コンプレックスからの脱却 | ヨッティのブログ

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障害があるから自分は他の人間より劣っているとは思わない。障害は僕のコンプレックスではない。コンプレックスにも様々あるが、多くの人は劣等コンプレックスを抱えている。自分の欠点は隠したくなるのが人間の心理だと思う。劣等感を無理に抑圧して生きるのはとても息苦しいものだ。


自分で意識するつもりはなくても、無意識のうちに現実の意識に複雑に混ざり込んでいるのがコンプレックス。コンプレックスを持っている人は意識するつもりはないと言っても、心の中には現在の意識に反する感情があるのは明白。現在の意識に反する感情とは自分に対する劣等感そのものだ。


自分に対する劣等感というのは結局のところ自分の中だけの感情であると僕は思っている。他の人間への意識というよりは自分自身への意識なのではないか?と考える。自分への劣等コンプレックスって他の人間と自分を比較した成れの果てだと思う。他の人間と違う自分では何故ダメなのか、何故に他の人間と同じでなければいけないのか、僕はそこに違和感を覚える。


そもそも人間とは個々に異なる生き物であると思う。太古の祖先を辿れば異なる種から現代の人間の姿になったのかもしれない。外見の違いや言葉の違いがあるのは否めないけれど、その違いこそが人間である所以だと思う。地球上の哺乳類生物の中で、同種でこんなに多様性に満ちた生物は人間だけのような気がする。顔や身体、肌や瞳の色、声や言語、価値観や感情の違いなど多様に混在し合うのが人間社会だと思う。他の人間とは違うからダメなのではない。他とは違う自分だからこそ人間として生きる意味がある。


人間に必要な協調性って自分をはじめ輪の人間とは異なる者を排除して築くものではないと思う。協調が意味するものとは、その輪の中に多様性を如何に取り入れて共生を図るのかだと思う。偏見や差別や迫害の観念を抱く人間がいる時点で人間界における協調性は大きくバランスを崩す。


誰かに愛されたいと想う心理って人間誰もが持っていると思う。それは都合の良い心理ではなくて人間としてごく自然な感情。その感情を持ち続けて生きるのは人間として素晴らしいと思う。でもただ自分を愛してほしいと想うだけでは都合の良い感情になってしまう。


他から愛される人間になるには自分に対する劣等感を捨てること。自分から自分を愛せる人間にならないと誰からも愛されることはないと思う。一つ言えることは、あなたを愛してくれてる人が一人いれば、あなたは魅力を秘めた人間であるということになる。あなたの魅力に気付いた人がいたということだ。


自分の中にあるコンプレックスを抑え込んで強がりで生きている人もいると思います。本当は泣きたいのに強がって笑ってみせたり、本当は死ぬほど辛いのに強がって頑張ってみせたり、何故に強がるのかといえば他に愛されたい感情が何処かにあるから。


強がりは精神的な負担になってしまう気がすると思うけれど、強がりから得られる愛や幸せもあると僕は思う。例え強がりでも常に笑顔を絶やさない人、強がりでも一生懸命に頑張ってる人は周りにも好印象を与えるし好かれる人間になれると思う。人から好かれることで自分のことも自然に好きになれるような気がする。コンプレックスを捨てるって簡単なことではないけれど、自分で自分を受け入れて生きることが他の人間や社会や時代に愛される人間になれる兆しになるのではないかと思います。


僕自身も今の自分に誇りを持って生きたいし、筋ジスであることも僕にしかない個性であり、僕が他に劣る人間とは決して思いません。むしろ筋ジスあっての僕であって誇りに思いたいです。