怒っていなかった。ただ待っていた。
ドル円が動いた。
親司はキーボードに手を伸ばした。
その瞬間、スマホが震えた。
榊原からだった。
親司はポジションを素早く確認した。今は動かせない。
電話に出た。
「待て、三分後にかけ直せ」
「え、先輩」
「ポジションがある」
沈黙があった。
「……わかりました」
電話が切れた。
親司はチャートを見た。ドル円が落ち着いてきた。
三分後、榊原からかかってきた。
「お待たせしました」
「で、身元はわかったか」
「四人のうち三人、判明しました」榊原の声が低かった。
「全員、過去五年から十年の間に失踪届が出ていた女性です」
「可児市内だけか」
「いえ、美濃加茂、可児、それと御嵩町です」
親司は黙った。
ヤマトがモニターの前に戻ってきた。
「共通点は」
「今調べています。ただ」榊原が一瞬間を置いた。
「一つだけ、気になることが」
「言え」
「三人とも、失踪前に同じ場所に出入りしていた記録があります」
「どこだ」
榊原が答えた。
親司はモニターから目を離した。
「……そこか」
「心当たりがありますか」
「ない」親司は静かに言った。「しかし行ってみる」
「先輩、一人では」
「わかってる。柊澪を連れていく」
電話を切った。
スマホにメッセージを打った。
――明日、付き合え。
柊澪からすぐに返ってきた。
――どこですか!
親司はモニターを見た。ドル円が静かになっていた。
今夜のトレードはここまでだった。
ヤマトが親司の膝に乗ってきた。
親司はヤマトの背中を撫でながら、榊原が言った場所を頭の中で繰り返した。
四人の女が共通して出入りしていた場所。
嫌な予感がした。
翌朝、柊澪と向かう場面から。
朝の八時に柊澪が軽くクラクションを鳴らした。
親司はヤマトに飯をやって、コートを羽織った。
「行ってくる」
ヤマトが食事を中断してこちらを見た。黄金色の目が細くなった。
「すぐ帰る」
ヤマトは返事をしなかった。食事に戻った。
信用されていないな、と思った。
柊澪の車に乗り込むと、助手席にコンビニの袋が置いてあった。
「おにぎりです。朝ごはん食べましたか」
「食べてない」
「やっぱり」
親司はおにぎりを受け取った。梅だった。悪くなかった。
「で、どこに行くんですか」柊澪がエンジンをかけながら言った。
「昨夜から気になって眠れなくて」
「眠れない夜が多いな、お前は」
「根古さんのせいです」
親司はおにぎりを食べながら行き先を告げた。
柊澪の手が一瞬止まった。
「……そこって」
「知ってるか」
「名前だけは」柊澪がハンドルを握り直した。
「可児市内ですよね。なんか、噂のある」
「どんな噂だ」
「出会い系というか、その、怪しい店があるとか。
女の子が何人か行方不明になったとか」柊澪が声を低くした。
「都市伝説みたいな話だと思ってたんですけど」
親司は窓の外を見た。
「都市伝説じゃなかった」
柊澪が黙った。
車が国道に出た。朝の光が山の稜線を照らしていた。
しばらく走って、柊澪が口を開いた。
「根古さん、危ないですよね、そこ」
「かもしれない」
「合気道四段です」
「わかってる」
「護身用のスタンガンも持ってます」
親司は柊澪を見た。
「何でそんなもの持ってるんだ」
「お守りです」柊澪が真顔で言った。
「心霊スポット巡りに行く時に買いました」
親司はため息をついた。
やがて車が細い路地に入った。
古いビルが並んでいた。人通りが少なかった。
朝の光が届きにくい、薄暗い一角だった。
柊澪が路肩に車を止めた。
親司は一軒の店を見た。
古びた看板が出ていた。営業しているのかどうかもわからないような外観だった。
しかし親司には見えた。
建物の周囲に、薄い気配が漂っていた。
一つではなかった。
複数の、重い気配だった。
「根古さん」柊澪が小声で言った。「ここから変な感じがします」
「ああ」
「入りますか」
親司はしばらく建物を見た。
右手がじりじりと熱くなってきた。
守護霊たちの気配が、いつもより近かった。
「まず外から見る」
二人は車を降りた。
親司はゆっくり建物に近づいた。
左足をかばいながら、壁に右手をそっと触れた。
瞬間??
流れ込んできた。
女たちの声だった。
笑い声ではなかった。
助けを求める声だった。
複数の、重なり合った声だった。
親司は壁から手を離した。
よろめいた。
柊澪がすかさず腕を支えた。
「根古さん」
「大丈夫だ」
大丈夫ではなかった。
複数から一度に流れ込んでくるのは、体への負担が違った。
深呼吸した。守護霊たちの気配を手繰り寄せた。
落ち着いてきた。
「何が見えましたか」柊澪が小声で言った。
「女たちが閉じ込められていた」親司は静かに言った。
「この建物の中で、長い時間」
柊澪が息をのんだ。
「全員が、ここから出られなかった」
沈黙が落ちた。
朝の光の届かない路地に、二人だけが立っていた。
その時、建物の中で物音がした。
二人が同時に顔を上げた。
古びたドアが、ゆっくり開いた。
中から男が出てきた。
五十代、小太りで目つきの鋭い男だった。
作業着を着ていた。親司と目が合った瞬間、表情が変わった。
「何してる、ここで」
低い声だった。
柊澪が一歩前に出た。
親司は男を見た。
右手がまた熱くなってきた。
この男から??重い気配が滲み出ていた。
建物の壁から流れ込んできたものと、同じ種類の気配だった。
親司は静かに口を開いた。
「少し、話を聞かせてもらえますか」
男の目が細くなった。
「誰だ、あんたら」
「近所の者です」
「嘘つくな」男が一歩踏み出した。
「この辺をうろついてる奴は知ってる。見たことない顔だ」
柊澪が足を肩幅に開いた。自然な動作だった。合気道の構えだった。
男がそれに気づいた。
一瞬、躊躇した。
その隙に親司はスマホを出した。榊原に短いメッセージを打った。
――来い。今すぐ。場所は送る。
男が親司のスマホを見た。
「何してる」
「連絡です」
「誰に」
「知り合いに」
男の表情が険しくなった。
柊澪が静かに言った。
「動かない方がいいですよ」
男が柊澪を見た。若い女だった。
しかし目が違った。怯えていなかった。
男が後退した。建物に戻ろうとした。
「待て」
親司の声は静かだった。しかし男の足が止まった。
親司は男を見た。
右手の熱が、頂点に達していた。
「あの女たちの声が、まだここにある」
男の顔色が変わった。
「何の話だ」
「わかってるだろう」
男が震えた。
怒りではなかった。
恐怖だった。
遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
榊原が動いた音だった。
男がサイレンに気づいた。逃げようとした。
柊澪が動いた。
一瞬だった。
男の腕が取られ、体が浮いた。
次の瞬間には地面に伏せていた。
合気道四段だった。
柊澪が男の腕を押さえたまま、振り返った。
「根古さん、これでいいですか」
親司はため息をついた。
「十分だ」
榊原の車が路地に滑り込んできた。
平巡査が飛び出してきた。状況を見て目を丸くした。
「柊澪さん、すごい」
「ありがとうございます」柊澪が明るく言った。
男を押さえたままだった。
榊原が親司の隣に立った。
「先輩、この男が」
「おそらくな」親司は建物を見た。
「中を調べろ。証拠が残っているはずだ」
榊原が安藤警部補に目配せした。
安藤が初めて、親司を真剣な目で見た。
何か言いかけて、止めた。
そのまま建物に向かった。
親司は路地の壁に背を預けた。
左足が限界だった。
柊澪が男を平巡査に引き渡して戻ってきた。
「根古さん、顔色悪いです」
「いつものことだ」
「幸恵さんに連絡します」
「余計なことをするな」
柊澪はすでにスマホを耳に当てていた。
親司はため息をついた。
建物の壁を見た。
重い気配が、少しだけ薄くなっていた。
やっと、動き出したか。
そう思った。
榊原が建物に入って十分が経った。
親司は路地の壁に背を預けたまま動かなかった。柊澪が隣に立っていた。
平巡査が男に手錠をかけて、パトカーに押し込んだ。
男はもう喋らなかった。うつむいたまま、ただ震えていた。
やがて建物から安藤が出てきた。
いつもは懐疑的な顔をしている男だった。
しかし今は違った。
青白い顔だった。
榊原が続いて出てきた。
親司のそばに来た。声が低かった。
「地下がありました」
親司は黙った。
「小部屋が複数。生活の痕跡があります。
長期間、人が閉じ込められていたと思われる
榊原が一瞬言葉を切った。
「遺留品も複数出ています。身元確認が取れれば、
ダムの四人と繋がるかもしれない」
柊澪が唇を噛んだ。
親司は建物を見た。
壁の気配が、さらに薄くなっていた。
女たちが、少しずつ解放されていくような感覚だった。
安藤が親司に近づいてきた。
長い沈黙があった。
「根古さん、でしたか」安藤が言った。
「ええ」
「どうして、ここだとわかったんですか」
親司は少し考えた。
「勘です」
安藤が親司を見た。信じていないような、
しかし否定もできないような目だった。
やがて静かに頷いた。
「そうですか」
それだけだった。
安藤が踵を返した。鑑識への指示を出し始めた。
榊原が小声で言った。
「安藤さん、ああ見えて勘のいい人です。
わかってると思います」
「わかってても言えないだろう、あの人は」
「ええ」榊原が苦く笑った。「それでいいんです」
親司は頷いた。
その時、幸恵が路地に走り込んできた。息が上がっていた。
「おじさん、柊澪ちゃんからまた無茶したって」
「してない」
「顔色見れば分かる」幸恵が親司の顔を覗き込んだ
。
「今日は有無を言わさず三峰に連れて行きます」
「仕事がある」
「FXは夜でもできるでしょう」
正論だった。
柊澪が嬉しそうに言った。
「私も行きます」
「来なくていい」
「行きます」
榊原が羨ましそうな顔をした。
「先輩、私も」
「仕事しろ」
榊原が苦笑した。
平巡査がパトカーの横でこちらを見ていた。
「根古さん」平巡査が言った。「ヤマト、元気ですか」
親司は少しだけ表情を緩めた。
「元気だ」
「よかった」平巡査が笑った。
「今日もかっこよかったです、根古さん」
「何もしてない」
「してます」
親司は答えなかった。
路地を出ると、朝の光がようやく届いていた。
建物を振り返った。
気配は、もうほとんど消えていた。
女たちが、やっと空に向かっていくような感覚だった。
親司は小さく呟いた。
「行けよ」
誰にも聞こえない声だった。
柊澪だけが、気づいたように空を見上げた。
三峰温泉の駐車場に軽自動車を滑り込ませた。平日の昼前だった。客は少ない。
親司が常連であることは、受付の女性もわかっていた。
「いらっしゃいませ、根古さん。今日は空いてますよ」
「それはいい」
タオルを受け取って脱衣所に向かった。左足をかばいながらゆっくり服を脱ぐ。鏡に映った自分を見た。
五十八歳の、どこにでもいる冴えないおじさんだった。
悪くない、と思った。
目立たないのは都合がいい。
湯船に体を沈めた瞬間、全身から力が抜けた。
熱い湯が左足の鈍痛をほぐしていく。張り詰めていた何かが、少しずつ溶けていく感覚だった。
守護霊たちの気配が戻ってきた。
いつもそうだった。体が温まると、彼らも近づいてくる。言葉はない。しかし確かな存在感が、親司の周囲にふわりと集まってくる。
頼む、と親司は心の中で言った。
もう少し力を貸してくれ。
気配が、応えるように揺れた。
目を閉じて、湯に身を委ねた。
しばらくそうしていた。
どのくらい経ったか。
「あのーっ」
突然、明るい声が響いた。
目を開けると、湯船の縁に顔が覗いていた。
若い女だった。二十代前半、元気のいい顔をしている。タオルを頭に巻いて、目を輝かせていた。
「根古親司さんですよね!?やっと見つけましたー!」
親司は湯の中で固まった。
「……誰だ」
「柊です!柊澪!大学二年生です!先輩から根古さんのことを聞いて、ずっと探してたんです!」
「女湯はあっちだ」
「露天風呂、混浴じゃないですか」柊澪は全く動じなかった。「根古さん、霊能力者なんですよね!弟子にしてください!」
親司はゆっくり深く湯に沈んだ。
できれば顔まで沈めたかった。
守護霊たちの気配が、どこかおかしそうに揺れた気がした。
親司は湯の中から顔だけ出した。
「弟子?」
「はい!」柊澪は全く悪びれない。
「合気道は四段です。体術は任せてください。根古さんの左足、カバーします」
「誰から聞いた、左足のことを」
「ミーコさんです」
親司は遠い目をした。
あの弁護士め、と思った。
「霊能力者の弟子になりたいなら、よそを当たれ」
「根古さんじゃないと駄目なんです」柊澪が真剣な顔になった。
「去年、道場で変なものを見たんです。
誰に相談しても信じてもらえなくて。でも根古さんなら」
親司は柊澪をじっと見た。
体の調子が戻りかけている。意図せず、相手の気配が流れ込んでくる。
この娘には??何かある。
霊的な感受性が、素人にしては妙に高い。
荒削りだが、本物だった。
親司はため息をついた。
「道場で見たものを話せ」
柊澪の目が輝いた。
「じゃあ弟子に??」
「話を聞くだけだ」
「はい!」
親司は湯船の端に背を預けた。
静かだった三峰温泉の露天風呂が、今日だけは少し賑やかだった。
柊澪が話し始めようとした、その時だった。
親司のスマホが湯船の縁で震えた。
榊原からだった。
「ちょっと待て」
親司は電話に出た。
「先輩、大変です」
榊原の声がいつもより低かった。
「どうした」
「秦野朋美が、安西郡司に接触しました。今、安西の自宅前にいます」
親司は湯船から体を起こした。
「郡司さんは」
「在宅しています。このままでは」
「わかった。動くな、まだ中に入れるな」
電話を切った。
柊澪が真剣な顔で見ていた。さっきまでの明るさが消えていた。
「事件ですか」
「お前は関係ない」
「合気道四段です」柊澪が立ち上がった。
「根古さんの左足では走れない」
親司は一瞬だけ考えた。
「車を出せるか」
「あります、駐車場に」
「急ぐぞ」
二人は湯から上がった。
脱衣所に向かいながら、親司は守護霊たちの気配を確認した。
さっきより、はっきりと近くにいる。
体が整ってきていた。
柊澪の車は軽自動車より新しかった。
助手席に乗り込むと、柊澪がエンジンをかけながら言った。
「場所は?」
「美濃加茂方面だ。走りながら教える」
「了解です」柊澪がハンドルを握った。「根古さん」
「なんだ」
「弟子、まだ諦めてないですから」
親司は窓の外を見た。
「……走れ」
柊澪が嬉しそうに笑った。
車が駐車場を飛び出した。
柊澪の車が路地の手前で止まった。
少し先に榊原の車が見えた。制服姿の平巡査が路肩に立っている。
親司が降りると、平巡査が駆け寄ってきた。
「根古さん、来てくださったんですね」
「朋美は中に入ったか」
「いえ、まだ玄関先です。郡司さんと話しています」
柊澪が助手席から降りた。平巡査が目を丸くした。
「あの、この方は」
「気にするな」
榊原が近づいてきた。親司の隣に立ち、低い声で言った。
「先輩、どうしますか。令状もない、任意同行を求める根拠もまだない」
「俺が話す」
「え」
「郡司さんに用があるふりをして近づく。
朋美の様子を見る」
榊原が渋い顔をした。しかし反論しなかった。
親司は路地を歩き始めた。左足をかばいながら、ゆっくりと。
柊澪が自然な動作で隣に並んだ。
玄関先に二人の人影が見えた。
郡司は青白い顔をしていた。妻を亡くしたばかりの男の顔だった。
朋美は??背を向けていたが、親司が近づくにつれ、その輪郭から気配が滲み出てきた。
昨日、駐車場で感じたものと同じだった。
執着と、恐怖と、後悔。
しかしその奥の暗いものが、昨日より濃くなっていた。
郡司が親司に気づいた。
「あの、どちら様で」
「近所の者です」親司は穏やかに言った。「郡司さんに少しご挨拶をと思って」
朋美がゆっくり振り返った。
目が合った。
昨日の駐車場とは違った。今度は逸らさなかった。
値踏みするような目だった。この男は何者か、どこまで知っているか、と測るような。
親司は表情を変えなかった。
その時、体の奥で守護霊たちの気配が強くなった。
朋美の背後に??黒いものが見えた。
霊ではない。感情だった。長年積み重なった、
どす黒い執着が形を持ったような。
親司は右手をコートのポケットに入れた。
朋美が口を開いた。
「あなた、根古さんですよね」
郡司が怪訝な顔をした。
「朋美さん、知り合いなの?」
「いいえ」朋美は微笑んだ。穏やかな、教師らしい笑顔だった。
「噂を聞いたことがあるだけ。霊能力者だって」
郡司が親司を見た。
「先ほどのお話の途中でした」朋美が郡司に向き直った。
「かえでのこと、本当に辛いです。
私にできることがあれば何でも」
親司はその背中を見た。
ヤマトがいたら、今頃毛を逆立てていた。
柊澪が親司の袖をそっと引いた。耳元で囁いた。
「根古さん、あの人から変な気配がします」
親司は小さく頷いた。
この娘の感受性は本物だった。
郡司が親司に向き直った。
「霊能力者、ですか」
戸惑いと、しかし縋りたいような目だった。
妻を突然失った男の目だった。
「そんな大したものじゃありません」親司は穏やかに言った。
「ただ、少し人より感じやすいだけで」
「かえでは」郡司の声が掠れた。「本当に事故だったんでしょうか。
警察は事故だと言っているんですが、どうも腑に落ちなくて」
朋美の背中が、わずかに強張った。
親司は感じた。
「郡司さん」朋美が割り込んだ。穏やかな声だった。
「かえでは不注意なところがあったから。
暗い道を一人で歩くような子だったし」
「そうだな」郡司が力なく頷いた。「でも調整池に何の用があったのか」
「さあ」朋美が微笑んだ。「散歩の途中だったんじゃないかしら」
嘘だった。
親司にははっきりわかった。
右手がポケットの中で、じりじりと熱くなっていた。
守護霊たちが反応していた。
「郡司さん」親司は静かに言った。「
奥さんの遺品を、少し拝見することはできますか」
郡司が目を上げた。
「遺品、ですか」
「ええ。何か感じ取れるかもしれない」
朋美がゆっくり親司を見た。
今度は値踏みではなかった。
警戒だった。
「郡司さん」朋美が静かに言った。
「こういう方の言葉を鵜呑みにするのはどうかと思いますよ。
悲しみにつけ込む人もいますから」
郡司が迷った顔をした。
親司は朋美を見た。朋美も親司を見た。
静かな、しかし確かな対峙だった。
その時、柊澪が一歩前に出た。
「根古さんはそういう人じゃありません」はっきりした声だった。
「郡司さん、奥さんのこと本当に知りたいなら、
根古さんを信じてください」
郡司が柊澪を見た。
若い娘の真剣な顔だった。
郡司が、静かに頷いた。
「上がってください」
朋美の表情が、一瞬だけ歪んだ。
親司はそれを見逃さなかった。
郡司に案内されて玄関を入った。
柊澪が続いた。
朋美も当然のように入ろうとした。
親司は振り返った。
「秦野さん」
「はい」
「申し訳ないですが、遺品を拝見する時は人数を絞りたい。気が散るので」
朋美が微笑んだ。
「そうですか。では外で待っています」
穏やかな声だった。しかし目が笑っていなかった。
ドアが閉まった。
柊澪が小声で言った。
「外で榊原さんたちが見てますよね」
「ああ」
それだけで十分だった。
郡司がリビングに案内した。こぎれいな部屋だった。子供のいない、二人暮らしの静かな空間だった。
「かえでの部屋は二階ですが」郡司が言った。「よく使っていたのはここです」
親司はリビングをゆっくり見回した。
棚に写真が飾ってあった。結婚式の写真、旅行の写真。かえでの笑顔が並んでいた。
その中に一枚、若い頃の写真があった。
大学生くらいだろうか。かえでともう一人の女が並んで笑っている。
親司は近づいた。
「郡司さん、この写真の方は」
郡司が覗き込んだ。
「ああ、朋美さんです。かえでの大学時代からの友人で」
親司は黙った。
「仲が良かったんですよ、二人は。最近また連絡を取り合うようになったみたいで」
柊澪が親司の袖をそっと引いた。
親司は頷いた。
「郡司さん、かえでさんがよく触っていたもの、何かありますか。小物でも」
郡司が少し考えた。
「これ、かな」
棚の引き出しから小さなハンカチを取り出した。レースのついた、上品なハンカチだった。
「いつもバッグに入れていたんですが、その日は忘れていったようで」
親司はハンカチを受け取った。
両手で、静かに包んだ。
目を閉じた。
今日は体の調子が戻っている。
守護霊たちが近くにいる。
ゆっくりと、意識を沈めていった。
流れ込んできた。
かえでの日常が見えた。この部屋でお茶を飲む姿。郡司と笑い合う姿。穏やかな、幸せな時間だった。
しかしある日から、影が差し始めた。
スマホを見て、表情が曇る。
朋美からのメッセージだった。
文面は見えない。しかし、かえでの感情が伝わってきた。
困惑。罪悪感。そして恐怖。
過去に戻りたくない、という強い意志。
映像が変わった。
夜の調整池だった。
今度は朋美の顔が、はっきりと見えた。
泣いていた。しかし目が、笑っていなかった。
親司は目を開けた。
郡司が心配そうに見ていた。柊澪が親司の腕をしっかり支えていた。
「根古さん、大丈夫ですか」
「ああ」
親司はハンカチを郡司に返した。
「郡司さん」
「はい」
「奥さんは、幸せでしたよ。ここで、あなたと」
郡司の目に、みるみる涙が溢れた。
親司は立ち上がった。左足に力を入れた。
「もう少しだけ、待っていてください」
次は外に出て朋美と再び対峙する場面に進みますか?
玄関を出ると、朋美はまだいた。
門柱に背を預けて、スマホを見ているふりをしていた。
しかし画面を見ていないことは、親司にはわかった。
榊原の車が路地の向こうに見えた。
平巡査が電柱の陰に立っている。
朋美が顔を上げた。
「終わりましたか」
「ええ」
親司は門を出た。柊澪が隣に並んだ。
朋美が親司の顔を見た。今度は隠さなかった。
探るような、しかし追い詰められたような目だった。
「何か、見えましたか」
静かな問いだった。
親司は立ち止まった。
「秦野さん」
「はい」
「かえでさんと、長い付き合いだったそうですね」
「ええ、大学からの友人です」
「大切な人だったんでしょう」
朋美の表情が、わずかに揺れた。
「……ええ」
「だから」親司は静かに続けた。「郡司さんのそばをなかなか離れられない」
朋美が黙った。
風が吹いた。
二人の間に、静かな緊張が流れた。
朋美が口を開いた。
「根古さん」声が低くなった。「あなたには関係のないことです」
「そうかもしれない」
「首を突っ込まない方がいい」
脅しではなかった。
懇願に近かった。
親司はその目を見た。執着と後悔と、
どうにもならない感情が滲み出ていた。
この女は、まだかえでを愛している。
だから殺した。
だから郡司のそばにいる。
親司は静かに言った。
「秦野さん、かえでさんはあのハンカチを忘れていきました」
朋美の顔色が変わった。
「その日、会う約束をしていたから。急いでいたんでしょう」
「……何が言いたいんですか」
「ただの感想です」
親司は歩き出した。柊澪が続いた。
数歩歩いたところで、背後から声がした。
「根古さん」
振り返らなかった。
「証拠はないでしょう」
朋美の声は静かだった。しかし震えていた。
親司は歩きながら答えた。
「さあ、どうでしょう」
柊澪が小声で囁いた。
「根古さん、あの人、泣いてます」
親司は前を向いたまま言った。
「知ってる」
榊原が車から降りてきた。親司と目が合った。
親司は小さく頷いた。
榊原が静かに頷き返した。
榊原が近づいてきた。
平巡査が後ろに続いた。
「先輩、どうでしたか」
「あの女だ」親司は低く言った。「間違いない」
「確信できますか」
「俺には見えた。証拠を作るのはお前たちの仕事だ」
榊原が一瞬だけ目を閉じた。長年の付き合いだった。これ以上聞かなかった。
「動機は」
「わからん」親司は正直に言った。「ただ、長い因縁だ。
古い感情のもつれだ。それだけは確かだ」
「十分です」榊原が静かに言った。「後はこちらでやります」
「頼む」
親司は榊原に背を向けた。
柊澪の車に向かいながら、ふと足が止まった。
路地の向こうに、朋美がまだ立っていた。
もう親司を見ていなかった。
ただ、安西家の玄関をじっと見ていた。
その横顔は、刑事でも霊能力者でもない、ただの女の顔だった。
長い年月、誰にも言えなかった感情を抱えてきた女の顔だった。
親司はそれ以上見なかった。
柊澪が助手席のドアを開けながら言った。
「解決、ですか」
「俺の仕事はな」
「すっきりしないですね」
「そういうもんだ」親司は乗り込んだ。「人の話はすっきりしない」
柊澪が運転席に座った。しばらく黙っていた。
やがてエンジンをかけながら言った。
「根古さん」
「なんだ」
「弟子、やっぱりお願いします」
親司はため息をついた。
「……とりあえず走れ」
柊澪が嬉しそうに笑った。
車が走り出した。
後方で榊原が、朋美に静かに近づいていくのが見えた。
平巡査が神妙な顔でその後に続いた。
親司は前を向いた。
今夜はヤマトに飯をやって、三峰温泉にもう一度浸かろうと思った。
それだけでいい。
それだけで十分だった。
所轄の署に着くと、平巡査が入口で待っていた。ご丁寧なことだと親司は思った。
「根古さん、来てくださったんですね」
「約束したからな」
平巡査が奥に案内した。廊下を歩きながら、
親司は左足をかばいつつ周囲の気配を探った古い建物だった染み付いたものがいくつかあるしかし今日は体の調子が昨日よりましだった。深く探らなければ大丈夫だ。
会議室のドアを平巡査がノックした。
「根古さんをお連れしました」
「入れ」
低い声だった。
ドアを開けると、窓を背にして男が立っていた。
四十代後半、背筋の伸びた体格の良い男だった。
しかし親司の顔を見た瞬間、その表情がわずかに緩んだ。
「先輩」
「久しぶりだな、榊原」
榊原警部が平巡査を振り返った。
「外で待て」
「はい」
ドアが閉まった。
二人きりになった途端、榊原の口調が変わった。
「無理言いました。すみません」
「いきなり殊勝だな」
「現場を見ましたか」
「見た」親司は椅子を引いて座った。左足を伸ばす。
「榊原、あれは他殺だ。幸恵さんの検視通りだ」
「わかってます」榊原も向かいに座った。「しかし上は事故で処理したがっている。
厄介な事件を抱えたくないんです」
「相変わらずだな、上は」
「先輩に頼みたいのはそこです」榊原が身を乗り出した「公式にはあなたは関係ないしかし裏から情報をもらえれば、捜査の方向を絞れる」
親司はしばらく黙った。
「犯人は女だ」
榊原の目が鋭くなった。
「かえでさんと古い付き合いの。執着を持っていた」
「執着、ですか」
「普通じゃない種類の」
榊原が静かに息を吐いた。長年の付き合いだった。
これ以上説明しなくても伝わると、二人ともわかっていた。
「安藤警部補には」
「内緒にしてください」榊原が苦い顔をした。
「あの人は霊だの何だのは信じないタイプなので」
親司は少し笑った。
「顔は、まだ見えていない。もう一度やれれば、はっきりするかもしれない」
「無理はしないでください」榊原が言った。珍しく、素直な声だった。
「先輩に倒れられたら困る」「心配するな」親司は立ち上がった。
「ヤマトの飯代くらいは稼がないといけないからな」
署を出ると、駐車場に見慣れない車が止まっていた。
紺色のコンパクトカーだった。運転席に女が座っている。
三十代後半、きちんとした身なりだった。
教師という雰囲気が滲み出ていた。
親司は気づかないふりをして軽自動車に向かった。
しかしその瞬間だった。
ぞくり、と背中に走るものがあった。
体の調子が戻りかけている日特有の感覚だった。
意図せず、周囲の気配が流れ込んでくる。
紺色の車の方向から??暗い、粘りつくような感情が漏れていた。
親司は立ち止まった。
振り返ると、女と目が合った。
一瞬だった。女はすぐに視線を逸らした。
そのままエンジンをかけ、駐車場を出ていった。
親司はその車が角を曲がるまで見送った。
ナンバーを覚えた。
軽自動車に乗り込み、スマホを出した。榊原に短いメッセージを送った。
――紺色のコンパクトカー、今そちらの駐車場から出た。ナンバーを調べてくれ。
すぐに既読がついた。
返信は一言だった。
――わかりました。
親司はエンジンをかけた。
あの女から漏れていたもの。
執着と、恐怖と、後悔が混ざったような??しかしその奥に、もっと暗いものがあった。
まだ終わっていない、という意志だった。
親司は口の中で小さく呟いた。
「まずいな」
アクセルを踏みながら、スマホが震えた。
榊原からだった。
――秦野朋美。地元の中学校教師です。安西かえでの旧友。
なぜですか。
親司は信号待ちで返信した。
――要注意人物だ。動向を見ておけ。
信号が青になった。
親司は三峰温泉に向かうことにした。
体を温めて、整えなければならなかった。次に備えて。