平成という時代が始まって30年という月日が流れた。ボクは昭和の生まれだけど、平成が人生の大半を占める。その平成が終わると思えば感慨深いものがある。新年号である令和はボクにとって三つ目の時代。こうして新時代を迎えられるのは幸せなことだ。
令和はどんな年にしたいのかといえば、平成に置き忘れた後悔を取り返しにいく年にしたい。置き忘れた後悔とは、素直な自分でいられなかったことだ。平成はボクにとってはまさに青春真っ只中の時代である。10代、20代、30代は長い人生において絶頂期という年齢でもある。
ボクが10~20代の頃と比べたら今とは環境が大きく違う。障害者に対する世の中の意識や福祉環境も20~30年前と比べて様変わりしたと思う。ボクが若い頃に今のような環境であったなら、ボクの人生は全く違うものになってたのかもしれないと考えてしまうことがある。
確かに人生において選択肢は多いほうが良いに決まってるし、その選択肢が当時のボクにあったとしたら自分の意思に従って人生を歩んでいたのかもしれない。でも今になって後悔を口にしてもタラレバにしかならないし何の説得力もない。それはただ単に自分の人生の後悔を環境のせいにしてるだけとも捉えられる。
20~30年前でも自分の意思を貫いて人生を歩んだ障害者の方はたくさんいたと思う。当時のボクに強い意思があったなら、環境だの障害の壁だの意識することなく人生の選択をしていたに違いない。過去の自分に言いたいことはたくさんあるが、人生41年でボクが培ってきた経験が無駄とは思わない。人生経験は人より断然少ないが、少ないなりに色々な経験はしてるし伊達に41年は生きていない。その経験の中でもボクにしかできないような経験もたくさんある。
過去の自分への憂いなどはない。後悔を取り返しにいくとは、平成でやり残したことを令和でやり遂げるということ。後悔とは後になって悔やむことであって、まだ可能性が残ってるうちは後悔ではない。生きてる限りは可能性が消えることはないと思う。本当の後悔があるとするなら、意思を示さず行動にも移さずボクが死んだときだ。
年齢や環境や障害のせいにはしたくない。それは自分を守る盾ではないから。それを盾にしていればリスクから身を守れると勘違いしていたボクがいた。盾を翳してる時点でリスクも何もない。こちらが前に出て攻撃に転じなければリスクが振りかかることはない。リスクを恐れて盾に頼るような人生はもうウンザリだ。
令和という新時代はボクにとっても新時代と呼べるものにしたい。ボクの人生の青春時代はここから始まる。