息子が

家に帰ってきてからというもの


私は文字通り

寝ても覚めても献立のことばかり

考えるようになった。


寝る前は


(明日の朝は鮭を焼いて、お味噌汁の具は

にんじん、玉ねぎ、うすあげにしよう)


などと頭の中でぐるぐる考え


朝ごはんを作ったあとは

さあ、お昼のメニューは…


という具合だ。



実のところ

それまでも私はごはん作りのことを

考えることが多かった。


ただ

息子のためにやっているような

栄養バランスとか食材がどうこう

ということではなく


いかに使う鍋の数を少なくできるか

とか

洗うものを極力減らせる手順

とか

主人のお弁当にまわせるメニュー

といった


ずぼらゆえに

ひたすら効率を重視する偏った思考だった。



それが

息子のごはんを作るにあたっては

効率というものは捨て去らねばならなかった。



何しろ

作り置きはだめなのだ。


お味噌汁なんて

朝多めに作っておいて昼にも同じものを

温めて出したいところだが


息子にはそれはできない。


仕方がないので

朝にも昼にも汁ものは作るのだが


短時間のうちに

同じようなお味噌汁を作るのは

なんだかシャクなので


朝にお味噌汁を作ったら

昼はスープにする、というふうに

意地でも違う汁ものにする

変なこだわりは捨てられない。



私は

あまり料理が好きではないので

どうしてもパパッとやってしまいたい

効率化の鬼みたいになっていた。



しかしどうやら

ここにきてそれを手放すことが

求められているようだ。



長年のクセだったから

自分が非効率と感じることをするのは

正直ストレスだった。



しかし

考えてみるに

ごはんを作るのに時間と手間をかけて

何が悪いのだろう。


私が

朝、昼、晩と時間をかけて

ごはんを作っても誰も文句など言わない。


それどころか

家族はみな喜んでいる。


息子は

「めちゃくちゃ体に良くて

おいしいごはんやな」


と言ってくれるし


「めんどくさいのに大変やな」


と私の労力をねぎらってもくれる。



だいいち

効率よくごはん作りをしたところで


私は余った時間を

有効にフル活用しているわけでもない。



丁寧に作ったごはんは

生活の質を豊かにしてくれるだろう。


効率よく、というのは

自分が自分にはめた

足かせのようなものなのかもしれない。