夜の十一時頃、西武新宿駅の本川越行き電車のホームが冷たい空気と熱い人間の体に満ちている。おいらはドアの開いたままで彼らが車内を満たすまで十一時二十五分までに待ち、その後、出発する。「間もなく本川越行きの電車が発車します。閉まるドアから離れてください」と言下に一人の人間は閉まるドアの隙間から駆けて四号車の中に入り込み、まばらに座っている仲間の人間を可能な限り避け、車両の端っこの席にようやく着席した。さあ、出発しよう。

 

  『やばい、やばい、バイト上がりの時間がいつもぎりぎりだから、乗り遅れるところだった。』と額の汗をワンピースの袖で拭いながら、私はくたびれた体を車両の揺れに任せた。暖房が熱い空気を私の上に吐いた。『っあつー。早く帰りたい。もう飲食店のバイト嫌だ、接客嫌いだし・・・よし、バイトルでもちょっと見てみよう』とバッグからスマホを取り出し、指を画面の上に走らせると、コマーシャルの歌い文句なんかが車両の中に流れ、座っている乗客をびっくりさせた。『びっくりした。びっくりした。音を切るのを忘れちゃった。ごめんなさい、ごめんなさい。』。私は謝る気持ちで、ペコリとしてみせたのだが、周りの乗客に迷惑そうに見られた。

 

 「間もなく鷺宮駅に到着します。ドアは左側に開きます。」

おいらはひろ子というこの人間をよく知っている。いつもこんな感じでバイト帰りしている。彼女はうっかりちゃんというか、物覚えが悪いというか、ああいう人間だ。

 

  『何あいつ、携帯の音ぐらい切れよ、まったく、隣の車両まで音が漏れるよ』と俺は、五号車の窓越しに、殺気の色しみた目を彼女にやった。俺は浮かぬ顔をしながら会社の一日を頭の中でおさらいし、苛立ちがますます募った。部長の注意だったり、後輩のミスでお客さんに怒られたり、最近俺にはそればかりでまっぴらだ。というわけで、俺は帰り電車に乗る前に、西武新宿駅の近くのバーに寄って一杯を飲んでから帰る習慣を身につけた。『電車に乗っている間は静かにしてくれよ』と俺はいつまでも続くような長いため息をつきながら睨みつづけた。

 

 「間もなく上石神井駅に到着します。ドアは左側に開きます。」

おいらはトヨフミという人間もよく知っており、彼はサラリーマンという範疇に属し、おいらのなかに、終日、うごめいている人間の範疇だ。悪気のない人間だが明け暮れて会社というものを思い、会社に悩まされつつ会社を崇めるという矛盾の塊だ。まあ、ひろ子も矛盾の塊かもしれないなあ。六号車のドアが閉まった。

 

  やっと終わった。僕は社会人になって半年も経っていないが、その半年は百年に感じられたものだ。まあ、失敗ばかりしているからあまり文句言えないかもしれない。でも今日は大失敗だった。休憩戻りに買ったばかりのカフェラテを持ちながら、上司に呼ばれた。メールの宛名を間違って関係のない客さんに見積もり書を送ってしまったようで、上司に激怒され、個人情報流出についてのレポートを書かされ、しかも今日中に送るように言われたので、こんな遅くまでずっとやっていたんだ。

 

 「間もなく田無駅に到着します。ドアは右側に開きます」

おいらは若人のリョウをここまで運び、ホームを歩く彼の後ろ姿が小さくなるまで見送り、鉄道の上を走り続けた。田無駅から車両が大そう軽くなるが、悩みを孕んだ乗客の匂いがまだ漂う。といっても、すべての人間は自分の悩みを抱えて乗車しているというわけではない。七号車の中にたった一人の人間が残っている。彼女の熱い体からいい香りが放たれている。 

 

 『今日もまた来たね。辛そうな顔をしている彼が・・・いつも同じものを頼んで、いつも同じ時間にお店に来てくれるんだ。きっと近くで働いているんだろうね。』と私は思いを巡らせて微笑した。よく来てくれるあのお客さんが、なぜか、好きになったんだ。最初はただのお客さんとして観ていたが、彼が来るたびに彼の対応をしているのはいつも私だし、あまりにも繰り返された偶然だから、いつの間にか私の日々の一部になった。『それってまさか恋愛っていうものか。』

 

 おいらはやがて本川越駅に着き、人間の乗客がそれぞれの悩みの匂いや、ときには、初恋の香りを漂わせたまま、帰るのだ。電車のおいらは、毎日、人間を長い間観察している。気づいたのは人間はおいらと少し似ている。おいらの構造の一つの大事な部分は連結器だ。車両と車両とをつなぐ部分なのだが、人間にも見えない連結器があるのだ。ひろ子、トヨフミ、リョウ、最後のあゆ美、この人の間に何かがある。ひろ子はトヨフミに帰る前のビールを注ぎ、トヨフミは後輩のリョウの失敗の責任を背負い、リョウは、同じ時間に、あゆ美に注文し、あゆ美はリョウを思うのだ。そして、最後に皆はおいらに乗ってそれぞれの家に帰るのだ。この人間はお互い知らずとも、お互いにつながているのだ。