概要ポイント第3講座での太田氏の言説
『宗教改革はルターに始まり、カルヴァンに受け継がれた。
カルヴァンは1543年頃に「教会改革の必要について」の論文を神聖ローマ帝国に議会と皇帝に提出。約400年後の1943年に独り娘お母様がお生まれになった。』としています。
Nick氏の記事
「カルビンを調べても、普通1543年は出てきません・・・。」
とNick氏も書いているように、簡単にはでてこないのです。
太田氏の言う「カルヴァンは1543年頃に『教会改革の必要について』の論文を神聖ローマ帝国に議会と皇帝に提出。」なんて言うのは普通に出てこないほどのマニアックな情報であるということです。
しかも「頃」です。
1542年かもしれなし、1543年かもしれないし、1544年かもしれないし、という曖昧な記述でになっています。
概要ポイントで太田氏は
『宗教改革はルターに始まり、カルヴァンに受け継がれた。』と言っています。
そこで「受け継がれたか」どうか検証してみます。
ルターは九十五か条の論題を発表して贖宥状を批判します。
聖書に「贖宥状を買えば罪が赦されて天国に行ける」とうのはない。として。
信仰義認説(人は信仰によって義とされる)
聖書主義(聖書に書いてあることだけが正しい)
とカトリックを批判し抵抗(プロテスタント)しました。
ルターがドイツで宗教改革をしている時に、
スイスではツヴィングリが宗教改革を試みて、これは失敗しましたが、ツヴィングリの宗教改革が「カルヴァンの宗教改革」につながっていくのです。
*ルターの宗教改革がカルヴァンに受け継がれたわけではありません。
カルヴァンは『キリスト教綱要』という本でキリスト教のあるべき姿を主張しました。
「予定説」「蓄財肯定」「長老制」です。
予定説は『天国に行けるかどうかは神によって最初から決まっている』というものです。
この予定説について「Nick氏」は記事で
『また、カルビンは、予定説を主張した人で、この予定説が問題を含んでいるとアボジは指摘しています。』述べています。
ルター派とカルヴァン派は違う流れで、別の派ですが同じプロテスタント呼ばれています。
両派がプロテスタントと呼ばれるのは、カトリックの「ルター派の禁止」に抗議(プロテスト)したからです。
最終的には「アウクスブルクの和議」で諸侯は「カトリック」か「ルター派」か選べるようになります。しかし、「カルヴァン派」や別な宗派を選ぶことはできませんでした。
このような史実から見ても、太田氏の『宗教改革はルターに始まり、カルヴァンに受け継がれた。』は違うと思います。
マルチンルターの宗教改革から400年後に再臨主文鮮明師誕生した、に匹敵させようと、韓総裁の誕生年の400年前の歴史的事柄を探がして、こじつけた結果です。
それは「真の父母論」をそれらしく見せる為であることは言うまでもありません。
それが「太田氏の言説(概要ポイント第3講座)」ですね。