こんばんわ 今日はある人に書きます。
今年の7月に ” 何のために ” の映画上映があり
その約一ヵ月後の8月 両監督の
鈴木七沖 さんと 案浦 豊土 くん(あんちゃん)に御呼ばれして
東京で 映画上映と 三人のトークをさせてもらいました。
そのトークの終盤に 七沖さんが 質疑応答の時間を作ってくれました。
何人かの人が質問をしてくれて そのうちの一人の男性が
僕に こう言ってくれました。
『 あえて フランキー社長と呼ばせていただきます。
あなたを見ていて マザーテレサの言葉を思い出しました。 』 と
その言葉は
” 私は大きなことは出来ないけれど この小さな手で
大きな愛を与えることはできる ” という言葉でした。
映画の僕のシーンを見て その言葉を思い出してくれたそうです。
僕は 照れながら 『 光栄です。』 と答えさせてもらいました。
最近
人の怒りや 不満などの感情によくぶつかります。
そしてその真逆にある
感謝や 安心 という感情にもよく出会います。
この感謝や安心の多くは うちの従業員から与えてもらってます。
それは 僕の独断でやりだした 感謝メッセージという
ライン上で 感謝というキーワードをもとに
朝一から 順番を決めて 従業員が 音声を録音し
その音声を聞いた次の人が また録音する。
そして アンカーである 直也 にまでバトンを渡す。
という事を 繰り返し毎日続けてもらっているからだと思います。
逆に
さっき書いたような 怒りや不満 といった 負の話は
会社外の人から 聞いたりします。
そんな事を 繰り返し感じている中
今日 ふと 昔居酒屋で 酔っ払っていた 坊主の言葉を思い出しました。
それが タイトルにも書いた
にぎればこぶし ひらけばたなごころ
” 握れば拳 開けば掌(たなごころ) ” です。
ことわざ時点で意味を引くと
物事は、その人の気持ちの持ち方や、その場の状況によって、 いといろに変化するということのたとえ。
と 書いてあります。
僕自身の経験で言います。
僕が拳を握るときといったら ほぼ 人を殴るときでした。
でも 最近は 握手をしたり 誰かに どうぞ としたり
拳を作ることが ほとんどなくなりました。
つい最近も ガンジーを平手で ぶったたきました。
何人かの若い衆が 『 ガンジー殴ったんですか? 』 と聞いてきて
僕は 『 殴ってないよ 平手だよ 』 と答えていました。
相手であるガンジーからしたら
拳でも 平手でも 同じ殴られた。 という事なんだと思いますが
僕の中では 全然違います。
拳で殴るときは 怒りが手の中にあります。
平手で殴るときは 怒りはあるけど 怒りの発散のためではありません。
よく人を殴ることを暴力といいますが
僕の中では 拳は暴力だけど 平手は暴力とは思ってません。
僕が最近であう 負の感情を表す人達は
言葉の暴力を使います。
言葉の拳です。
喧嘩でもそうです。
相手が拳で殴ってくるのに 自分が平手で殴るなんて
僕の経験上では ありません。
さっきの意味もそう
物事は、その人の気持ちの持ち方や、その場の状況によって、 いといろに変化するということのたとえ。
物事は その人の気持ちの持ち方で変化する。
相手の言葉を 拳と捉えたなら 自分も拳を出す。
そうであるなら
相手の言葉や行動に対しての 捉え方がポイントとなります。
人は基本的に 人の行動を見る時
自分がああいう行動をするとしたら こういう感情だから。
という前提で 物事を捉えます。
だからこそ たなごころ なんです。
だからこそ マザーテレサの言葉なんです。
” 大きな事は出来ないけれど この小さな手で 大きな愛を与えることはできる ”
言い換えるなら
この小さな心でも 大きな愛で 物事の捉え方を与えることはできる。
あなたが 怒りにとらわれたとき
あなたを通して 相手を見ていませんか?
あなたが 相手を許せないとき
相手を通して あなたを許せないんじゃないですか?
よく考えて欲しいんです。
怒りで解決する。もしくは 怒りで行動するのは
最後の最後でいいんですよ。
いや 最後の最後のほうがいいんですよ。
だから
あなたの中に 怒りがあって その怒りを相手に向けているのなら
それは あなたという人間の 限界が来ている という事になります。
あなたの成長を 今そこで止めても いいんですか?
怒りを出すことで 何の解決になりますか?
怒りという感情自体を否定しているわけではないですよ。
まずは 怒りがうまれるまえの その物事の見方を見てください。
その上でも怒りがでるのなら
拳でだすのではなく 平手でも 十分なんじゃないですか?
あなたの怒りは 相手を傷つける為の怒りですか?
確かに
あなたが怒りを出して 相手が反省することもあります。
それが 必要なときもあります。
でも 今がその 必要なときですか?
本当によく考えて欲しいんです。
あなたが怒りをぶつけ 相手が反省するのは
相手の成長にはなっても あなたの成長になりますか?
怒りの反対には 期待があります。
あなたが怒っているのは あなたが何かに期待があったからですよ
その期待をもてたのは 実は その怒りをぶつけたい人がいたからじゃないですか?
今 良し悪し という基準で見たら あなたの怒りはごもっともなのかもしれません。
でも 今こそ 順序 という基準で見たら
あなたが忘れていることはありませんか?
人が生きていくうえで 最も大切なことの一つですよ。
僕が何を言いたいのか わかりますか?
人は他人に期待しません。
あなたは その人に怒りを持っている。
怒りを持っているのは 期待があったから。
期待をもてたのは あなたがその人に期待したから
期待したのは あなたなんです。
あなたが期待して あなたが怒っているんです。
その人は 『 僕のここに期待していてください! 』 と
明確にあなたに伝えたことがありますか?
きっと ないでしょう。
そうです。 あなたが そこに期待したんです。
でも そこは その人の期待して欲しい所ではないかもしれませんよ。
苦手なところかもしれませんよ。
期待にこたえてもらえなくて あなたが怒るのは
あなたが 期待に応えたい。 と思っているからですよ。
だから あなたが 自分を通して相手を見ていませんか?って
もう わかってもらえましたか?あなたが忘れていることを
それは
感謝 です。
ありがとう の 反対は 当たり前 です。
あなたと 誰かが違うように
あなたの当たり前と 誰かの当たり前が違うのは当然です。
その違いに 拳を出すことが 最善ですか?
その違いに 手を開き 拳の中に握り締める その期待を
素直に伝えたほうが 良くないですか?
あなたなら きっと わかってくれるはず。
僕はそう信じています。
僕は 信じるということを
” 人 に 言う ” と理解しています。
だから 言いました。
以上です。