僕の小泉今日子さんはこれだった。 | ラジオ!Yotsugi Busters!!

僕の小泉今日子さんはこれだった。




僕はとりわけ小泉今日子さんのファンではないし、あまり楽曲を知らないが唯一この曲だけはどうしても忘れることが出来ないでいる。

これは1994年にやっていたドラマ「スィートホーム」という山口智子と布施明主演の私立小学校を受けるいわゆる「お受験」物語の魁。このドラマの影響で「お受験」という言葉が広く普及したそうな。

当時、僕は小学4年生、もうこのころからすでに僕は進学塾に通わされていた。そして、二つ上の6年生のお兄ちゃんはまさに中学受験の真っ最中だった。好きなゲームもテレビも友達との遊びもすべてを取り上げられてお兄ちゃんはずっと部屋の中に籠って勉強をしていた。

お兄ちゃんが塾から帰って来て夜の9時過ぎ、遅い夕飯を食べながらテレビをつけるとこの「スィートホーム」がやっていた。このドラマは東芝日曜劇場、すなわちお兄ちゃんは日曜日も休む暇無く夜の九時まで勉強を強いられた。その二年後に僕も同じ境遇に会うのだが。

僕ら兄弟の運命はもうあの頃からブラック系企業にはいることを予期していたのかもしれない。永遠に残業と土日出勤から逃れられないのだ。

そんなときに僕らの境遇とこのドラマが似ているということで親は好んでこれをビデオに録っては見ていた。親もお兄ちゃんも当時は初めての受験でナーバスだった。

お兄ちゃんの受験が2月ごろに控えたその年の正月、全然めでたくない「あけましておめでとう」を言い合いおせちとお雑煮を食べた。「…」お兄ちゃんはもちろん一言もしゃべらない、そりゃあそうだ気が気じゃないこれから追い込みの受験勉強が始まる、テレビでおちゃらけたバラエティがやってるのにくすりとも笑わない、正月なのに浮かれることも許されない。あんなにおいしくないおせちとお雑煮を食べたのはあれが生まれて初めてだった。それまでの正月はおじいちゃんとかいとこの友達と遊べて最高に楽しかったのに。

「もうすぐ受験なんだ」というと従兄弟の人たちは「へー、すごいね」と言っていた。親戚の中で中学受験をしたのはたったの二人、それは僕とお兄ちゃんだ。でも、親はだんだん今になって気がついてると思う。私立に行かなかった従兄弟の人たちの方がずっとのびのびと生きているし、良い就職先も見つかっているし結婚もしてる。

あんなにつまらない正月を迎えた後、あれはまだ三ヶ日でさすがに塾も休みだったある日の朝、お兄ちゃんはグローブを持ち出して「キャッチボールをしにいかないか?」と僕に言った。たぶん、自分なりのストレスの解消法だったのだろう。僕は「うん」と答えてジャンパーに身を包みニット帽を被って玄関で靴を履いていた。すると、母親がいつもの甲高い声でお兄ちゃんを怒鳴りつけていた。「あんた!何やってるの!?どこにいくつもりよ!?」と。

お兄ちゃんは最初、それをうざったそうに無視してジャンパーを着たりしてやり過ごしていた。すると母親は「あんた、こんなことしてていいと思ってるの!?もうすぐ受験だってのに、何してるのよ!?」僕はただ二人を見ていた。子供にとって親は絶対だから、きっとお兄ちゃんは勉強をさぼりに行くのだなと僕は思った。「ちょっと、息抜きするだけだよ」お兄ちゃんは目を伏せたまま気だるそうに言った。

「この子は本当に!ふざけるんじゃないわよ!」と言った次の瞬間母親は泣き出してしまった。僕は母親が泣いたのを初めて見たのでかなり動揺した。お兄ちゃんも所在ない顔で下を向いていた。騒ぎを聞きつけた父親が母親を抱きかかえ「いいから、二人ともとりあえず行ってこい」と僕たちを外へ出した。母親は「なんで行かせるのよ?」と泣きながら言っていたが「まあ、いいじゃないかよ」と父親は優しくなだめながら居間へと入って行った。

僕とお兄ちゃんは白い息を吐きながら快晴の空の下、近くにあるインディアン公園に行った。インディアンのブランコがあるからインディアン公園。三ヶ日ということもあり誰もあたりを歩いてはおらず所々水たまりの表面が凍っていたりして、僕はお兄ちゃんのむっくりとしたジャンパー越しの背中を見ながら歩いていた。お兄ちゃんの背中は何か寂しげで、足取りも重く公園に着くまで一言も声を発さなかった。

公園に着くと適当な距離をとって、グローブをはめて固い硬球を投げ合った。僕はふてくされながらそれに付き合った、何故かというと母親を泣かしたお兄ちゃんを許せなかったからだ。だから、僕はお兄ちゃんの投げるボールをわざと取らなかったり、やる気の無いようにワンバウンドしてお兄ちゃんに投げ返したりとそんなことを繰り返していた。お兄ちゃんはその度に「なんだよ、もっとちゃんとやろうぜ」とか「怒ってるか?」とかそのいつものたよりなさそうな笑顔で聞いて来た。お兄ちゃんはいつでも眼鏡の奥に笑いを浮かべているのだ。

僕は状況をちゃんと把握できる年でもなかったし、とにかく母親を泣かせるお兄ちゃんを悪者だと思った。そうやってふてくされてキャッチボールをしてるとお兄ちゃんはもう諦めたようにグローブを外し「帰ろうか?」と笑いながら言った。「…」僕は無言のままだった。

お兄ちゃんはちょっと違う細い路地の方から回って家に向かった。途中で「ほら、雪がまだ残ってる」とか何かと僕に陽気を繕っていた、そのお兄ちゃんの背中は何か悲しげだった、一度も僕の顔を見ない。そして、家に帰ると睨みつける母親に「すいませんでした」と頭を下げてお兄ちゃんはそそくさと部屋にこもって勉強を再開した。

でも、今思えばお兄ちゃんはあの時、限界だったんだと思う。そりゃあ、過酷だよ、小学生なのに勉強三昧で缶詰め、息抜きにキャッチボールでもしに行こうと思ったら親に泣かれる。お兄ちゃんだってそんなつもりはないはずなのに、あのとき本当に泣きたかったのはお兄ちゃんの方だ。いったいどうすれば良い?分けもわからず塾に通わされ夜中まで帰れないで、遅い夕飯の後は復習、眠るのは夜中1,2時、遊びたいのに遊べず、私立にいったからって何だって言うんだ?

あのとき、母親は泣いて父親は「まあまあ」と軽くなだめていたのを思い返して僕は少しわかった気がする。それはあの受験戦争は母親の独り相撲だったんじゃないかって。父親はマイペースな人でどうあれこうあれ本人が良ければそれで良いと考える人で中学受験も母親の提案だった。一方で、母親は葛飾ではなく目黒出身のお嬢様なのだ、この葛飾の下町社会になじめずにいるのは子供心にわかった、その実、うちの家は近所付き合いが皆無である。たぶん、ここの人間となじめなかったのかもしれない。そしてそんな下町社会の人間達と一線を引くためにこの受験戦争のシナリオを描いたのかもしれない。簡単に言えば、見栄だ。お受験なんて親の見栄以外のなにものでもないが。

そう思うとあのとき僕はお兄ちゃんにひどいことをしてしまったなと今でも悔やまれる。野球が大嫌いな僕を連れ出してまでお兄ちゃんは誰でも良いからキャッチボールを一緒にして欲しかったんだ。そうでもしないとあのストレスを乗り切れない気持ちでいっぱいだったんだ。なのに僕ときたらただ母親を泣かせたというだけであんなふてくされた態度で…せめてあの10分間だけでもお兄ちゃんの息抜きの相手をしてあげれば良かった。

受験以来、僕らは二人ともまるで感情がなくなったように静かな子供になった。祝い事のときも何か気を抜いては行けないという強迫観念にかられる。「お前ら二人は何考えてるかわからないなあ」といとこのおっさんに言われることがある、僕らには表情が無いのだ。

全国の受験を急ぐ親御さん達へ、必ずしもあなたがよかれと思って子供にしてあげたことが本人に取って幸せだとは限りません。私立に入れたからって明るい未来が約束されてる訳じゃないし、高学歴ならその子は幸せだと思っては行けない。大事なのはのびのびと遊ぶことだ。遊びを通じて助け合い、してはいけないことや一緒に何かをやり遂げる喜びそして明るい人間性を培う。

もう一度、自分の子供の将来をよく考えてあげてください。あなたは子供に何を望みますか?高学歴?高収入?生まれる前は「健康に生まれて来てくれるならそれでいい」と願ってたじゃありませんか?そんなにわがままを言わないで、健やかに明るく優しい子であればその子は高学歴じゃなくても高収入じゃなくてもきっと楽しい人生を過ごすはずです。

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