教会は何故「ウソ」をつくようになったのか? | yosia621のブログ

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善にしろ悪にしろ、人が一線を越えて行動するとき、そこには理由付けが必要です。

動機付けと言ってもいいかもしれません。

 

その一つが思想です。

それが歴史観や科学に裏付けられたものと思えれば強烈な動機付けになります。

 

神を否定する共産主義思想は、暴力革命を正当化する。

殺人も厭わない。

そこには歴史観がある、闘争の歴史によて人類史は織りなされてきたと説きます。

いわゆる正反合作用。(勝共思想、統一思想は正分合作用を説く)

そして、進化論を利用し、人間はサルが進化したもので、そのサルが何故人間になれたのか?

それは、サルが道具持ち、労働を始めたからだと。

手先を使い労働することで脳が発達し、知能が向上し、人間の意識が神を作った。

だから、人類史の必然の闘争で人を殺めるとき、労働しない人間は動物(サル)であるとして、人を殺める時のハードルを下げる。

階級闘争は歴史の必然という史観、労働しない人間はサルという人間の価値に対する思想。

によって共産主義者は一線を越える。
 

統一教会が若者を魅了したのは、復帰歴史という史観があり、元々の世界は神が主管する天国だったものが、堕落によって地獄化したが、必ず天国は復帰されるという希望的教えです。

人間の価値は本来は神と同価値を有するという教え。

史観と人間価値観が統一原理にはあります。

親が泣いても会社を辞め、家を出て、何を言われようが「世界を復帰する」と行動(献身)に移しました。

ちなみに原研のメンバーは、共産主義者にゲバ棒で追いかけまわされ、たたかれたこともあるが、神を知る彼らはどこまでも言論で戦ったと聞きました。

 

ここまでは良かった。

その後、教会内に嘘が蔓延するようなりました。

 

「ウソ」は神が嫌う行為である。

本来は神が主管する教会内に「ウソ」があってはならない。

良心基準の高い人にとって「ウソ」をつくというのは一線を越える行為です。

 

献身者は「ウソ」をつきカンパを集め、「ウソ」をつき物を売り歩いた。

婦人たちは「ウソ」をついて、夫のお金を献金した。

独身者は親に「ウソ」をつき、献金した。

 

「ウソ」を正当化させるために用いられたが

「リベカの母子協助」→長子の祝福をヤコブに与えるための知恵を嘘もOKと解釈。

「タマルが娼婦と偽りユダと関係を持った」→神の血統を残すための命がけの行いを嘘もOKと解釈。

この解釈と用い方を間違えました。

復帰歴史とう史観と福音を用い「ウソ」を正当化してしまった。

 

更にこの解釈が

動機や目的が善なら、その過程に「ウソ(悪)」があっても神がとる(善)、とされた。

この解釈によって「ウソ」が肯定される事態となった。

 

その進化系で、「むしろ、善の目的を果たす為のウソは善なのだ」と、「ウソ」自体を「善」としていまった。

「ウソ」を善とすることで、「ウソ」が蔓延し、良心が麻痺し、ウソ(悪)が教会組織内を闊歩しているのです。

「ウソ」を神が善しとすると思っているなら、神の善の本質から離れたと思います。

 

これを表す言葉で「天的ウソ」とうのを聞いたことありませんか?

所属教会内では聞きなじんだ言葉です。

 

「これは神の為、摂理の為」という言い訳によって、善なる目的という衣を着て、悪を行うことで当然「良心が麻痺」した言葉です。

そして教会内では公金横領やアダムエバ問題、心情蹂躙の壁が壊されていった。

 

教会外では、嘘と実績主義が見事にマッチし霊感商法問題へ、そして過度な献金問題へ、社会問題化し、解散請求へと繋がっているように分析します。

 

神を説く教会の教えも、人の解釈の間違いから、結果神から離れている現実を知らなければならない。

ウソ(悪)を正当化させるために、善なる御言や福音を用いてはダメだったと思います。

 


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