七月の朝、根古親司は縁側でヤマトの腹を撫でていた。
黒猫は目を細め、ごろごろと低く鳴いている。
外はもう陽射しが強く、軒先の風鈴が時おり涼しい音を立てた。
「おじさん、起きとるか」
玄関先から声がした。
太田豊だった。茶店の暖簾をくぐってきたような顔で、手ぬぐいを首にかけている。
「開いとるわ」
「鳩吹山のマタタビ、今年はよう実っとるって話やで。
常連の爺さんが言うとった。ヤマトに持って行ってやりゃええんじゃないか」
親司は縁側から動かず、ヤマトの背中を一撫でした。
「山かあ」
「足、大丈夫か」
「大丈夫じゃない日のほうが多い」
「そう言うと思って車で来た」
親司はゆっくり立ち上がった。ヤマトが不満そうに鳴いた。
「留守番しとれ」
黒猫は返事をしなかった。ただ、玄関のほうをじっと見た。
その目が少し細くなったのを、親司だけが気づいた。
鳩吹山の登山口に着いたのは九時を過ぎた頃だった。
太田が先を歩き、親司がその三歩後ろをついてゆく。左足をかばいながら、ストックを杖代わりに使っていた。
「ゆっくりでええ」と太田は言った。言いながら自分もゆっくり歩いた。
木陰に入ると風が変わった。夏の山の匂いがした。腐葉土と、どこかの花の甘い残り香と、岩の湿った冷たさが混じった匂いだった。
マタタビは沢沿いの斜面に出た。白い斑の葉が、木漏れ日の中でよく目立つ。実はまだ青く固かったが、いくつか枝ごと折って布袋に収めた。
「ヤマトが喜ぶな」と太田が言った。
「どうかな。気まぐれやから」
帰り道は登りより時間がかかった。左膝が笑い始めていた。親司は口には出さなかった。
登山口まで降りてきたところで、太田が自販機に向かった。
「何がええ」
「お茶」
親司は一人、木陰のベンチに腰を下ろした。ストックを両手で握ったまま、ふと木曽川のほうへ目をやった。
そこで、止まった。
川沿いの茂みのあたり。人が立っているわけではない。何もないはずだった。
だが、見えた。
淀んだ水の色に似た、重たいものが、茂みの根元にへばりついていた。形はない。ただ、そこにある。動かない。ずいぶん前からそこにある、そういう感じがした。
親司は目を細めた。
右手が、ひとりでにわずかに動いた。
「お茶」
太田が缶を差し出した。親司は受け取り、もう一度茂みのほうを見た。
何も見えなかった。
木漏れ日が揺れていた。
「どうした」と太田が言った。
「なんでもない」と親司は言った。
缶を開ける音がした。冷たいお茶が喉を通った。右手は、もう動いていなかった。
親司は立ち上がった。
「ちょっと待ってくれ」
「どこ行く」太田が聞いた。
「そこの藪」
「何もないぞ」
「うん」
太田は何も言わなかった。長い付き合いだった。
親司はストックをゆっくりつきながら、川沿いの斜面を下りた。
左足をかばいながら、草を踏んで茂みに近づいた。夏草が膝まであった。足元が見えない。
近づくにつれて、重たさが増した。
頭の奥が、鈍く痛んだ。
守護霊たちがざわついているのが分かった。言葉ではない。ただ、緊張が伝わってくる感じがした。
茂みの根元に来た。
雑草が群れていた。蔓が絡まっていた。
その下に、石が数個、不自然に重なっていた。誰かが置いたような並び方だった。
親司はしゃがんだ。左膝が悲鳴を上げたが、構わなかった。
石の隙間から、布のようなものが少し覗いていた。
黒ずんでいた。
腐っているのか、濡れているのか、判別できなかった。
だが、そこから出ているものが布だけではないと、親司には分かった。
右手を近づけた。触れるか触れないかの距離で、止めた。
流れ込んできた。
暗い場所。狭い。動けない。声が出ない。誰かの手。押さえつける力。それから何もない。
長い時間の、何もない。
親司は右手を引いた。
息を吐いた。
額に汗が出ていた。夏の暑さとは違う汗だった。
立ち上がろうとして、左膝が折れた。太田が後ろから支えた。いつの間にか来ていた。
「何があった」
親司はしばらく答えなかった。川の音だけがしていた。
「警察に電話してくれ」と親司は言った。「榊原さんに直接かけてくれ。所轄には先に動いてほしくない」
太田は顔色を変えなかった。ポケットから電話を出した。
「またか」
「またや」
太田が電話をかける間、親司は川のほうを見ていた。
水が光っていた。綺麗な光だった。
その綺麗さが、今は少し腹立たしかった。