皆さん、おはようございます。
そして、こんにちは(^-^)
こんばんは(*´∀`)

今回は、JR有楽町駅からほど近いこちらを訪ねてみました。
(訪問日:令和2年2月17・18日。)


晴海通り(都道304号線)沿いの、JRの高架下にある昭和レトロな空間で、なぜかここだけが昭和40年代のままで時間が止まっている、貴重な場所です。


有楽コンコース。
英語で、YURAKU CONCOURSEと記載されていますが、YとKおよびEの文字が、すでにはがれ落ちてしまっています。また所々にプレート類を、過去にはがしたような跡が残っています。

まんぷく食堂前。

もちろんこのバス停は、架空のものです。

世界の願い交通安全。
街をきれいにしましょう。
昭和50年代以前は、至るところで見られた交通標語ですが、今や死語になっているような気がします。夜間もバックライトが点灯することはなく、内部の蛍光灯は使用不能なままと思われます。

この中に入ってみたいと思いますが、
その前にこちらのほうを。

昨年からたびたびご紹介している、東宝ツインタワービルですが。


なんと!
2月17日の時点で、そのシンボルかつ命ともいえる屋上のタワー部分で、解体用足場の組み立て作業が始まっていました。


富士電機の広告ネオンも覆い尽くされ、悲しい姿になってしまいました。閉鎖からまもなく2か月。着実に最期のときが近づきつつあります。まさか上から先に足場が組まれるとは、予想外の出来事でした。また低層階のラコステのお店があった部分は、完全に塞がれています。

まんぷく食堂。

アルミ板かトタン張り?(ごめんなさい。詳しいことが分かりません)の天井には、使われなくなった丸形蛍光灯の器具が、そのまま残っています。昼間でも少し薄暗い空間ですが、以前は、もう少し明るかったのかも知れません。


今回来たのが、こちらのまんぷく食堂です。
ごく初期のボンカレーは、透明パックだったようですが、こちらは昭和44年(1969年)から全国発売された改良品ですね。
以前から疑問に思っていますが、ほうろう看板は、いつ頃まで製造されていたのでしょうか?


サイケな、1970年代テイスト満載な店内です。以前は、このようなお店が数多くありましたが、いつしか見かけなくなりました。
赤いテーブルと丸椅子が、いい味を出しています。またエアコンの下にある万国旗は、くるくる回っています。


昭和レトロが好きな方には、たまらない空間ですね。(←私のことです。)たしか下北沢にも、このような雰囲気のお店があったような気がします。


私が注文したのは、ガーリックステーキです。
ランチタイムは1,000円ちょうどで、見た目以上に満腹感があります。画像にはありませんが、スープも付いてきます。


先ほどとは反対側の方に抜けます。
こちら側の有楽コンコースの英文字は、すべての文字がはがれずに残っていました。

うどん・そば慶屋。
まんぷく食堂のすぐ隣りにある、うどんとそばの慶屋です。(翌日に改めて訪問しました。一度に2食も食べるのは、ちょっときついです。)
店頭に赤い丸椅子とテーブルがありますが、私が訪ねる少し前には、外国人観光客の方が4人でテーブルを取り囲んで、食べていました。


カウンター席の照明器具。
よく見たら電球形蛍光灯を使っていましたが、私が幼い頃に住んでいたアパートには、すでに最初から蛍光灯がありました。このような灯具を使った経験はないですね。


カレーうどんです。
手打ちの細うどんで、ライスも付いてきます。

慶屋という屋号を聞いて、御徒町にある多慶屋のことを想像しましたが、おそらく両者は無関係と思われます。

おわりに。
銀座にも近い都会のど真ん中に、高度経済成長時代の名残がある、貴重な空間が今でも残っています。都内観光の参考にしていただけたら幸いです。

あなたにとって卒業ソングといえば?
■卒業式で口ずさんだ思い出の歌■
私が昭和56年(1981年)3月に、2年間お世話になった幼稚園の卒園式。(当時の幼稚園は、年中からの2年保育のみでした。)
思い出のアルバムを歌いました。
当時、NHKの教育テレビでもよく流れていた曲で、子供心に寂しい気持ちになりました。

同じ頃に、武田鉄矢さん以下海援隊が歌う、贈る言葉も一大ブームになっており、私にとっては憧れの曲でもありました。「いつか小学校を卒業するときに、歌いたいなぁ」とです。

贈る言葉は昭和54年(1979年)に発売された、3年B組金八先生のテーマ曲で、当時は校内暴力が深刻な社会問題で、一部の学校では、卒業式に警察官が立ち会っていたとか。
そんなことを知るよしもなかった、当時6歳の私に両親は、贈る言葉のレコードを買ってくれました。

そして6年後。
昭和62年(1987年)3月。
小学校の卒業式では、6年生の児童全員で、ありがとうさようならを合唱しました。
このときが一番寂しくて、悲しかったです。
小学校の先生はとても優しくて、登校班の班長だった私は下級生の世話が好きでした。(面倒なことも多少ありましたが。)
勉強もそれほど難しくなく、上下関係もあまりないですし。私にとって小学校は、もう一つの家でもありました。

それからほどなくして中学生になり、入学後すぐにあった離任式ですが、ブラスバンド部の先輩たちが、柏原芳恵さんの春なのにを演奏。
男女ともに多くの先輩が、涙を流して前任の音楽の先生との別れを惜しむ姿に、衝撃を受けました。危うくもらい泣きする寸前でした。(恥ずかしいので必死に耐えましたが、同じクラスの一部の女の子が泣いていました。)

あとから分かりましたが、前任の音楽の先生がかなりの凄腕で、多くの大会出場記録を残していたようです。

逆に新任の音楽の先生。
プレッシャーが、半端ではなかったのでは?
私が中学校の3年間教わりましたが、優しくてときに厳しく、楽しい先生でした。

そんな思い出がありますが、いずれの歌も、今でもしっかりと受け継がれているのは、喜ばしい限りです。


皆さん、ご覧くださいまして、ありがとうございました(^-^)