こんばんわ



三日前まで 四国の歩きお遍路に行ってきました。




その中で 感じたことや学んだこと また




帰ってきてからの 僕の心や頭の中にあることを 書いていきます。




最初は 我 の話です。




今日 四国から帰ってきて 初めて出社しました。




今日 水曜日は 定例のミーティングの日です。




ミーティングに途中から参加して 議長である太田さんが




僕に振ってくれたので みんなに約一ヶ月間留守にしたことの




お礼は言おうと思ってましたが ついでに話をした内容になります。




四国のお寺 88ヶ所をまわるのが 四国歩きお遍路となります。




空海さんが まわった88ヶ所だそうです。




そこを 1番から順に 88番まで 歩いてまわる修行です。




僕は歩きのみ という事にこだわってはいなかったので




時には 電車や 時にはヒッチハイク また 逆ヒッチハイクなど




普段では経験できないような 移動手段も使いました。




その中で 今年は 弘法大師1200年祭という事もあり




お寺の本堂の 奥にある なんて言うのかわからないけど




仏間のようなところが 開いていて 全部その本尊を見ることができました。




その中の何箇所は 鏡が置いてありました。




その鏡をいくつか見るうちに いろんな事を考えました。




自分が鏡の前に立ったら 何が映るのか?




当然 自分です。




鏡とは 読んだまま か が み と 書きます。




この か と が と み の 我(が)をとったら




かみ ( 神 ) となります。




もし 鏡の前に自分がたって もし 自分が透明だったら




その鏡に映るのはいったいなにか?




それは 言うまでもなく 自分が見えないものが見えます。




自分である 我 は 自分が見たいものを見て




自分ではない 神は 自分には見えていないものだとするなら




我をすてることこそ 人が生きる意味なんじゃないのか?




また




お寺さんを回っていると そのほとんどが




山の上や 山の中腹である 高いところにあります。




そこに行き着くには 時に かなり険しい山道を登ることがあります。




僕は その山道(通称 遍路道) を歩いているとき




腐るほど 毒を吐きました。




『 なんなんだ!この道は! 』 とか




『 なんでこんな高いところに作るんだ! 』 とか




自分が好き好んで 向かっているにも関わらず




毒を吐いていました。




当然 毒を吐いたからと言って 道が楽になる事もなく




仕方なく 歩き続けると いつか 着きます。




そういった 山道を登ったところにあるお寺さんに行くと




いくつかの ご褒美があります。




例えばそれは 達成感であったり 納経所で住職に




『 大変だったね ご苦労様 』 なんていう 言葉だったりなんですが




もう一つ あるのが




高いところからしか見えない 景色です。




どうしてこんな高いところにわざわざ作ったのか?




僕は仏教に詳しいわけではないので 正式な理由はわかりませんが




僕が感じたのは 広く 大きく 遠くまで見る為なんだ。




そう感じました。




多分 低いところに居る人たちからは 僕は見えない




高いところに居る僕からは 見える




それも 広く 大きく 遠くまで です。




その見える景色には 人が作ったものや 人が作ってはいないもの




色んなものが見えます。




もちろん 人の動きであったり お店や マンション 




色々です。 




それを その場に居て見ていたら 




僕は 自分の目に映る 人や店などを見て




” きっと こうなんだろうなぁ ” とか




” もっと こうしたらいいのになぁ ” なんて




自分の先入観のみで 何かを感じているでしょう。




でも 高いところから見ていると 




そういった いわゆる先入観があるからこそ見えるものが




見えなくなります。




すると 見えてくるもの 感じることが




” 幸せそうだなぁ ” とか ” いい町だなぁ ” なんて




肯定的なものに変わる自分が居ました。




さっきの 鏡の話と一緒です。




我を捨てて 物事を見ることができたなら




人はきっと 先入観なく 人の良い所や 




人の根っこにある その人の善意や愛 を見ることができる。




もしかしたら 鏡って言うのは 自分を見る為のものではなく




” 自分を見よう 自分を見よう とすればするほど 




人は まわりが見えなくなるんだよ 




我を捨てて 目に映るものを見れば 普段は見えないものが見えて




そこには 善意や愛しかないんだよ ” って事を




教える道具が 鏡の本当の意味なんじゃないかな?




そんな事を 感じました。




我というものが 不必要なものだといっているわけではありません。




必要なもので 大切なものだと思ってます。




でも




必要以上に 鏡を見ようとすると 




結果 見たくはないものが見えてくるんじゃないのか?




そんな事を 感じた お遍路日記でした。