病院の廊下を歩きながら

泣きたいのをこらえている私に


主人はのんきな顔でこんなことを言った。


「退院は2ヵ月後くらいかな」




主人には悪いが

バカじゃないの?と思ってしまった。



2ヵ月というのは

経過が順調であった場合の最短の日数だ。



一連の説明を聞いていて私は

2ヵ月で退院できる人なんていないに等しい

だろう、という印象を受けた。



それを

いつもは物事の最悪の状態を思い描きがちの

主人の頭の中で何がどうなって

そのような楽観的な予測が生まれるのか

不思議で仕方がなかった。



家に帰ってきてからも

主人はまるで何もなかったかのように

飄々としていた。



深い悲しみを抱えたままの私は

置いてきぼりをくらったような気分になり

家で一人で泣いた。




夜寝る前に


「今日の話聞いてどう思った?」


と主人から聞かれた。


こんなことはめずらしい。


家族の手前

私は平静を装っていたつもりだが

暗い雰囲気がもれていたのだろうか。




先生が

息子の白血病は病気としては手ごわいと

はっきり言ったこと


移植をしたら数々の苦痛や困難が

待ち受けていること


悪性二次腫瘍などで一生病気がつづくかも

しれないこと


それらのことから寛解はとても難しいと

感じたが

良くなると信じるしかないと思っている



私は主人にそう言った。



言いながら私は

今、自分の本心と違うことを言っている

と自覚した。



今日の話を聞いてどう思ったか


と聞かれて


さまざまな要因から寛解が難しいと思って

いると答えたところまでは本心だ。



良くなると信じるしかない、

これは本心じゃない。



このときの私には

良くなると信じることはできなくなっていた。



できることなら信じたい。


でもどうしても信じきることができない。


強く信じればそのようになる


そう言う人がいるが


そんなことはないと思う。


信じていたことが実現する

ということはたしかにある。


でもそれは

信じたからそうなったのではなく

すべて必然性によるものだ。



生老病死


こればかりは誰も避けることができないし

願ってどうこうできるものでもない。



こうなったら

このままの状態を受けて立とうと思った。


信じきれないのは仕方がない。


今は苦悩する時期なのだと

割り切って苦しみを抱えたままでいよう

そう決めた。


ただし

いかにも何か悩んでいるように見える

というのではなく

今まで通り明るく平常心を保つようにして

周りからはそう見えないようにするのだ。



そうして頑張っていれば

思わぬボーナスポイントがもらえる。


しかし

それは必ずしも息子が助かることと

イコールではないということだ。



それが必然性だ。