🌙 新大久保、値段相応の夜にて
 
※イメージ写真
 
――期待という名の灯りが、静かに揺れた話
 
新大久保の夜は、いつも少し芝居がかっている。
看板の光は舞台照明のように街を照らし、
人々のざわめきは、どこか遠い国の合唱のように響く。
そんな中で僕は、一軒の韓国料理屋を選んだ。
選ぶという行為は、いつだって小さな賭けだ。
そして僕は、賭け事に向いていないことを、
なぜか毎回忘れてしまう。
 
一人前2000円の肉は、多くも少なくもなく、
“ちょうどよさ”という名の無難さを丁寧に盛りつけたようだった。
お酒は600円。
値段は悪くないが、グラスはやや小さく、
その小ささが、僕の期待をちょっとだけ縮ませた。
まるで「お前の期待なんて、この程度で十分だろ」と
グラスに言われているようで、少し悔しい。
 
味は悪くない。
肉質も、香りも、焼ける音も、
すべてが値段相応だった。
――それなのに、店を出た瞬間、胸の奥に小さな空白が生まれた。
 
これは悲劇なのか。
そんな問いがふと浮かぶ。
そして、チャップリンの言葉を思い出す。
人生はショートショットで見れば悲劇、ロングショットで見れば喜劇だ。
 
たしかに、目の前の皿だけを切り取れば、
期待と現実のわずかなズレが、
小さな失望として胸に残る。
だが、街全体をロングショットで眺めれば、
この“値段相応の夜”も、
どこか滑稽で、愛すべき喜劇の一幕に見えてくる。
 
新大久保という街は、選択肢が多すぎる。
多すぎるということは、
“もっと良いものがあったのでは”という影が
いつまでも足元にまとわりつくということでもある。
僕はその影を踏まないように歩きながら、
結局は自分で自分の足を引っかけて転びそうになる。
――これが僕の街歩きの才能らしい。
 
それでも、僕は思う。
こうした微妙なズレこそが、
旅を豊かにしてくれるのだと。
完璧な夜ばかりでは、きっと味気ない。
少しの落差、少しの後悔、少しの空白。
それらが積み重なって、
次の一軒を選ぶ目を、静かに研ぎ澄ませていく。
 
そんな経験で、僕はまた強くなる。
いや、強くなる“はずだ”と言っておこう。
強くなっていなかったら、それはそれでまた喜劇だ。
 
新大久保の雑踏を背に、
僕はゆっくりと歩き出した。
満足でも不満でもない、
あの曖昧な余韻を胸に抱えながら。