今日の湘南は数日振りの青空。
朝起きてカーテンを開けると雨に洗われた澄んだ空が広がっていました。
何とも言えず、心が躍る感じ。
まずはちょっとさぼっていた掃除をしっかりとして、家の中だけでなく自分の内側も整える時間。
余分な物を整理して、溜まっている埃をはらい、普段届かない所も椅子に乗って拭き掃除、そうしているうちに本当に心が整ってくる。
そして準備ができたら海へ!
いつもは娘と二人で行くヨットハーバーのお散歩だけど、今日はお友達と合流して楽しい時間。
子どもとの時間を過ごして、帰りの車で寝てくれた娘をお布団に下ろしたら、私にとっては同じくらい大切な一人の時間。
書き物をしたり、こうしてBlogを書いたり。
子どもにどう育って欲しいか、よりももっと大事なことは、私がどうありたいか。
短くても一人の時間も持つことは、私がわたしらしくいられるための必要不可欠なチャージの時間だから、母としての仕事というくらいに大切、笑。
母親なのに、子どもより自分が大事なのはもってのほか・・なんてどっかでずっと思っていた。
それを意識するよりも前に、自然と自分は後回しに、本当のわたしにはいつも我慢させるのがいつしか習慣になり。
一人になりたいけれど、やらなくてはいけないことがあるから・・。
ゆるーくのんびりしていたいけど、子どもにさせなくてはいけないことがあるから・・。
そして自分にしているぶんだけ、子どもにも我慢させるし、アルベキを押し付けてしまう。
子どもが自由にしていると腹が立って、訳もなく冷たくしたりしてしまう。
自分に我慢させて、自分を大切に扱っていない時、私はどんなかと言うと・・
固まってしまい上手く笑えず作り笑いで、イライラしていて怒りが湧いてくるのにそんな自分が嫌になり勝手に落ち込む、もはや自分でもニュートラルな自分への戻し方がわからない・・そんな感じだと思います、苦笑。
そうなっちゃうのも当たり前のことだったんだなぁとやっと気付けた今。
私がわたしらしく輝いていないのに、無理して自分を大切にもせずデキル母親を演じてる、というのは本当に自分のエゴでしかなかったわけです。
結局、私をグルグルさせるのは、私が親としてちゃんとしていないと認められないのではないか、という恐れ。
それから根拠のない、子どもを自由にさせたら大変なことになる、という恐れも。
子どもは躾けて初めて一人前になり、何もわかっていない動物的状態から教育をうけてまともな人間になる、という一般的な常識に対して、私は疑問を持っています。
子どもは生まれたその時から一つの確立した人格を持っていて、大人と同等のとても尊い存在で、一人の人間としての全ての素質を備えた状態で生まれてくる、と子ども達に教えてもらったからです。
だから私は子どものことを根本的に信じているし、敬意を持って見ています。
それなのに、今でもまだまだ、アルベキに振り回されてグルグルなっていることもある。
全ては自分の問題なのですね。
私がどうありたいか、私はやっぱり笑っていたい、緩んだ暖かい自由な空気の中で子どもと笑い合っていたい。
家庭もそんな場所でありたい。
恐れを手放す時、今を生きることができ、その時には私が親としてアルベキ姿もなくなるんだと思います。
握った手の平を開いたりまた握ったりを繰り返しながら、気付けば手の中には何もない、そんな風でもいいのかもしれない。
私はただわたしとして子どものできないところを補い、楽しんで生きる姿を見せ、家族の中に生まれてくる新しい瞬間を共に味わっていきたい。
運転しながら帰る道でそんなことを考えていたら息子の笑顔が浮かんできて、何故だか涙が溢れてきて。
アルベキはいらない、ただただ私は子ども達がかわいくて仕方ないんだなぁ、そんなことを思いながら・・。
朝起きてカーテンを開けると雨に洗われた澄んだ空が広がっていました。
何とも言えず、心が躍る感じ。
まずはちょっとさぼっていた掃除をしっかりとして、家の中だけでなく自分の内側も整える時間。
余分な物を整理して、溜まっている埃をはらい、普段届かない所も椅子に乗って拭き掃除、そうしているうちに本当に心が整ってくる。
そして準備ができたら海へ!
いつもは娘と二人で行くヨットハーバーのお散歩だけど、今日はお友達と合流して楽しい時間。
子どもとの時間を過ごして、帰りの車で寝てくれた娘をお布団に下ろしたら、私にとっては同じくらい大切な一人の時間。
書き物をしたり、こうしてBlogを書いたり。
子どもにどう育って欲しいか、よりももっと大事なことは、私がどうありたいか。
短くても一人の時間も持つことは、私がわたしらしくいられるための必要不可欠なチャージの時間だから、母としての仕事というくらいに大切、笑。
母親なのに、子どもより自分が大事なのはもってのほか・・なんてどっかでずっと思っていた。
それを意識するよりも前に、自然と自分は後回しに、本当のわたしにはいつも我慢させるのがいつしか習慣になり。
一人になりたいけれど、やらなくてはいけないことがあるから・・。
ゆるーくのんびりしていたいけど、子どもにさせなくてはいけないことがあるから・・。
そして自分にしているぶんだけ、子どもにも我慢させるし、アルベキを押し付けてしまう。
子どもが自由にしていると腹が立って、訳もなく冷たくしたりしてしまう。
自分に我慢させて、自分を大切に扱っていない時、私はどんなかと言うと・・
固まってしまい上手く笑えず作り笑いで、イライラしていて怒りが湧いてくるのにそんな自分が嫌になり勝手に落ち込む、もはや自分でもニュートラルな自分への戻し方がわからない・・そんな感じだと思います、苦笑。
そうなっちゃうのも当たり前のことだったんだなぁとやっと気付けた今。
私がわたしらしく輝いていないのに、無理して自分を大切にもせずデキル母親を演じてる、というのは本当に自分のエゴでしかなかったわけです。
結局、私をグルグルさせるのは、私が親としてちゃんとしていないと認められないのではないか、という恐れ。
それから根拠のない、子どもを自由にさせたら大変なことになる、という恐れも。
子どもは躾けて初めて一人前になり、何もわかっていない動物的状態から教育をうけてまともな人間になる、という一般的な常識に対して、私は疑問を持っています。
子どもは生まれたその時から一つの確立した人格を持っていて、大人と同等のとても尊い存在で、一人の人間としての全ての素質を備えた状態で生まれてくる、と子ども達に教えてもらったからです。
だから私は子どものことを根本的に信じているし、敬意を持って見ています。
それなのに、今でもまだまだ、アルベキに振り回されてグルグルなっていることもある。
全ては自分の問題なのですね。
私がどうありたいか、私はやっぱり笑っていたい、緩んだ暖かい自由な空気の中で子どもと笑い合っていたい。
家庭もそんな場所でありたい。
恐れを手放す時、今を生きることができ、その時には私が親としてアルベキ姿もなくなるんだと思います。
握った手の平を開いたりまた握ったりを繰り返しながら、気付けば手の中には何もない、そんな風でもいいのかもしれない。
私はただわたしとして子どものできないところを補い、楽しんで生きる姿を見せ、家族の中に生まれてくる新しい瞬間を共に味わっていきたい。
運転しながら帰る道でそんなことを考えていたら息子の笑顔が浮かんできて、何故だか涙が溢れてきて。
アルベキはいらない、ただただ私は子ども達がかわいくて仕方ないんだなぁ、そんなことを思いながら・・。
