「あの白く乾いた季節」-29 | アジアの季節風

アジアの季節風

アジアの片隅から垣間見える日本や中国、あるいはタイを気負うことなく淡々と語る

        5 浮気


 私はユリとそんな風に喋っている内にまたしてもすっかり呑み過ぎてしまったようだ。


 何時もは日本酒ばかりを呑んでいて、ウィスキーを呑んだのも久しぶりだったのでペースが分からなかったというのも少しはあったかもしれない。


 兎に角気が付いたら店のカウンターの上に頭をうつ伏せて寝ていた。店の照明は薄暗くお客さんはもう誰もいないし、隣にいるはずの山本の姿も見えない。


「あら、眼が覚めた様ね」という女の声が聞こえた。ユリの声だ。


 ユリは山本が座っていた場所とは反対側のカウンターの、少し離れた所で独りでグラスに瓶ビールを注ぎながらそう言った。


「山本さんはどうしたの?帰ったの?」私はまだぼんやりとした酔った頭でユリに聞いてみた。


「ええ、もうとっくにママと一緒に帰ったわ。こいつの面倒を見てやってくれと私に頼んで」


「ああそうだのか。悪かったなあ」


「別に悪くはないわ。アパートで独り飲むより、ここでこうやってあなたの姿を見ながら飲んでいる方がまだマシだもん」


「そうか、悪いことをしたなあ、ゴメン、ゴメン。それにしても君は酒強いんだなあ」


「そんなに強いというわけではないけど、ゆっくりと呑んでるから。タキさんも呑む?」


「いやもうやめとくよ。それよりも水を一杯貰えないかな」


「そう」ユリはそう言って席を立ち、新しいコップに水を注いで私のところに持ってきてくれた。私はそれをゴクゴクと一気に飲み干した。


「ああ美味かった。もう一杯」私は空になったコップをユリの方に突きだした。


「はいはい」ユリは困ったもんだと言うような表情をしてそのコップを受け取り、また水を入れてくれた。


「ところで今何時なの?」二杯目の水を受け取った時私はユリに尋ねた。


「そうねえ、もう二時くらいじゃないかしら」


「そうか、もうそんな時間になるのか。じゃあそろそろ帰るよ」


「どうやって帰るの、もうバスもないわよ。タクシーで帰るの?」ユリは心配そうにそう聞いてきた。


「そうだなあ、タクシーしかないよね。しかしお金が殆ど無い。困ったなあ」


「だったら私のアパートに来る?狭いけど布団くらいあるから泊めてあげられるわ。アパートはここから歩いて十分くらいの所にあるから」


「そこには怖い彼氏とかがいるんじゃないの」私は冗談でそう言ってみた。


「馬鹿ねえ、そんな人いるわけないじゃない。そんな人がいたら私は今頃こんな所にはいないわよ」


「冗談だよ。じゃあそうさせてもらおうか。本当に良いの?」


「貴方さえよければ」


 と言うことで私はその夜ユリのアパートに泊めてもらうことになった。


 ユリのアパートは本人が言っていたように店から歩いて十分位の所の木造アパートの二階にあった。仕事上夜が遅くなるので、タクシー代を節約の為に店に通うのに便利な所を借りたのだろう。


 ただその分家賃も高いだろうが、総合的に考えれば安くつくとユリは考えたのかもしれない。


 玄関を入ったところに六畳程の板張りのダイニングキッチンがあり、その横にトイレがあった。そしてダイニングキッチンの奥にも六畳の和室があるという、いわゆる典型的な文化アパートだった。


 ユリはその和室の六畳を少し片づけてから、空いたスペースに自分の分と私の分の二人分の布団を敷いてくれた。


 たまにお母さんが田舎から出てきて泊ったりするので、その分の布団を一組前から用意しているのだとユリは説明した。


 私はズボンとかシャツを脱ぎ、下着だけになって布団の中に入った。入ってすぐ背後でユリが服を着替えて静かに自分の布団の中に入る気配がした。


 そんなこともあり暫く私はすぐ横で寝ているユリのことが気になって寝付きにくかったが、先ほどまでの酔いも手伝ったのかいつの間にか眠りに堕ちていた。


 それからどれほど経ったのか分からないが、まだ夜が明ける前に私の布団の中にユリがそっと入ってきたのに気がつき、私は目が覚めた。


 その時私はユリに背を向けて寝ていたので、ユリは私の背中に体を押し付けてきた。そして私のお腹に左腕を廻してぴったりと体をくっつけてきた。


 ユリの柔らかい胸とほのかに匂う女の甘い体臭が私の鼻を刺激した。「寂しいの」ユリは小さな声でそう囁いた。


 私はそんなユリに我慢できなくなって、ユリが私のお腹に廻していた左腕を自分の左手で外し、ユリの方に寝返った。そしてユリの体を両腕で強く抱きしめた。


 その明くる日、ユリは昼前に起きて私の為に簡単な食事を用意してくれた。この街に来てから誰かにそんなことをしてもらったのはその時が初めてのことだったから、そんなありきたりのことにでも私は結構感激してしまった。


 その一方でメイに対するやましい気持ちもないわけではなかった。しかしその時はそれ以上に気持ちが落ち着いていた。俺も結構俗っぽいことに弱いのかもしれない、と私は心の中で苦笑していた。


「昨夜はごめんなさい。私どうかしてたんだわ。でも黙って抱いてくれてありがとう。私寂しかったのよ」二人で食事をしながらユリがそう言った。


「わかってる。それに寂しいのは誰だって同じさ。こんな都会の中で独り生きていくのは誰にだってそんなに耐えられるもんじゃないよ。俺だって泣きたいほど寂しい時がある」


 私がそう言うとユリは穏やかな表情を作って笑った。


「これからも時々遊びに来てくれる?。店じゃなくってもいいからここに来てくれるだけで嬉しい。こうやって二人で食事が出来るだけでも私は充分幸せなのよ」


 ユリはそう言って自分の部屋の電話番号を書いたメモ用紙を私にくれた。私はそれを受け取ってズボンのポケットに入れた。


「分かった。そうするよ」


 私はその後ユリのアパートを出てそのまま直接大学に行った。その日は午後からどうしても出なければいけないゼミがあったからだ。


 ユリにはああ言ったもののその後私はその夜のことを後悔し始めた。メイに対するやましい気持ちが次第に強くなってきたからだ。


 一方メイにはないユリの母親のような優しい包容力も捨てがたい魅力だったが、さすがにこのままズルズル行ったら私の性格ではヤバイことになりそうだという思いもあった。


 だからユリのアパートの電話番号は聞いていたものの、その後ユリに電話をすることはなかった。(つづく)