ロスチャイルドのバイオリン チェーホフ 和訳 | ロシア語通訳の日記

ロシア語通訳の日記

50歳からの育ち直し。「歳だから」に負けない日々是学習

ロスチャイルドのバイオリンを深く読み込むために翻訳をしました。(自分で翻訳したものですので、翻訳著作権は侵害してないと思います)

この作品を読んで衝撃を受けました。人は人生でどれだけ後悔を吞み込んでいることでしょう。後悔しても人生は逆転しない。それを人生の終わる時にその後悔をすべて気づいてしまったらどれほど不幸でしょうか。この物語の主人公ヤコフにはマルファと言うかけがえのない妻がいたのに、顧みることがなかった。もし、もっと早く彼女の存在の大事さを認識していたらヤコフの後悔はなかったかもしれない。損だ損だとばかり考えてきた人生だったかもしれないけれど、妻との優しい生活があったら貧乏のどん底だってどんなに心は豊かに暮らせたかわからないのに。私はこの物語の主人公ヤコフのように、ああ損した、ああ駄目だった。ああ、私は何のためにと嘆いてばかりいたけれど、私にはかけがえのない人生の伴侶がいるんだ。彼と温かい生活をしていこうと思えました。ぜひ、拙訳ですが、ご一読ください。

 

 

 

ロスチャイルドのバイオリン

 

町は小さく、村よりもひどかった。住んでいるのは年寄りばかりで、めったに死なないのが忌々しくさえある。だから病院にも監獄にも棺はあまり必要なかった。一言でいうと、商売は悲惨だった。ヤコフ・イワノフが県庁所在地の棺桶屋だったなら、おそらく、彼は家を持ち、ヤコフ・マトヴェイチと呼ばれてしかるべきだったろうが、町では彼はヤコフとしか呼ばれず、通り名はなぜか、ブロンズだった。暮らし向きは貧しく、水吞百姓よろしく小さく古びた百姓家に住んでいて、家には一間しかないのだった。その一間にはヤコフとマルファがいて、ペチカ、ダブルベッド、棺、仕事台に世帯道具が詰め込まれていた。

ヤコフは上等で頑丈な棺桶をつくる。百姓や町人たちの棺桶をヤコフは自分の背丈に合わせてつくったが、一度としてしくじることはなかった。というのも、ヤコフより上背があってガタイのいい人間は何処にもいなかったからだ。それは監獄にしたって同じことだったし、ヤコフがもう齢70に達していたとしてもである。金持ちや女の棺桶は寸法を測った。その場合には鉄の物差しを使っていた。子供用の棺桶の注文を受けるのはさも嫌そうだった。ヤコフは軽蔑でもしたかのように測りもしないで直につくった。そして、毎回金を貰う時にこう言うのだ。

「正直言ってさ、つまらん仕事はしたくないのさ」

職人技以外にヤコフにちょっとした収入をもたらしているのがバイオリン演奏だった。町で結婚式が行われる時には通常ユダヤ人オーケストラが演奏した。そのオーケストラを率いているのはモイセイ・イリイチ・シャフケスだった。彼は利益の大半を自分の懐に収めていたのだが。ヤコフはバイオリンの腕がよかった、特にロシアの歌を上手く演奏したので、シャフケスは時々彼を日に50カペイカ払ってオーケストラに招いていた。客からのチップは別だった。ブロンズがオーケストラで演奏していると、すぐに汗をかき顔が上気するのである。暑かったし、むせ返るほどにんにくの匂いがした。バイオリンはキーキーと音をたて、右の耳元ではコントラバスが嗄れ声をあげ、左側ではフルートが泣いていた。フルートを吹いているのは赤毛で痩せたユダヤ人の男で赤やら青やらの血管が顔中に浮き出ているのだが、有名な金満家のロスチャイルドと同じ苗字だった。そしてこの忌々しいユダヤ人は最大限に楽しい曲さえご苦労にも悲しげなものにしてしまうのだった。なんの意味もなくヤコフはちょっとずつユダヤ人らに対して憎しみや軽蔑を持つようになっていった。特にロスチャイルドには目立ってそうだった。ヤコフは難癖をつけたり、汚い言葉で罵ったりしはじめた。一度などは殴りかけたりもした。ロスチャイルドのほうは気を悪くして、ヤコフを凶暴な目でにらみながらつぶやいた。

「もし私が貴方のバイオリンの才能に一目おいてなかったら、とっくの昔に窓の外にぶん投げていますよ」と言って泣いた。

だからブロンズがオーケストラに招かれることはそう頻繁ではなかった。ユダヤ人の中から人が見つからず、どうしても必要に迫られたときにだけ参加するといった具合だった。

ヤコフは機嫌がいいということが全くなかった。それはヤコフがいつもひどい損失を被っていたからだ。例えば、日曜と祝日に働くことは罪深いことだった。月曜は気分の重い日である。このようにして年間に200日近くは手をこまねいている日があるのだ。なんという損失か!もし誰かが町で結婚式に音楽をいれないか、あるいはシャフケスがヤコフを招かなかった場合は、これだってやっぱり損失だ。警察長官が二年も病に侵されていて衰弱してしまった。そしてヤコフはいまかいまかとその人が死ぬのを待っていた。しかしそのお偉方は県庁所在地へ治療に行き、そこで死んでしまったのだ。これも損失だ。少なくとも10ルーブルくらいは損したろう。というのも金襴を張った高い棺をつくるはずだったろうからだ。損失に関する思念は散々にヤコフを苦しめた。それは特に夜に襲ってきた。様々なつまらないことが頭を駆け巡る時などは、彼は寝床で隣にバイオリンを置いて寝た。弦に触ると、バイオリンは暗闇で音を響かせた。そうするとヤコフは少し気が楽になるのだ。

昨年の5月6日マルファが突然病みついてしまった。年老いた妻は苦しそうに息を継ぎ、水をたくさん飲んで時々ぐらついていた。しかしそれでも朝になると自分でペチカに火を起こし、水を汲みにいきさえした。そして夜になると床にふさってしまった。ヤコフは一日中バイオリンを弾いていた。全く暗くなってしまうと毎日損失を書き留めているノートを手にとり、退屈しのぎに年間の損失合計を計算し始めた。3千ルーブル以上になった。これにはヤコフは震撼してしまった。計算書を床に投げつけると足で踏みつけた。また計算書を拾い上げると指で弾いて深く張り詰めたようなため息をついた。ヤコフの顔は上気していて汗で濡れていた。もしこの損をした数千ルーブルを銀行に預けていたら、少なくとも40ルーブルは利息がついたろうにと考えた。一言で言うと、どっちを向こうが、損だらけなのだった。それ以上なにもなかった。

「ヤコフ!」とマルファが突然声をかけた。「私、死ぬわ」

ヤコフは妻をみやった。彼女の顔は熱でバラ色に火照っていた。いつもとは違って表情がはっきりとして喜んでいるような顔だった。ブロンズは青白くて弱々しく不幸そうにみえる妻の顔を見慣れていたので、今度ばかりは困惑した。彼女は実際に死にかけているようだと思われた。そして、あたかもこの百姓家から、棺桶屋から、ヤコフから永遠に逃れられるのだと喜んでいるかのように見えた。そして彼女は天井を見上げ唇をぴくぴくと動かしていた。表情は幸福げで、まさに死という名の彼女の救済者が目に映り、その救済者と言葉を交わしているのである。

もう夜明けだった。窓には朝焼けが燃えていた。老妻に目をやりながらヤコフはなぜか思い出していた。一生涯で、彼が思うに、一度として妻に優しくしたことがなかった、憐れんだこともなかった、一度としてスカーフを買ってやろうとか、結婚式から何か甘いものでも持ち帰ってやろうとしたことなかったと思った。それどころか、妻に怒鳴り声をあげ、損をしたと罵り、拳骨を握って妻に殴りかかる始末だ。実際には一度も殴ったことはなかったのだが、脅したことはあり、そのたびに彼女は恐怖ですくみあがっていた。それに、お茶を飲むように勧めもしなかった。それでなくても費用がかさむからだった。だから彼女はいつもお湯を飲んでいた。そしてヤコフはどうして妻がこんなみょうちくりんな嬉しそうな様子なのか理解した。ヤコフは慄然とした。

朝になるのを待って、彼は隣人に馬を借り、マルファを病院に連れて行った。そこには患者は多くなかったのでさほど待つこともなかった。3時間ほどで済んだ。ヤコフはとても満足したのだが、今回は患者を診るのが医者ではなくて、(自分が病気だということだったが)、看護長のマクシム・ニコライチだった。この人は老いて、町中で飲んだくれで喧嘩ばかりしているが、医者よりもよくわかっていると、噂の人物だったのだ。

「こんにちは、お願いします」と、老婆を受付に連れて行きながらヤコフは言った。「すいません、ご面倒掛けます。マクシム・ニコライチ、つまらんことをすいません。うちのが病気になりまして。人生の伴侶ってやつでして。すいません、無粋な物言いで」

白髪交じりの眉毛をしかめ、頬髯をなでながら、看護長は老婆を診察しはじめた。だが、彼女のほうは腰掛に背中を曲げて座っている。やせぎすで、鼻はとがり、口をぼんやりと開けている横顔は水を飲みたがっている鳥みたいだった。

「うーん そうさな」看護長はゆっくりとつぶやくとため息をひとつ吐いた。「インフルエンザだな、それか、熱病かもな。今、町じゃあチフスが流行っているんだよ。さてさて。婆さんは、おかげさんでこれまで暮らしてこれたんだ。いくつだい?」

「70にひとつ足りない年でさあ、ニコライチ」

「そうかい!長生きしたもんだな。そろそろ覚悟のし時だな」

「そりゃ、もちろん、ごもっともなことを言いなさる。マクシム・ニコライチ。と、ヤコフは尊敬をこめてほほ笑みながら言った。「貴方のお優しさには感激するほど感謝してますよ。でもね、お言葉ですが、どんな虫けらだって命が惜しいんですよ」

「そんなどころじゃないよ」と、看護長はあたかも婆さんの生き死には彼にかかっているとでも言った口調で言った。「だからな、頭に冷たい湿布をあててやっておくれ。それとな、これが2日分の粉薬だ。それじゃあごきげんよう」

彼の顔つきからヤコフは、見込みは悪く、どんな粉薬も助けにはならないだろうと理解した。彼にもう明らかになったのは、マルファは死ぬし、それもごく近いだろう、今日明日ということなのだろう。彼は軽く看護長をひじでつつくと、ウインクをしてひそひそ声で言った。

「マクシム・ニコライチ、婆さんに吸い玉をつけるのはどうです?」

「そんな暇ないよ。婆さんを連れて帰ってくれ。さよなら」

「お慈悲です。」ヤコフは懇願した。「ご自分だってご存じでしょう、もし婆さんの腹や内臓がどれか病んでいるなら、粉薬や水薬もいいでしょうが、なんたって婆さんは風邪なんです。風邪の時真っ先にするのは、血を出すことでしょう。マクシム・ニコライチ」

看護長はもう次の患者を呼んでいた。診察室には少年を連れた女が入ってきた。

「帰った、帰った」顔をしかめて、彼はヤコフに言った。「事を面倒にするなよ」

「だったら、ヒルでもつけてくださいな、一生恩に着ますよ!」

看護長は激怒して叫んだ。

「まだ言うか!どあほうが!」

ヤコフも激怒して真っ赤になった。しかし一言もしゃべらず、マルファの手をとると、診察室から連れ出した。荷車に乗ったとたんに、彼は厳しく皮肉っぽく病院のほうを見やっていった。

「よくもあんなのを置いたもんだ、ペテン師どもを!金持ちだったら吸い玉をつけたろうに、貧乏人にはヒル一匹もけちりやがって。人でなしめ!」

家についた時、マルファは百姓家に入ると、ペチカにつかまって10分くらい立ち尽くしていた。もし横になったら、ヤコフが損のことを言い出してただ寝ていて働かないと責めだすと思ったのだ。しかしヤコフは彼女を憂いの目で見やっていて、明日が聖者ヨアンの日だし、明後日は奇跡者ニコライの日、その翌日は日曜で、次は月曜日で気の重い日だと思い出した。四日間は仕事をできない、だが、おそらく、マルファはこの4日のいずれかで死ぬだろうと思われる。つまり棺をつくるなら今日しかないのだ。彼は鉄の状差しを手に取ると、老妻の側に歩み寄り、彼女の寸法をとった。そのあとマルファは横になり、ヤコフは十字を切ると、棺を作り出した。

仕事が終わった時、ブロンズは眼鏡をかけノートに書き留めた。

「マルファ・イワーノヴァに棺 2ルーブル40カペイカ」

そしてため息をついた。老妻はずっと黙って目をつぶって横になっていた。しかし、夜になって辺りが暗くなると、彼女は老夫を呼んだ。

「ヤコフ、覚えてるかい?と、彼女は、うれし気に夫を見て、聞いた。「覚えている? 50年前に神様が私たちに金髪の子供を授けてくれたでしょう?あの頃、私たちは川岸に座って歌を歌ったね。柳の下で。辛そうに苦笑いすると、彼女は付け加えた。「娘は死んでしまった」

ヤコフは記憶を一生懸命たどった。しかしどうやっても子供のことも、柳のことも思い出すことができなかった。

「それはお前が幻をみてるんだろ」と彼は言った。

神父がやってきて、話をはじめ、そして塗油式を行った。その後、マルファはなにかぶつぶつ不明瞭なことをつぶやき、朝になると死んだ。

隣人の女達が老婆を浄め、式服を着せて棺に納めた。坊さんに余計な金を払わないために、ヤコフは自分で詩篇を読んだ。そして墓代はとられなかった。墓守がヤコフの名付け親だったからだ。4人の男が墓場まで棺を運んだが、金をとらなかった。親切心でそうしてくれたのだ。老婆の棺の後ろを貧民、狂人が二人歩いた。行きずりの人たちが信心深く十字を切ってくれた。ヤコフはとても満足だった。なぜかというと、すべては公正に、上品に安く誰にも迷惑を掛けずに済んだ。最後にマルファとお別れをして、彼は棺を手で触り思った「上等な仕事だ」

しかし、墓地からの帰り道、強い憂愁が襲った。なんだか気分がすぐれなかった。吐息が熱く重たかった。足に力がなく喉が渇いた。そうしてるといろんな思いが頭に浮かんだ。またしても、生涯でマルファを哀れに思い優しくしなかったと思い返した。彼らが同じ屋根の下に一緒にいた52年間は長い長い時間だった。しかし、彼女のことを一顧だにせず、注意を払ってこなかった。まるでネコかイヌに対するような態度だった。なのに彼女は毎日ペチカを焚き、煮焚きをしたし、水を汲み、薪を割った。同じ寝台で一緒に眠った。結婚式から酔っぱらって帰ってきた時には、毎度、大事にバイオリンを壁にかけてくれて、彼を寝かしつけてもくれた。それもいつも黙って、弱々しい、心配げな表情を浮かべてそれをしてくれていたのだ。

ヤコフに向かって、微笑みお辞儀しながらロスチャイルドがやってきた。

「私、あなたを探してたんですよ。おじさん」と彼は言った。モイセイ・イリイチからよろしくとのことです。すぐに彼のところに来てくださいとのことです。

ヤコフはそれどころではなかった。彼は泣きたかったのだ。

「あっちへ行け!」彼は言うと先へ進んだ。

「どうしてそんなこと言うんです?」ロスチャイルドは不安を抱いて、前に駆け出してきた。「モイセイ・イリイチが気を悪くしますよ。彼らはすぐに来るように頼んでるんですから」

ヤコフは彼が喘いでいて、目をしばたたかせ、そしてたくさんの赤いそばかすがたくさんあるのに嫌悪を感じた。そして彼の暗い布のつぎあてがついた緑のフロックコートと、彼の壊れそうなデリケートそうな体つきを嫌な目つきで見た。

「なんで首突っ込んでくる?ニンニク野郎」ヤコフは叫んだ。「つきまとうな!」

ユダヤ人は激怒して自分も叫んだ。

「もう少し、落ち着いてくださいよ!じゃないと塀の向こうに飛んでくことになりますよ!」

「さっさと失せろ!」ヤコフは吠え始めた。拳を握って彼にとびかかった。「汚い野郎のせいで生きるのも嫌気がさす!」

ロスチャイルドは恐怖で固まってしまい、腰を落とし、殴られるのから守ろうとするように頭の上で手を振り回した。その後飛び上がって向こうへ一目散に駆け出していった。走りながら彼は飛び上がったり、手を打ったりしていた。彼の長い痩せた背中が震えているのが見えた。

少年たちはことを見て喜び、ユダヤ、ユダヤと叫びながら彼の後を追いかけた。犬たちも吠えながら彼のあとをついていった。誰かが笑い声を立て、つづいて口笛を吹いた。犬は一層大きく吠え、声を揃えていった。その後、きっと、犬がロスチャイルドに嚙みついたのだろう。絶望的で病的な叫び声が聞こえたのだから。

ヤコフは牧場をぶらついた。その後足の赴くままに町のはずれまで行った。少年たちが叫んだ。「ブロンズが行くぞ、ブロンズが行くぞ!」そこには川があった。シギがピーピーと鳴きながら飛びまわり、カモがガーガーと鳴いていた。太陽がじりじりと焦がれていて、水面に光が反射し、見ていられないほどだった。

ヤコフは河岸に沿って小道を通り過ぎていった。そして水浴場は丸々とした頬の赤いご婦人が出てくるのを見て、彼女について思った。「そら見ろ、かわうそめ」水浴場から近いところで少年達がザリガニを捕っていた。ヤコフを見ると、彼らは意地悪そうに「ブロンズ!ブロンズ!」と叫んだ。そうしているとネコヤナギのひらぺったい古木があった。木には大きな空洞があり、中にはカラスの巣があった。突然ヤコフの記憶の中で、生きているかのように、金髪の赤ん坊が大きくなった。そして、マルファが言っていたネコヤナギも現れた。そうだ、これはあのネコヤナギだ。青々とした、静かで、悲し気な。なんて古い木になったのだ、可哀そうに。

彼は木の下に座り思い出をたどった。向こう岸は灌漑牧草地になっているが、あの頃は大きな白樺林があったのだ。向こうにある水平線に見えている裸山にはすごく古い松林が青く見えていた。

川には前は、はしけが行き来していた。今では川岸はまっすぐで滑らかだった。向こう岸には一本だけ白樺が立っている。若くてほっそりとしたまるでどこかのご令嬢のようだ。川にはカモとガチョウがいるだけだった。かつてはしけが走っていたとは思えなかった。昔と違って、ガチョウが少なくなったように感じられた。ヤコフは目を閉じると、彼の想像の中で彼に向かって大きなガチョウの群れがいくつか飛んできた。 

一体どういうことだろうと全く彼には訝しい思いだった。というのもこの4~50年というもの一度もこの川にこなかったというのだろうか、いやもし、来ていたとして、川に注意が向かなかったというのか? 

この川は結構立派な川だし、魚釣りもできる。釣った魚は商人に売ってもよいし、官吏や駅のビュッフェだって買ってくれるだろう。そして銀行にその代金を預けてもいい。ボートに乗って屋敷から屋敷へ移動し、バイオリンを弾くのも一興だ。いろんな身分の人が金をくれたろう。はしけ船を曳いてもよかった。それなら棺桶をつくるより良かったろうし、それとも、ガチョウを飼っては、潰して、冬にはモスクワに行ってもよかった。きっと羽だけでも年に10ルーブルくらいにはなったろう。だが、男はぼーっと生きて、何もしなかった。

なんていう損害だ、なんてこった、こんな大損!もしも全部やってたら、魚もとって、バイオリンも弾いて、はしけ船も曳いて、がちょうをつぶしてたら、どれだけ資金をため込めたか!しかし夢にさえ思い浮かぶこともなかった。利益もなく人生が過ぎていった。なんの喜びもないまま、無為に過ぎていったんだ。ひとつまみのカギ煙草ほどの価値もなく、前途にはなにも残っていない。過去を振り返ってみれば、何もない。損以外、この恐ろしい損以外なにもない。おぞけさえ走るほどだ。

どうして人は損失や損害なしに生きることができないのだろう。白樺や松林はどうして切り倒されたのだろう。牧場はどうして遊んだままになっているんだ。どうして人々は必要もないことばかりやっているんだ。

なぜ、ヤコフは一生怒鳴ったり、吠えたり、拳を握って人を攻撃したり、妻を侮辱したりしたのだろう。何の必要があってさっきのユダヤ人を脅したり、辱めたのだろう。どうして人々はお互いに邪魔ばかりするのだろう。どれだけ損をするかわからないというのに。なんという損害か。憎しみや悪意がなかったら、人々はお互いから巨万の利益を得るだろうに。

その日の夕方と夜、彼は、赤ん坊、柳の木、魚、ガチョウの死骸や水を飲みたがっている小鳥そっくりのマルファのこと、青ざめて、哀れな顔のロスチャイルドを夢にみた。四方八方からいろんな顔が迫ってきて、損だ損だとヤコフに呟いていた。ヤコフは右に左に寝返りをうち、バイオリンを鳴らすために5回くらいは寝床から起き上がった。

朝になり力を振り絞って起き上がり病院に行った。マクシム・ニコラィチが頭に冷たい湿布を当てなさいと言って、粉薬をくれた。表情や口ぶりから言って、ヤコフはよくないのだと悟り、どんな粉薬も効かないとわかった。

家に帰り、彼は、死がもたらすものは利益しかないと納得した。もう食べなくていいし、飲まなくていい、金を払わなくていいし、人を侮辱もしなくていい。一年といわず、百年でも、千年でも墓穴に寝ているだけだから、利益は計り知れない。死ぬのは惜しくもなかったが、バイオリンを見たとたんに、心臓がしめつけられ残念な気持ちがした。棺桶にバイオリンをもっていくことはできない。バイオリンは孤児になってしまう。バイオリンもあの白樺林や松林のようになってしまう。この世のすべてが消滅した。もっと消滅してしまう! ヤコフは百姓家から出ると胸にバイオリンを押し当て敷居に腰かけた。過去を思い、損だらけの人生を思い、彼は何を弾いてるかわかりもせず、演奏し始めた。だが、悲し気で、感動的な曲になった。彼の頬を涙が伝った。彼が思いを強くするとそれにつられるようにバイオリンは悲しく鳴り響いた。

扉の掛け金が、一二度きしんだ。くぐり戸にロスチャイルドが姿を見せた。中庭を半分ほど勇敢に進んできたが、ヤコフを見ると急に立ち止まった。全身を縮こまらせ、おそらく恐怖からだろうが、指で今一時だと示したいのか、手でサインを出していた。

「こっちこい、なにもしない」とヤコフは優しく言って、自分のほうに手で招いた。「来いよ」

疑り深かそうに、恐怖の目で見やりながら、ロスチャイルドは近づいてきて2メーターくらいヤコフから距離をとって立ち止まった。

「どうか、お慈悲を。ぶたないでください」と、腰を下ろしながら言った。モイセイ・イリイチがまた行ってこいというのです。怖がらないで、ヤコフのところまでもう一度行って、ヤコフがいないとどうにもならないと言ってこいというんですよ。水曜に結婚式があるんです。シャポヴァロフが娘をいい家に嫁にだすんです。結婚式は豪勢なものになります。ウーウ。と言うと彼は目を片方細めた。

「無理だ」ヤコフは、苦しそうに息をしながら言った。「病みついたんだよ、兄弟」。

そしてまた弾き始めた。涙が目からバイオリンに落ちていった。ロスチャイルドは彼の傍らに立ち、胸のところに腕を組んで注意深く聴いていた。驚いた、理解できないといった彼の表情は、少しずつ、痛ましい、苦し気な表情に変わっていった。彼は目を白黒させた。それは苦しい有頂天を感じているとでも言ったようなものだった。そして「わー」とつぶやいた。涙がゆっくりと彼の頬に伝り、それは緑のフロックコートに滴り落ちていった。

その後ヤコフは一日中横になって寂寥を味わっていた。夜に神父がやってきて、懺悔を聞きながら、彼に特別に罪を犯した覚えはあるかと聞いた時、彼は薄れゆく記憶をたどると、またしてもマルファの顔と、犬に嚙まれた時のロスチャイルドの絶望的な叫びを思い出した。そして辛うじて聞こえる声で言った。

「バイオリンをロスチャイルドにやってください」

「よろしい」神父は答えた。

それから町では皆がロスチャイルドはどこであんなよいバイオリンを手に入れたんだと聞いた。買ったのか、盗んだのか、それとももしかしたら質草として手に入れたのか。

彼はだいぶん前にフルートをやめて今はバイオリンだけを弾いている。

弓からも、以前にフルートで奏でていたような悲し気な音が響いていた。しかし、彼が、ヤコフが敷居に座って演奏していた曲を再現すると、なにやら憂鬱な痛ましいものが醸し出される。そして聴衆は泣き、彼自身が曲の終わるころには目を白黒させ、「ワー」というのだった。この新しい曲は町でたいそう人気が出たので、ロスチャイルドは商人や官吏に休憩時間に招かれ、その曲を10回ずつ演奏させられるのであった。