お寺に行ってきた。


願い事をひとつ、叶えてくださる

というお地蔵さまがいらっしゃるという。



私は

ふだん神社仏閣に行くことはあまりない。



何か願い事があったとして

神様仏様にお願いしたから叶うというもの

ではないと思っているからだ。



熱心に神様にお願いすることより

自分の心持ちやふだんの行いを

見直して整えることのほうが大事だと

思っている。



子どもの頃に読んだ

イソップ童話かなんかにそんな話が

あったように思う。


ある男が大金持ちになれますように、

と毎日働きもせず熱心に偶像を拝んでいた。

しかし

大金持ちどころか男はますます貧乏に

なっていく。

くそっ、こんなに拝んでいるのに

全然金持ちにならないじゃないか、

えいっ、こんなもの

男は偶像を投げつけた。

偶像はこなごなに割れてしまい

中から数枚の金貨が出てきた。

その金貨をもとに男は商売をはじめた。

そうして男は金持ちになった。


そんな話だったと思う。



私は

意思や考えを持った存在としての

神様というのはいないと思っている。


しかし

神性というのはあると思う。


それはいわば

こうすればこうなる、といった法則のような

イメージだ。


その法則において

個人のとった行動が望む結果になれば

神様がいるかのような感覚になるのだろう。



その法則として

感謝することは絶対的にいいことだと思う。


感謝するときには

法則という抽象的なものでなく

神様のようなものをイメージするほうが

やりやすい。


ある種のファンタジーだ。


かくいう私も

毎朝、神棚に水と米を供えて

神様に祈っている。




そのお地蔵さまは

よく願いを叶えてくださると聞いて

ふだん神頼みしない私でも

こんな時こそ頼んでみようか

と思ったのだ。



お札をいただいてさっそく息子に届けた。


息子にお願いのやり方を説明して

ちゃんとお願いするように、と言った。



「願い事ひとつ?そんなん

戦争のない世界になりますように、やろ」



うそやん!?



「そらそうやろ。それが一番大事や」



そんなの私イヤなんだけど。


そんなことのためにわざわざ

お寺まで行ったわけじゃない。


そんなこと、と言っては悪いが

今は世界平和より息子の命が大事だ。



願い事は

一回につきひとつだけど何回でも

お願いできるから、とりあえず今は

自分の命のことをお願いしてほしい、

と言う私に


「じゃあ、ちょっと考えてみるわ」


と息子は言い願い事は一旦保留になった。