早田ひな発言 | アジアの季節風

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アジアの片隅から垣間見える日本や中国、あるいはタイを気負うことなく淡々と語る

 今日は戦後79年目の終戦記念日。79年前の今日、ラジオから天皇陛下の玉音放送が流れ、ポツダム宣言を受け入れるとした日である。

 

 勿論この時私はまだ生まれていなかった(笑)。私が生まれたのはそれから4年余りたった昭和24年である。

 

 たまたま今日テレビを付けたらNHKで天皇皇后両陛下がご出席の、武道館で催されている全国戦没者追悼式典の映像が流されていた。

 

 テレビの中で式典の出席者が全員1分間の黙祷しているのを観ながら、私も思わずテレビの前で静かに黙祷してしまった。

 

 さて昨日から今日にかけてユーチューブなどで、パリ五輪の卓球で活躍した早田ひなさんの発言がエラく話題になっているようだ。

 

パリ五輪早田ひな「鹿児島の特攻資料館行きたい」「卓球できること、当たり前じゃない」
2024/8/13 23:23

パリ五輪卓球女子シングルスで銅、団体で銀メダルに輝いた早田ひな(24)=日本生命=が13日、帰国記者会見に出席した。

 

「いまやりたいことは」と聞かれると「アンパンマンミュージアムに、はい、ちょっとポーチを作りに行きたいなと思っているのと」と、まずは答えた。

さらに「あとは、鹿児島の特攻資料館に行って、生きていること、そして自分が卓球がこうやって当たり前にできていることというのが、当たり前じゃないというのを感じてみたいなと思って、行ってみたいなと思っています」と続け、特攻に関する資料が展示される知覧特攻平和会館を行きたい場所として挙げた。(産経ニュース)

 

 私はX(旧ツイッター)等のSNSは全くしないので、SNSの中ではどういう事を言われているのかは分からない

 

 ただこの記事を読んだ限りでは、彼女はまだ24歳の若い女性らしいが、中々しっかりした考え方をしている人だったんだなあと感心した。

 

 私が同じ歳頃の事を考えても、自分が今生きているのは戦争で亡くなった英霊たちのお陰だ等と考えたことは一度もなかった。

 

 また学校でも家庭でもそのような事を考えさせてくれるような風潮は全くなかった。

 

 私の父は正に戦争に行ってた世代で、父は海軍で乗っていた空母「瑞鶴」がレイテ沖海戦で米軍の攻撃を受けて沈没し、海に放り出された経験を持っていた。

 

 しかしその時の話を含め、兵役時代の話を父の口から聞いた記憶はただの一度もなかった。

 

 私が子供の頃は近所の父と同世代のおじさん達は、子供たちを集めて戦争体験を面白おかしく話したりしていたが、父は一切そういう事はしなかった。

 

 父にとってその経験はトラウマのようになっていて、思い出したくないものだったのではないかと私は考えている。

 

 今考えると例え父は嫌だったとしても、無理やりにでももう少し詳しく聞いておけばよかったな、と悔いは残るが今となってはもうどうしようもない。

 

 ということで父は戦争については一切口をつぐんでいたので、戦争に肯定的だったのか、否定的だったのかもよく分からない。

 

 ただ父より6歳年下で、ギリギリ徴兵を免れた叔父によると、父は戦中のある時期に日本の敗戦を予想していた、という話を聞いたことはあるが・・・。

 

 という事で私が若い頃は、左翼思想が全盛の頃だったので、特攻隊の事も戦争の犠牲者という視点しかなく、彼らのお陰で今の日本がある、などという視点は殆どなかった。

 

 そういう意味では早田ひなさんが、何処でこのような考え方を身に付けたのかはよく知らないが、多分ご両親が偉かったのかな、と想像する。