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たくさんの人に日本史を楽しんでもらいたいブログ

日本史好きの僕が、好き勝手に日本史を解説しながら、多くの人に日本史を楽しんでもらいたいと思って書いていきます。



こんばんは。

早速、 空いてしまいましたが続きを書きます。

共犯者といいますが、はっきりしていることは、

本能寺の変後、共犯者からも裏切られてしまったということです。


明智光秀の共犯者①『朝廷』


これは、割とイメージしやすいと思います。
織田信長は朝廷を権力構造から

排除しようとしていました。

ここでいう朝廷には、天皇も含まれますが、

実際に動いたのは公家衆です。特に近衛前久と言われています。


信長の動きは、当然朝廷側も把握しており、

自らの保身のため、明智光秀をそそのかしたというもの。


近衛前久は、朝廷側の最後の切り札だったといわれています。

若くして関白を勤め、このときは太政大臣として、表舞台へ再登場してました。


近衛前久を疑うのは本能寺の変後の行動によります。

まず、出家します。そして、姿をくらませます。

羽柴秀吉により明智光秀が討たれたのちにも、

京には戻らず徳川家康の庇護を受けます。

そして、1年後に徳川家康のとりなしで羽柴秀吉の許しを得て京へ戻ってます。


間違いないことは、明智光秀と羽柴秀吉の争いに巻き込まれるのを避けて

京を離れたわけではないこと。

徳川家康の庇護を受けるということは、

相当の実力者から追われていたことが想像でき、

羽柴秀吉に追われていたと考えて間違いないということ。


そして、羽柴秀吉が関白職に就くため、慣例を守るため近衛前久の養子となったことから、

やはり、大きな借りを作っていたのではないかと想像できます。



明智光秀の共犯者②『羽柴秀吉』


本能寺の変によって一番得をしたのは誰か?

ということを考えると羽柴秀吉に行きつきます。


まず、中国大返しと山崎の戦いについてですが、

織田方の諸将に本能寺の変が伝わったのは、同じようなタイミングとみられてます。

およそ2,3日後です。


ただし、秀吉の行動だけが以上に速い。

高松城の毛利軍との和睦を完了させて、全軍で引き返してます。

約10日で、明智光秀を討ち取ってます。


どうも、三木城・鳥取城の兵糧攻めや高松城の水攻めとといった

戦略と同じように扱われて納得してしまいますが、

明らかにおかしいところです。


事前の準備がなければ難しいところです。

特に中国大返しをしたときに毛利軍が背後を突かなかったことからも、

水面下で和睦交渉が進んでいたことが想像できます。

もしそうであれば、なぜ、羽柴秀吉は織田信長に援軍を求めたのか?

説明がつかなくなります。


そして、定説となっている明智方から毛利方への密使が

羽柴軍に迷い込んだといわれていること。


常識的に考えてこんな凡ミスありえないですよね。

当然、京都からの道のりでは、

羽柴軍を抜けないと毛利軍へはたどり着けません。

仮に迷い込んだのではなく捕縛したとしても、

高松城は現在の岡山市の北部です。

羽柴軍は城の北東側に布陣したといわれており、

毛利軍の援軍はに南西側に布陣したといわれてます。

密使の送り先としては、小早川隆景だと思われますが、

羽柴軍の状況次第では毛利輝元の陣(現在の倉敷市)まで

抜けることを考えれば、海岸側を回り込む経路を取るのが

確実な方法だと思われます。


なので、密使迷い込んだ説は秀吉側のでっち上げの可能性が高いです。

むしろ、明智光秀から羽柴秀吉に送られたと考えれば、

おかしい部分もなくなります。

中国大返しも含めてほぼすべて納得できます。



思いのほか長くなったので、


明智光秀の共犯者③『徳川家康』


は次回に。