子孫へのラブレター①(炭鉱町) | バァバのブログ

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ブログを書き始め、書く事の難しさ、伝える事の難しさをつくづく知りました。

57日目。100日目標まで後43日。


今日から、43日間

私自身の事を残していきたい。

読んで下さってる方達には、退屈な文章になるかと思いますが、色々書いているうちに、

こんなチャンスを与えてもらって、

今こそ、子孫へ残しておきたい私の事を書いていこうと、決めました。

全ての人達、1人1人に物語があるように、私にも

摩訶不思議な物語があります。


1957年6月

日本は高度成長期。

"五木寛之作"[青春の門]で有名な、「筑豊」で

生まれました。まだ炭鉱が栄えてて、

活気溢れる町でした。

小学校1年生の時には、列車が開通して、

日本の旗を🇯🇵持たされ、SLを迎えたのは忘れられません。

炭鉱の町は賑やかで、商店街、映画館、

子供達も多く、いつも賑やかでした。

ご近所さん達は家族のようでした。

悪い事をしたら叱ってくれたり、又たくさん褒めてくれたり、遊んでくれたり、

皆んなから育てられたと思います。


そんな中、炭鉱の落盤事故も経験しました。

タンカーで運ばれる遺体からは爆破の影響か

大きく膨らんだ体から汁のような物が滴り落ちるのも目の当たりにした事があります。

それから暫くは、炭鉱の長屋あちこちに「供花」

が飾られているので、子供ながら

(あそこの家の人も亡くなったんだ!)とわかるくらいに、賑やかな町が静まりかえったのも

忘れられません。

又、炭鉱の町の川は真っ黒な川です。

本当に真っ黒なんです。

炭を洗う工場から流れる水です。

小学校6年生卒業文集には、

(私が大人になった頃には、この川も綺麗になりきっと、魚達も戻ってくるのだろうなぁ〜)っと

書いていました。

それが今、その通りになっています。

その小学校6年生の時に炭鉱が閉山になり、炭鉱の人達は集団就職で皆んな居なくなりました。


私の父は炭鉱夫じゃなくて、役員をしていたので

最後まで残る事になります。

私は毎日のように、

駅まで、お友達のお見送りです。

一軒一軒出て行く中、今まで(遊ぼう〜)って

行っていた家が板でバツ✖︎に打ち込まれ、

本当に寂しかった。

これから、どうなるのだろう?

お友達も1人ずつ居なくなる。

お父さんも今まで見た事のないような姿で毎日お酒を飲んで帰ってくる。

賑やかで活気に溢れてた町も、短期間で

死んだ町に変わって行きました。


やっと私達家族が出て行く事になったのは、

殆どの人達が居なくなった、私が中学校入学式を終えたすぐ後の事です。


父は長男で

ずっと親の面倒を見るのだと思っていたのに、

お爺ちゃんは出て行くのを拒みました。

(お前達はこれからなんだ。頑張れ。

私達は残る。この土地で命を埋めるんだ!)

と言い張り、父は落ち込みながら、

私達家族の為に出て行く事を決めました。

これがお爺ちゃんとの永遠のお別れになるなんて思ってもいませんでした。


                 続く


今日も最後まで読んで下さり

ありがとうございました🙏


ボタ山です。



炭鉱の長屋。