このタイトルって2度目かもしれない。
昨日と今日の休日、心ポッカリのまま躰だけは十分に休ませた。
今日は予定通り、朝からスーパー銭湯「お~風~る」へ。
ワイフも付いてきました、が風呂屋では常に別行動ね。
午前中はサウナと露天風呂の合わせを2セット、それから少し早めのお昼。
もちろんオレは「ご飯」のことじゃない、そうアルコールね。
ビールはジョッキ2杯と、冷酒をば。。。。
効いたぁ~。
その後は定例の岩盤浴~チムジルバンね。
なんと岩塩浴で40分くらい寝ちゃった。
その後はチムジルバンでも30分ほど寝ちゃいましたっ!
明日からの仕事のために、躰を極力「0」に戻したつもりね。
そんなスーパー銭湯の中での一場面が、後になってイイ思いとなって残ってた。
・・・「親切」・・・
親の意見やまわりの人の意見を柔軟に吸収して信じ込むのは、だいたい12才までと言われてる。
「お風呂は毎日入るものだ」「食後には歯を磨くものだ」「挨拶は大切だ」などなど、親から言われた
ことをほぼ無条件で受け容れられるのが12才までらしい。
自我がめばえるとか、いわゆる反抗期と呼ばれるのがこの頃なんだろうな。
「ついこの間まで、よくいうことを聞いていたのに、急に言い返すようになってきた」と親が思い始める
のがこの頃だね。
子が反抗期をむかえると、親は少しずつ「個」と対話することを強いられることになる。
12才とは、一人の人間が活きていこうとする決意の歳なのかもしれない。
先日、出会ったHPにあった真言宗派のとある和尚の話。
「親切とは、心から人を思い接するさまをあらわします。
この語源は『親が子を切る』つまり親が子離れを果たすことを意味しているんです」。
と、ここで話は終わった。
前置きが少しだけ長かったかな。
オレには、「子離れ」も「親離れ」もない。
きっと、人並みの親心持ってないんだろうなぁ。
っつーことは、オレは「親切」も無いってことか・・・。
かもしれない。
今日のスーパー銭湯で、サウナでも露天風呂でも岩盤浴でも、オレは今までの自分の足跡を思い起こしてた。
感慨をもったアルバムのページが少ないこと・少ないこと。
まっイイや、今更「親切」を売り物にする歳でもない。
人に与える前に、自分が無ければしょうがないよね。
オレ自身の心の幸せを求めて、もうちょっと「親切」から遠ざかろうっと。