ざっくりと宗教について
キリスト教徒
熱心な信者は聖書を読み、勉強していて、人生の疑問や悩みに対し、「私の悩みの解決に役立つ事が聖書にこのように書いてある」と発見した瞬間に、聖書にあるのは「言葉」でなく、神が私個人に与えてくれた賜物として神への信仰の確信になると。
聖書は信じなくてはいけない書物でなく、神が聖書を通して私に届けてくれた言霊として実感する書物になるのです。
仏教徒
熱心な信者は朝な夕なにお経を唱える。が、お経の内容とか、その意味を理解しなくともいい。
それは僧侶や修行者、禅僧がやることであって、信者は兎に角、有難いお経を唱える事が大事で、良い信者というのはお経の意味を探り考える事でなく、数珠を数えながら、毎日座ってお経を唱える事、何回唱えたかということが大事となる。
カルト
カリスマ 的指導者を中心とする小規模で熱狂的な会員の集まり。とうのが本来の意味です。
カルト=悪ではないのです。
新しい価値観なので、世間のこれまでの宗教的常識と一線を画す為に、一般的には中々理解を得れないために「悪」のイメージを持たれやすい。もちろん犯罪を犯すカルト教団もあるのでそれは「悪」です。
そして比較的新しい宗教は教義も論的整合性も整っている為に青年たちに響きやすい。
創価学会、モルモン教、エホバの証人、統一教会などがカルトです。
創価学会を例に挙げれば、先祖伝来の仏壇を破棄し、神社仏閣をお参りしない、祭事(祭り)にも参加しないなどと、これまでの祭事を否定するので、最初は一般世間には受け入れられなかった。輸血しないエホバの方々もバッシングにあいました。
教祖の選んだ人と合同で結婚式を挙げる???と通常の価値観では考えられない。となります。
宗教はカルトから始まり、100年から1000年で独自の文化を形成して世に根付いていきます。
これは、キリスト教しかり、仏教しかりです。
これら新興宗教に対し、日本には古来からある神道。
日本人の多くは生後1ケ月位にお宮参りをし氏子(信者)となります。
氏子(神道信者)となっている自覚はすらないし、親も氏子にした意識もありません。
が、地域の神社にお詣りしたり、お祭りを祝い、喜び、楽しむ人々は既に氏子となっています。
あまりにも古すぎて、誰が始めたのかさえ分からず、教義は風化し、行為や形式だけが残ってる。神社参拝の2礼2拍手1礼などは知っている通りです。
地鎮祭をご存じかと思います。
家を建てる時に土地を清める儀式で、四方に竹を立て、紐で括っただけですが、ここの場は神聖と決めたら神聖な場所になる。神聖だと神主を始め参加した人皆が神聖と約束した瞬間に神聖な場所になるという儀式です。誰も疑問を持たずにそういう事として行っています。
日本歴史の中で日本人に育まれてきた神道です。
八百万の神を日常化し、全てに神が宿ると考えてるので、全てを敬うことが出来るのが日本民族です。
そのような信仰観が根底にあるので、神社はもちろん、お寺にも初詣に行き、葬式にお坊さんを呼びお経をあげてもらい、結婚式は教会で行い、クリスマスも祝い、ハロウィンも楽しむことが出来るし、道端にあるお地蔵さんも大切に祀っています。
財布を拾っても届ける、災害時でもきちんと並ぶなどの高い道徳性や民度の高さは神道から来ているように思います。(新渡戸稲造は日本人の高い倫理観、道徳観は「武士道」にあると説いています。)
一般庶民も、山の神に、川の神に、海の神に、お米に感謝して生活しています。誰が見ていなくとも「お天道様が見ている」と親から子へ教えられながら繋いできたのが日本人です。
無宗教だからでなく、神道で培われた超宗教的素養が日本人にはあるという証でもあります。
改宗せずとも祝福を授けた文師の超宗教の考えと共通するよう思います。
なんでも受けれいる弊害もあります。
家庭連合日本人信者個人の元々のベースが仏教由来であると、教えを唱えるだけでいい、教会風に言えば、訓読するだけで難しい事は考えない。難しい事は教会長や教理担当のすること。となります。真の父母論の意味を深く考えない信者さんです。
キリスト教が背景にあると、やはり御言の意味を理解しようと勉強します。真の父母論は原理に照らしてどうなのか?文師の御言と比較してどうなのか?というように。
キリスト教の土台に世界基督教統一神霊協会を立てました。そこに清平の霊媒師をミックスしても矛盾なく受け入れる、このような気質を高次元に昇華させ、宗教を超えた平和運動を行うのに適してるのが日本人であることも確かです。
正しい行為や儀式は「真理」を前提としなければなりません。
間違ったものを前提にすれば、やはり間違った行為、儀式となります。
なんでも受け入れる良い気質を悪用されず、真理を見極めることも大切です。
「真の父母論」は真理ではないと思います。